第一幕 聖堂の転機と新司教
お久しぶりです。新作の息抜きに書いていたレツェリの過去編です。
「ふむ……」
執務を終えたレツェリは、机に積まれた書類の束を几帳面に整えると、椅子に背を預けて小さく息を吐いた。
書類の束、というにはいささか語弊があろうか? 五百枚はゆうに超えているその紙の堆積物は、ほとんど山と形容すべき量だった。
もっともそれもたった今、この司教室の小さな窓に浅くだけ光が差し込む、午前のうちに片付けきってしまったのだが。
「えッ。もう終えられたんですか!?」
甲高い声を上げたのは、やや離れたテーブルで本の整理をしている女性だ。雄大な果ての海を思わせる青い瞳に、北方の生まれと思しい緑がかった髪。年は二十歳ごろといったところか。
「エルディチカ君。君も、補佐について二ヶ月も経つのだから、いちいち驚くのはやめたまえ」
「え、ええー……そう申されましても。今日の量はちょっと異常っていうか、どう考えても三日は徹夜しないと終わらないレベルだったっていうか……」
そんなことはない、とレツェリがつまらなさげに一蹴すると、エルディチカと呼ばれた彼女は細い肩を落とした。
不死の希求者、レツェリがこの葬送協会の司教に就いてから一年近くが経つ。
彼女、エルディチカはそんなレツェリが二ヶ月前に直々に自らの補佐として指名した人物であった。
もっとも彼女に任せるのは雑務程度で、今も聖堂内にある図書館の本を整理させていた。図書館の棚に置くものと奥の倉庫にしまうものを選別する作業だが、蔵書のことなど聖堂で気にしている者はいないだろう。
誰かがやらねばならないが、わざわざやりたくはない仕事。特にやりがいもない仕事。エルディチカがこなすのはそんな雑事だ。
いつも困り眉の彼女の顔は、『そもそもどうして自分が司教の補佐についているんだろう?』という疑問がありありと浮かぶようだった。
「まァ確かに、平時より多いのは確かだがな。フン……下らないことをするものだ」
「下らない? ですか?」
言葉の意味を測りかねたエルディチカが手を止め、机を振り向く。
青い瞳に映るのは、黒髪の、面紗に似た布で顔を隠した人物。しかし表情が窺えずとも、その佇まいからは常人からかけ離れたなんらかの意志のようなものを感じ取ることができただろう。
「この書類の八割は無用な手続きだ。司教を通さずともよいもの、過去の書類から日付だけ書き換えたもの、そもそも工程そのものがでっち上げのもの。まったく無駄なことをする。作る方も手間だろうに」
「え……? 無用って……でしたらどうしてこんなものが」
「嫌がらせだ。クッ、新任司教がよほど憎らしいようだな」
エルディチカはぽかんと口を開けた。
嫌がらせ? 司教になったばかりのレツェリを疎んで? そのためにわざわざ不必要な書類を作ってまで?
「そんな……幼稚なことが、本当に?」
「驚いたかね? 組織なぞ、蓋を開ければこんなものだ。肥大化すればなおのこと。内部が腐りゆくのは必定だろうよ」
こともなげに言う。少なくとも新任司教への嫌がらせは、その手間暇と釣り合うだけのリターンは得られていないようだった。
「ですが、単に新任というだけで、不必要な仕事を押し付けられるなんて」
「今のエルディチカ君も似たようなものではないかね?」
「いえ。わたしの仕事は、誰もがやらないだけで、誰かがやらなくてはならないことです。たとえ意味が薄くても、ちっぽけでも、わたしは必要なことをしているのだと胸を張れます。ですが、司教のそれは……」
——愚直だな、君は。
レツェリはため息交じりに低く言う。その拍子に顔を覆う布が小さく揺らいだ。
「実のところ、単に新任というだけで邪魔をされているのではない。これは確固たる理由があってのことだ。もっとも、君の言う通り幼稚であることに変わりはないが」
「理由——ですか?」
「いかにも。そうだな、当てられるかね?」
エルディチカは、白い布の向こう側で、レツェリが小さく口の端を吊り上げたような気がした。彼の気まぐれなクイズを拒否することはまったくの不可能ではなかったが、立場上避けたいことでもあった。
本の選別はあとだ。彼女は眉を寄せ、うぅんと考え込む。
「……立場上の敵対。レツェリ司教の方針が意に沿わないものだから……」
「もう一歩。私の方針とは?」
「司教は……エクソシストの増員を考えておいでです。従来の修道院や孤児院上がりのルートだけでは祓魔師の人手が足りなくなりつつある現状、協会外から腕利きを募り、エクソシストとすることで戦力を増強しようと」
「その通り」
我が意を得たり、とレツェリはうなずく。
「わ、わたしも司教の方針には賛成です。この大陸には魔物のみならず、不死の怪物がいます。もとよりそれに対抗するべく我々は葬送協会と名を変えたのですから、各地の町や村を守るためにも増員は必須です」
「君が私の思想に理解を示してくれていることはわかっている。そうでなければ補佐にはしない。しかし嘆かわしいことに、この当たり前の理屈を好ましからぬと考えている輩がいるのだよ。この聖堂の内部に」
「信仰を旨とすべし……ですか?」
「君はやはり優秀だな」
なぜか顔が熱くなるのをエルディチカは感じ、「えっ」「あのっ」と変な声を出す。わたわたするエルディチカなど気にもしていないように、レツェリは続けた。
「——現在、聖堂内は二分されている。信仰と規範を重んじる原理派。それから、信仰を蔑ろにしてでもイモータルの脅威に対抗すべきだと主張する革新派」
「な、蔑ろにするわけでは……」
「あァそうだな、まさか表立って『信仰を二の次にします』と言うわけにもいかん。だが本質はそういうことだ。宗教組織が武力組織に成り代わる。私は聖堂に転機をもたらしたが、私がおらずともいずれはこの機を迎えただろうよ」
司教に着任して早々エクソシストの増員案をぶち上げたレツェリは、原理派の歴々からすれば降って湧いた厄難だろう。エルディチカのような比較的若手を中心に、同じ革新的な思想を持つ者はレツェリに賛同しているが、厄介なことに聖堂で強い立場を持つ者ほど原理派の傾向が強い。
上の者ほど信心が強い……という話ならよかったのだが、実際は権力にしがみついているのがほとんどだ。
外部の人間をエクソシストとすることは、聖堂内に新たな風を吹き込むことでもある。その風は組織の構造や力関係にまで影響を及ぼしかねない。
レツェリに嫌がらせをする歴々は、そうした聖堂内の変革を止めたいのだ。浅ましくも信仰の二文字で虚飾した既得権益を守るために。
「転機……葬送協会は今、分岐点に立っているのですね」
「そうだ。一介のシスターのままでは気が付けなかっただろうがな。トワ大陸の大聖堂より継がれた厳粛な規範など、今となっては旧態依然とした古書に過ぎん。信念に基づく信仰は尊いが、それが役に立たないなら棄てるべきだ」
それはどうあっても、司教という立場の人間が口に出していい言葉ではなかった。神に仕える者が、信仰を棄てるべきだなどと。
驚きのあまりエルディチカは声も出せず、ただレツェリの方を振り向く。するとレツェリもまた、エルディチカの方に首を向けていた。
白い布の向こうで、色のついた眼が、値踏みするように自分を見つめている。
「——っ」
そんな錯覚に駆られ、彼女は息を呑んだ。
動揺を悟ったのかそうでないのか、レツェリは自然と視線を外し、席を立つ。
声がうわずらないよう最新の注意を払いながら、エルディチカは言った。
「ど……どこか、行かれるのですか?」
「執務も終えたのでな。礼拝だよ」
やはり、エルディチカは再度言葉を失った。
補佐に任命されて二ヶ月。この司教だけは本当にわからない。信仰を棄てると言ったり、かと思えば礼拝堂へ足繁く通ったり。
「——ああ、そうだエルディチカ君。アーナック司祭のことは知っているかね?」
「え?」
そのまま執務室を出ていこうとしたレツェリだったが、ドアの手前で一度振り向き、そんなことを訊いた。
どうして急に司祭の名が出るのかはわからないが、エルディチカは素直に答える。
「は、はい。孤児院にいた頃から目をかけていただいて……最近はお会いする機会も乏しいですが、司祭にはなにかと助けていただきました」
「ほお、そうなのか。面識があるのならよかった」
「もしかして……司祭とご予定でも?」
「忘れたのかね? 五日後は大巡回布教だ。司祭ともその折に顔を合わせることになる」
「あ……そ、そうなのですか? あっ、その、申し訳ございません、大巡回布教のことはもちろん存じておりましたが、アーナック司祭がお見えになるとは知らず……」
「なにを今さら。当然のことだろう」
落胆や失望の色もない、平坦な声で告げる。
「君はこの私の補佐。そしてアーナック司祭は、協会において特に信心深い原理派の代表なのだから」
——巡り会うのは必定である、と。
慈悲のみを込めて、部屋を出るレツェリはそう言い残した。