『恋のプレゼント大作戦(後編)』
*
キッチンにおける戦いは、それから一週間も続いた。
毎朝ウラシマに稽古をつけてもらい、終われば自室でシャワーを浴びて、それからスズウミとお菓子作り。それがここ最近のソニアの習慣になっている。
ソニアの根気も相当なものだったが、毎日付き合うスズウミも律儀なものだ。この件が終われば、なにかお礼をしようとソニアは決めていた。
稽古の最中に事情を聞いて、ウラシマがお菓子作りにまで付き合ってくれることもあった。だが彼女は『脇が甘い』『腰が入ってない』『重心がブレている』といったイマイチ料理とは関係のないアドバイスしかしないので、あんまり役には立たなかった。
そうして七日目、おそらく四十は超えたであろう試作品を口にしつつ、スズウミはソニアに言った。
「あたしから提案しといてなんですけど。やっぱこれ、店で買った方が早いかもしんないっすねー……」
「う……」
今回も失敗だったようだ。今のは珍しく、形だけはそれなりによくできていたのだが。
「すみません、わたしが不器用なばっかりに」
「なにごとにも向き不向きはあるっすよ。謝ることじゃないっす。でも、ソニアさんはただでさえ毎朝戦いの訓練をしてるんだし、これ以上苦労することもないって思うっす」
ウラシマの稽古は楽ではない。ソニアが連日、疲労した体で無理をしているのはスズウミの目からも明らかだった。
だからこそ、その小さな体を気遣い、もうここでお菓子作りはやめにするべきだとスズウミは進言した。
しかし——ふるふると、ソニアは首を横に振る。
「心配してくれてありがとうございます。ですが、意固地かもしれませんけど、わたし……まだあきらめたくないんです」
断固たる決意。双眸に宿る光は、まだまだ挑戦の火を灯していた。
「以前、イドラさんがお菓子を食べさせてくれた時のうれしさ……あれは菓子がおいしいからじゃなくって、イドラさんがわたしに気を遣ってくれたことがうれしかった。同じように、わたしはイドラさんのためになにかしたいんです」
これ以上苦労することはない、とスズウミは言った。
だがソニアは、イドラのためにその苦労をこそ積み上げたいのだ。
「ソニアさん……そこまでイドラさんのことが」
感銘を受けたように、スズウミはソニアの瞳をじっと見つめる。
それから表情を緩め、立ち上がった。
「そこまで言うんなら、やるしかないっすね。いっちょもう一度、チャレンジするっすよ」
「はいっ、ありがとうございます。今度こそ……!」
「よーし、あたしもここまで来たらとことんまで付き合うっすよー!」
意気込むふたり。真剣そのものの表情でキッチンに立つふたりは、いつの間にか初日よりもずっと打ち解け、すぐ隣で肩を並べる。
方舟の中で、少女と呼べるふたりのような年齢の人間は珍しい。
生まれた世界は違えど、年の近いふたりが友人になるのは、もしかすると必然だったのかもしれない。
「よしっ。生地、流し入れました!」
「オーブンの余熱は済ませてるっす!」
型に入れた生地を焼き上げること三十分ほど。
完成したそれはしかし、匂いこそ香ばしいものの、表面がひび割れ、ほとんど膨らんでもいなかった。
「うぅー……これは、また失敗ですね」
「でも着実によくなってはきてるっす。きっと今回は生地の混ぜすぎっすね、肩の力を抜くべきかもしれないっす」
「なるほど——力みすぎてもよくない。刀を抜くときとおんなじ、ですね……!」
「たぶんそうっす、よくわかんないっすけど。じゃあこれはあたしが食べておくっすから——」
「はいっ、次に取り掛かります……!」
「——んぐ。ソニアさん、その意気っす!」
出来立てのケーキをフォークで口に運ぶスズウミ。失敗作はすべて彼女の胃が呑み込んでいた。そのキャパシティは底なしだ。
ソニアの奮闘は続く。何度失敗してもくじけず、一途な熱を持ち続ける。
もう爆発させるようなヘマはしない。陽が落ちて夜になって、失敗作を処理し続けていたスズウミが血糖値スパイクからすやすや寝息を立て始めても、ソニアは作る手を休めなかった。
すべては、大切な誰かのために。
「で……できたっ」
——そして、空が灰色になる、黎明のころ。
ソニアはついに、渾身の逸品を完成させたのだった。
「起きてっ。起きてください、スズウミさんっ」
「うーん……もう食べられないっす……」
「なんてベタな寝言を……!」
「いやホント……ホントにもう無理っすマジ……血液がチョコになっちゃうっすー……」
この一週間、ソニアの作る菓子ばかり食べていたのだ。悪夢を見るのもさもありなん。
「う——ごめんなさい、お世話になりました。でも、もう失敗作は生まれませんっ」
「へ?」
ぱちりと目を覚ますスズウミ。
そして、ついに完成したソレを見てまぶたをぱちくりさせた。
「わっ、これは……! 完璧な円形、一目見ただけでわかる会心の出来! やったっすねソニアさん!」
「はい……! その、まだイドラさんに渡して、喜んでもらったわけじゃないですけど——改めてありがとうございます。スズウミさんが手伝ってくれたから、ここまでがんばることができました」
香ばしい匂いをまとうエプロン姿のまま、ソニアは背筋を伸ばし、友人を見つめる。
昨日も朝から厳しい鍛錬を経て、それからずっと製菓に励んでいたソニア。疲労は色濃く、今にもまぶたを閉じて深い眠りに落ちてしまいそう。
それでも、その表情には確かな達成感がにじんでいる。
「——ううん、そんなことないっすよ。ソニアさんは努力の人っすから」
その充実を目にすることこそ、最大の報酬だったと言うように。
少女はどこか眩しげに目を細め、柔らかい笑みをこぼすのだった。
*
厳密に言えば、菓子は焼き上がったから完成というわけではなかった。
一度冷やし、それから型を取り外し、最後に仕上げの粉砂糖をまぶす。
冷やしている間、ソニアは一度自室に戻ってシャワーを浴び、軽い仮眠を取った。疲労はとうに限界を超えていたのだ。
完成品を自室に運んで食器類の準備をして、それから身支度をいそいそ整え、イドラを呼んだのは昼過ぎのことだった。
「……ソニア? 約束通り来たけれど、なにかあったのか?」
やって来たのは、少年と青年のあわいに立つかのような男性だった。
母譲りの茶髪、父譲りの黒目。体はどちらかと言えば細身だが、虚弱な印象などはなく、むしろ無駄のない引き締まった筋肉を感じさせた。
イドラ。地底世界、ソニアの生まれた大陸で、不死殺しと謳われる旅人。
そして、かけがえのないソニアの恩人だった。
「イドラさんっ。実は渡したいもの——というか、振る舞いたいものがあって」
「え? なんだ、よくわからないが……ソニア、どことなく疲れた顔じゃないか。先生とやってるっていう鍛錬、やっぱり大変なのか」
「い、いえ。今日はお休みさせてもらったので、平気です」
「そうか? まあ、無理はしないようにな」
イドラはそう何気なく言いながらも、言葉以上の労わりを瞳によぎらせる。
ソニアの体はふつうではない。否、正確には、異常から正常へと戻っていく最中にある。
地底世界を旅していた時のような、一日中歩き詰められるほどの体力、イモータルにさえ劣らぬ膂力はもうないのだ。
それだけにイドラは心配していて、ソニアもその気遣いを汲み取り、微笑みを返す。
「はい、わたしは大丈夫です。ふふ、新しいお友達もできたんですよ」
「友達? それはいいニュースだな。どうしても旅をしているとそういう関係はできづらい。それに仮に仲良くなっても、会う機会を作るのも簡単じゃないしな……」
「そうですね。旅をするのは楽しいですが、こうして方舟に身を置いて、一か所に留まるのも悪いことではないって思います」
「同感だ。そういえば僕もソニアと出会う前、北地の雪原で会ったやつがいて、そいつがこれまた気難しくってさ——ん? なんだか甘い匂いがするな」
話しながら、ソニアに部屋へと上げられたイドラは、テーブルからかすかに漂う甘い香りに気づいたようだった。
「これは……」
「実は、イドラさんに食べてほしくて」
「おいしそうなお菓子、だけど。もしかしてミンクツで買ってきたのか?」
「いえ、その。手作り……です」
「えっ??」
イドラは本気で驚いた表情を浮かべ、ソニアとテーブルを交互に見る。
清潔なランチョンマットが敷かれたテーブルには、店のものと見まごう出来のガトーショコラが切り分けられていた。
「ソニアが……手作り!? あの裁縫も全然できないソニアが——!?」
「そ、それは言わないでくださいよお」
旅人は針と糸と友達になるものだ、とイドラに言われたのはいつだったか。
旅の合間にソニアも試してはみたものの、手先はあまり器用でなく、イドラのようにはいかなかった。
いらいらして思わず指に力を込め、針をへし折ってしまったこともあったくらいだ。不死の怪物に由来する力が抜けつつある今では、そんなことはできないだろうが。
「まあ……本当のところを言うと、色々手伝っていただきはしましたけれど。でも、手作りなのは嘘じゃないです。イドラさんに食べてほしくって。ほら、以前、デーグラムでそんなこともあったじゃないですか」
「……ああ、僕が買ってきたやつか。そういえばそんなこともあった。よく覚えてたな、ソニア」
「忘れませんよ、大事な思い出ですから。なので、今度はわたしがイドラさんにプレゼントしたくって」
「ソニア——」
驚きを浮かべていた表情を緩め、イドラは素直な笑みを作った。
気持ちを伝えるためのプレゼントなら、その願いはもう十分に伝わっていた。
「——ありがとう。トウヤのことで気落ちしてたのを気遣ってくれたんだよな。うん、ちょうど昼過ぎで小腹も空いてたんだ、頂くよ」
席に着いて、フォークを手に取る。そしてイドラが食べ始めるのを、ソニアはどこかドキドキしながら見つめ——
「ど、どう……でしょうか」
「ん」
ごくんと呑み込んで、イドラはソニアの方を見る。
「とてもおいしいよ。本当に。ソニアが僕のためにがんばって作ってくれたの、すごく伝わってくる」
「あ……」
その笑顔に。知らずこわばっていた体の緊張が、ふっと解けていくのをソニアは感じた。
旅をしていても、旅をしていなくとも、どちらでもよかった。
日々が過酷でも、苦難に満ちていても構わなかった。
ただ、この幸福が、すぐそばにあるのなら——
「……よかったです。ぶきっちょなりにがんばった甲斐、ありました」
「努力家だもんな、ソニアは。きっと失敗してもめげずに作り続けたんだよな」
「えへへ……なんでもお見通しですね、イドラさんには」
「まあ、ずっといっしょにいるわけだしな。じゃあほら、ソニアも早く」
座れ、と言いたげに、イドラは自身の隣の席をぽんぽんと叩く。
「え——わたしは、別に。イドラさんが食べてくれれば、それで……」
「いやいや、いくらおいしくてもホール丸々は食べられないって。ソニアもいっしょに食べよう。それとも、作る最中にもう食べ飽きたのか?」
「い、いえ……」
——そういえば作ることばかり考えていて、自分で食べたことはなかった。
今さらのようにソニアはそう気付く。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。ごいっしょしますね」
「ああ、してくれ。せっかく作ったんだ、こんなにおいしいのを自分で食べないのは損ってものだ」
テーブルでふたり、甘い香りに包まれる。
幸福で、穏やかな時間。得てしてそういうものはごく短く、幕が落とされるように、唐突に終わってしまうものだとソニアは知っている。
北部地域奪還作戦が終わり、しかしまたすぐに、大きな作戦が始まるのだろう。
けれど。やがて終わる時間だとしても意義はあり、あるいは過ぎゆくからこそ、幸福な時は美しい。
時間の河がゆったりと流れていく。ガトーショコラはまだ残っている。少なくともこれがなくなってしまうまでは、このわずかな瞬間は続くだろう。
甘い菓子に舌鼓を打ちながら、永遠ではないこの時間を共有する。
そうして、雲の向こうへたどり着いたふたりは、その絆をより深めるのだった。
スズウミは一週間で6キロ太った。
番外編② 『ソニアの爆発☆クッキング』 完