第六幕 ただ、慈悲の赦しを
彼女はかつて、ただシスターの任期を短縮するという自分勝手な理由で、村にイモータルを招き入れ、さらにはウラシマを直接的に殺害した。
しかしその後は、表向きは協会を追放になり、裏では聖堂の地下に幽閉され、レツェリによって不死憑きの実験体にさせられていたのだった。
そしてソニアと同じく、体内に埋め込まれたイモータル化の原因である核を取り除いたものの、その容体は芳しくなかった。環境の劣悪さが影響したのか、それとも体質的な差異か、レツェリの実験によるオルファの肉体への影響は、ソニアのそれよりも数段強かったのだ。
そのため施術後もオルファの精神は安定を欠いたままで、自他の境界もわからぬ状態の彼女を介護する形で協会が引き取った。そこまでが、聖堂の騒動後、司教代理の座に就いたばかりのオルファからイドラが聞いた顛末だった。
「イドラ、くん」
しかし、どこか気まずそうな様子で、目をそらそうとするのを必至に耐えているようなオルファの姿は、話に聞いた状態からはかけ離れていた。
その緑がかった瞳には、確かに理性の光が宿っている。
困惑するイドラ。ソニアについても、特に面識のない相手なので、状況がつかめず疑問符を顔に浮かべている。
そんな中、ミロウがぽんとオルファの肩に手を置く。以前と変わりない、彼女らしい実直な印象をもたらすダークブラウンの革手袋。
「少しずつではありますが、オルファの容体は回復に向かっています。体の方はまだうまく動かせずとも、精神、心の方は見違えるようですわ。しばらく前までは混濁することの方が多かった意識も、今では明晰です」
ミロウらしい歯切れのいい語り口。さらにそこには、イドラの勘違いではなければ、どこかオルファの背を優しく押すような気遣いがあった。
「会わせたい人、っていうのは……オルファさんのことだったのか」
「ええ。オルファたっての希望でしたから——イドラに会いたい、と」
青天の霹靂とはこのことだ。イドラにとってこの再会はまったくの予想外で、かつ突然過ぎた。
胸に去来する感情はあまりに複雑で、絡まった糸をほどくように、時間をかけなければ整理は叶わない。
なにせ、聖堂の地下で再会したオルファは、レツェリの手によって既に錯乱済みだった。瞳も黄金色に輝き、まともではない言葉を口走り——それを見て、ソニアのイモータル化も進行すればやがてはこのようになってしまうのかと恐れさえ抱いた。
そんなだったから、故郷の村で決別した日以来、まともに話すのはこれが初めてだ。
(一体、なにを話せば……)
——恩師を殺した人間と、今さらどんな会話を交わせばいい?
困惑はなおも強まり、立ち尽くすイドラ。そこへ、オルファは意を決したように、椅子の肘置きをつかみながらゆっくりと立ち上がった。
「……っ?」
ゆらり、上体を揺らすようにして一歩。かつてシスターだった女は、イドラへと近づく。
イドラの脳裏をよぎる、あの村の惨劇。庭先で倒れ伏すウラシマ。
そしてオルファが殺意を持って振るう、鎖鎌の天恵——その鎖の音!
思わず身構えかけるイドラ。その緊張が伝わったのか、そばのソニアも腰のワダツミに目線を向ける。
しかし予想と裏腹に、オルファが行ったのは腰を折ることだった。
「……え?」
「——ごめんなさい」
腰を折る。頭を下げる。
誰にでもわかる、明白な謝罪の形。
「旅人のウラシマさんを殺して、ごめんなさい。村にイモータルを引き寄せて、聖水の知識を悪用して、村の人たちを危険に晒してごめんなさい」
重ねてオルファは謝った。かつてイドラの故郷で犯した、自らの過ちを。
ただ頭を下げるだけでも、今の衰弱した体では簡単ではないのか、その脚はぷるぷると震えている。
「オルファさん……」
「あたし——あたしはっ、自分のことばかり考えてて。他人の痛みをなにもわかってなかった」
イドラは素直に驚いた。あの曇天の庭で決別を果たした日、オルファはあまりに悪辣だったからだ。
軽々と村にイモータルを呼び込み、ウラシマを殺し、その様を楽しげに語ってみせた。
わかり合うことなど、決してできない。絶対に理解など及ばない。
緑の瞳の奥にある凍土のような冷たさに、そう感じたことをイドラはまだ覚えている。
「あの時のあたしは、自分以外のことにあまりに無頓着だった。それで司教に監禁されて、体をおかしくされてから、ずっと独りでおかしなモノを見続けて……でもそんな時、ここの施設の人たちが救ってくれた」
けれど今。倒れそうな体をそれでも二本の足で必死に支え、こうしてイドラに謝罪する彼女の瞳には、同じ温度が宿っているのか。
頭を下げているから、その表情は窺えない。だけれどイドラには、その必死さが空虚なものであるとは思えなかった。
真摯さは本物だと——信じたいと思った。
「色んなことがわからなくなったあたしの世話をして、ろくに動けもしないあたしに毎日声をかけて優しくしてくれた。だから——っ」
「もう、いいですよ」
いよいよ力の限界が来て、床に倒れかけたその体を支える。村にいた時よりも痩せた、細く軽い体だった。
「謝りたいって思ってくれたこと、わかりましたから」
「イドラ、くん」
「伝わりました。オルファさんの想いは、全部」
「許して……くれるの? あたしのこと——信じてくれるの?」
もうあれから、四年近くが経った。
この世に移ろわぬものはなし。だが時の経過とはなにも、残酷しか生まないわけではない。
時を経て失ったものがあれば、また同時に、時を経たからこそ得られるものもある。
「——はい。許します。それに、信じます。オルファさんのことを」
肩をつかんで、イドラはかつてのシスターの顔を間近に見る。
あふれんばかりに瞳に浮かぶ涙が、光彩の緑色をにじませる。
(……そうだ。なにも、失うばかりじゃない)
その涙の奥に、あの日の冷たさはなかった。
懺悔に嘘偽りはない。
四年という歳月。孤独と向き合う時間は、オルファにとって自らを見つめ直す機会となったようだ。
季節が移ろい、雪解けが訪れるように——イドラとオルファの間にあった確執はたった今、消えてなくなった。
「う、あぁっ、ありがと、イドラくん——うっ、ひぐっ、ありがとぉ」
「いいんですよ。ほら、まだ立って動ける体じゃないみたいですし、椅子に座らなくっちゃ」
泣きじゃくるオルファを支え、イドラは椅子に座らせてやる。座ってからもオルファは泣きながら、何度もイドラに礼を言った。
そんな二者の姿を、ミロウは満足げに見つめていたのだった。
*
「正直なところ——イドラが許さないと言ったらどうしようかと、少しだけ不安でしたの」
乏しい体力が底をついたのか、しばらくするとオルファは椅子に座ったまま眠りこけてしまった。そのためイドラたちは部屋を変え、窓の外に広がる昼下がりの通りを見つめながら会話を交わす。
オルファほどではないにしろ、ミロウとも久しぶりに話すイドラだったが、口を開いてみれば言葉は昨日までもいっしょに過ごしていたかのように自然と出てきた。
「オルファさんのことを、まだ恨んでるかもって?」
「ええ。なにしろわたくしは、イドラの村で起きた事件を詳しく知るわけではありませんから。あなたたちの間にあった確執についても、オルファ当人から聞いたこと以上の情報はありません」
「なるほど? はは、だったらもし僕が逆上でもして、オルファさんに詰め寄ったらどうするつもりだったんだ?」
「その時はわたくしが力ずくで止めてみせます」
「……流石は精密十指さまだ」
「今では五指ですけれどね。それでも、まだまだ他のエクソシストに遅れを取るつもりはありません」
表情ひとつ変えずに言い切る。事実、片腕を失い、司教代理として一線を退いた身ではあるが、今でもその実力は卓越しているのだろう。訓練を欠かすような性分でもない。
ですが、とミロウは碧色の目をイドラへ向ける。
「あなたはオルファを許した。さっきは不安だったと言いましたが、やっぱり、わたくしもイドラならおそらくはそうすると思っていました。あなたには優しさと、一度裏切った相手を許すだけの器の大きさがありますもの」
柔らかな声音で言う。そこには友人に対する、無二の信頼が込められていた。
一度裏切った相手というのは、オルファだけではなく、ミロウ自身のことも含んでいるのだろう。イドラがそれを裏切りなどとはまったく捉えておらずとも。
イドラは小さく笑って、肩をすくめて返す。
「残念ながら買いかぶりだ。僕がオルファさんを許せたのは、理由あってのことだよ」
「へえ、理由? 妙にもったい付けた言い方をしますのね」
「シンプルな話だよ。ただ——」
理由はふたつあった。
ひとつは、オルファが殺害した相手——ウラシマがまだ存命だということ。
殺害に失敗したというわけではない。確かにこの地底世界において、ウラシマは一度絶命している。外乱の排除という使命を帯びた旅は、辺境のシスターによる凶行という予想外にして最悪の形で幕を閉じた。
だがウラシマは、あくまで現実世界から、その意識のみをダイブさせていたに過ぎない。
雲の上へ渡ったイドラの手により、ウラシマは再び目を覚ましている。
そして、もうひとつの理由は——
「——ソニアは誰も憎まなかった。だから、僕もそうあるべきだって思うんだ」
旅の疲れが出たのか、離れたソファですやすやと寝息を立てている少女の方を見て、イドラはそう答える。
ソニアは最終的にレツェリを殺した。だが、そこに怒りや憎しみはまったくなかった。
この療養所の隣、聖堂においても、ソニアはレツェリに赦しを与えた。
それがどれほど大変なことか、イドラには計り知れない。自らの人生を直接的に壊し、捻じ曲げた悪党。そんな相手への憎しみを捨て去るのは簡単なことではない。
そして、その簡単ではないことをソニアは貫徹してみせた。
まっすぐな心の強さに倣わねばならない。彼女の隣に立つ者として、イドラはそう思っただけのこと。
「……まあ。あなた、そんな顔もしますのね」
「え? 変な顔してたか、僕」
「はあ。妬けてしまいますわね、まったく」
ミロウは窓のそばを離れ、ドアの方を見る。
「もう行くのか?」
「ええ。ゆっくりしたいのは山々ですが、まだ業務が山積みなので」
「大変だな、司教さま」
「代理ですよ、代理。……しかし、この忙殺という言葉が生温く思えるほどの業務量を平然とこなしていたなんて。絶対に戻ってきてほしくはないですが、あの人の能力だけは疑う余地がありませんわね」
うんざりだとばかりにため息を漏らすミロウに、イドラはかける言葉もない。司教と言えば以前は人前でふんぞり返っているだけの仕事だと思っていたイドラだったが、ことのほか事務仕事に追われているのだとミロウの姿から現在は知っていた。
また会おう、とイドラはその背に告げる。
「とても優しい顔でしたわよ」
「……?」
「さっきの、ソニアを見た時の話です」
きょとんとした顔を浮かべるイドラに、振り向かずともその困惑が伝わったのか、ミロウはくすりと笑って言う。
それから、昔を懐かしむような口調で、ぽつりとこぼした。
「次は……わたくしの相方もいっしょに、集まりたいものです」
「そうだな。きっとまた会えるさ」
「まだ協会の任が解かれたわけではないというのに。困った放蕩娘です。ふふ」
エクソシストとしてのミロウのパートナー。
浅葱色の髪の彼女はまだ、現実世界で旅をしているのだろう。終末の使者たちを狩る、贖罪の旅を。
「では、また」
「ああ——またな」
だが、彼女ともまた会える。イドラもミロウもそう信じている。
出会いがあれば別れがあり、そして別れの先には、再会もまた待ち受けている。
移ろうからこそ未来は不定形であり、人はその揺らぎに望みを託すことができる。イドラにとってのオルファとの和解のように、望外の出来事が訪れる場合もある。
「さあ、明日からまた、旅の続きだ」
眠るソニアを起こさないよう、イドラはその隣にそっと腰を下ろす。
イドラも、ソニアも、ミロウも、オルファも、そしてベルチャーナも。誰もがまだ、旅の途中にいた。結末の見えない、そしてだからこそ進むだけの価値がある、長い旅。
だがソニアにも焦るなと言われたばかりだ。今日くらいは、休んだっていいだろう。
安らかな寝息のそばで、イドラはゆっくりと目を閉じる。
窓の向こうからは、活気に満ちた街の昼下がりの喧騒がわずかにだけ聞こえていた。
番外編① 冷たい夜に慈悲の赦しを 完