第四幕 溶け合う熱
*
物音がして、イドラはぼんやりと目を開く。
誰かがそばにいるようだった。
(……誰だ?)
まだ頭が重く、思考が定まらない。血と体温が足りていない。
ぼやけた視界で動く人影……長い髪。品を窺わせるような、緩やかにウェーブしたブロンドの髪だ。
本当に? 違う。
「ソニ、ア……?」
そこにいるのはソニアだ。揺れる髪は癖のないさらさらとしたストレートで、毛先だけが白い、花のような橙の色。
「あ——イドラさんっ。よかった、起きたんですね」
振り向いたソニアはイドラが目を覚ましたのを見て、ぱあっと満面の笑みを浮かべる。
イドラはなんだか、自分が気を失うと、起きた時はいつもソニアがそばで見守ってくれている気がした。
「……夜? くそっ、寝すぎたか」
見れば空は藍に染まり、空気もしんと冷え込んでいる。感覚の薄いイドラでさえわかるのだから、相当な冷えだ。
夜まで眠りこけてしまったらしい。イドラは身を起こし、それから自身の負傷が完治していることに気が付いた。
「傷が治ってる。もしかして、ソニアか?」
「はい。実は、わたしが落下した場所のすぐそばにマイナスナイフが落ちてて……今はいつものケースにしまってますよ」
あれほどの負傷を簡単に治せるギフトなど、マイナスナイフくらいのものだ。治癒能力に特化した天恵でさえ手軽にとはいかない。
イドラは手で腰のナイフケースをまさぐってみる。手ごたえから、そこには確かに慣れ親しんだ負数の刃が収まっているようだった。
「手間をかけさせたな。悪い」
「いえ。実は、滑落した時にわたしも足を折ってしまって。イドラさんのマイナスナイフが近くになかったら、相当危ないところでした」
「そうか」
ソニアの持つワダツミのようなコピーギフトを除き、天より賜る天恵とは一切例外なく、それを受け取った持ち主にしか能力を使用することはできない。
だが、イドラのマイナスナイフにとって、傷を治す力はギフトとしての能力ではない。あくまで、負数を帯びた性質によるものだ。
よって、空間を斬る力はイドラ本人にしか使えないのだが、治癒だとか、イモータルを傷つけるといったこと自体は、イドラ以外の人間でもマイナスナイフを振るえば実現可能だった。
「そうだ、イモータルがどこにいったかわかるか? あいつも僕たちと同じように下へ落ちてきたはずだよな」
「すみません、わたしもわからないです。いつの間にか消えてましたから。でも、きっとこの山のどこかにいますよね」
「不死、だからな」
相手は不死身の怪物だ。山のてっぺんから下まで転げ落ちようが、あれは一切の傷など負うまい。
イドラのマイナスナイフ以外では。
(そう——だから、僕が殺すしかない。僕が、やらなくちゃいけないんだ)
不死を断つのはイドラの役目。ならば、再戦の機会は必ず訪れる。
静かに戦意を高めるイドラ。そのそばで、ソニアがガサゴソと音を立てながら、なにやら荷物をひっくり返していた。
「……なにしてるんだ?」
「あ……その、もう少し風を防げないかと思いまして」
「なるほど、バリケードを作るわけだ。手伝おう」
「ありがとうございますっ」
張り出した岩棚のおかげで天井はあるが、壁がなかった。そこで布やら食器やら、それらが入っていた背嚢そのものを使って簡易的な壁を建てようとする。
吹き込んでくるこの風を防ぐことさえできれば、夜を明かすのもいくらか楽になるだろう。
「うーん、微妙に骨子になるものが足りないな……。なにか棒状のものがあればいいんだが。うーん、うーん——」
「すみませんイドラさん、わたしの腰のワダツミを見ながら言うのやめてくれませんか? だめですよ? 貸しませんからね? 絶対ですよ?」
両側を塞ぐことは叶わなかったものの、ふたりの創意工夫の結果、主に風が吹き込んでくる右側はうまく即席の防壁を作ることができた。ワダツミは貸してくれなかったが。
防壁の表面を覆うのに、厚手の布を使ってしまったが、まだ毛布は一枚残っている。イドラたちはそれにくるまり、狭い岩場の中で身を寄せ合った。
(……震えてるな)
肩をぴたりとくっつけるソニアの肌は、小さく震えていた。
今回の遭難は山越えを決意した自分のせいだ。そうイドラは内心で自省する。
痛みも寒さも感じないせいで、危険を軽んじてしまったのか。
どうして山越えなどというリスクを取ってしまったのだろう。だが、イモータルが現れるなど予期できなかった。
予期できなかった? しかし、可能性を考慮することはできたはずだ。イモータルはその不死性ゆえ、どれほど過酷な環境であってもお構いなしに生息できる。いわんや、すべての生命が白い雪の下に沈むような、深い雪山の中でもだ。
どうして——
「そんなに焦らなくても、大丈夫ですよ」
「……焦る?」
毛布の中で手を重ねられる。ソニアは白い息をこぼしながら、小さくうなずいて続けた。
「イモータルを殺せるのはイドラさんだけです」
「ああ……わかってる。マイナスナイフを持つ僕じゃないと、あいつらは殺せない。だから、僕が——」
「でも、イドラさんがイモータルを殺さなきゃいけないなんてこと、ないんですよ」
「——え?」
ソニアがなにを言っているのか、イドラはすぐに理解できなかった。
イモータルを殺すのがイドラの役目だ。マイナスナイフを持つ者の、役目なのだ。
「人に役目や役割なんてありません。だからイドラさんは自由です。人は、生きたいように生きてもいいんだって……不死憑きだったわたしに教えてくれたのはイドラさんじゃないですか」
「それは——だけど! 僕がやらないと……僕がやらなくちゃ、これから何人もの人間が犠牲になる。エクソシストを信用していないわけじゃないが、葬送で対処するには限度がある! ソニアだって見てきただろ!?」
場合にもよるが葬送協会のエクソシストたちは、イモータルを檻に容れ、さらにその檻ごと葬送陥穽という穴の中に閉じ込めてしまう。
葬送。だが、それは絶対の対処ではない。
一度は葬送に成功しても、長い年月を経て檻が劣化したり破壊されたりと、イモータルが葬送陥穽から脱してしまうような事故が起こることはままある。そうした個体の後始末も、旅をする中でイドラは何度か経験があった。
ゆえに、殺さなくてはならないのだ。イドラが——不死殺しが!
「見て見ぬふりをしろって言いたいわけじゃないです。イドラさんは優しいひとですから、そんなことできないってわかってます。ただ——イモータルによって生じる犠牲は、断じてイドラさんのせいじゃありません」
「そんなこと……わかってる」
「だったら誰かが傷つくたびに、全部自分のせいみたいな顔しないでください」
「——」
思わぬ追撃にイドラは苦虫を嚙み潰したような顔をした。
先日の村の一件、村長の様子から察した犠牲者の存在に思い悩んでいたことは、とうにソニアに見抜かれていたようだ。
「……はぁ。僕の負けだ。そうだな、認めるよ。確かに少し焦ってた」
ため息をつく。すると息はすぐに真っ白く染まる。
気が付いてみれば、イドラ自身も軽く震えていた。シバリング。
今や暑さ寒さもろくに感じなくなってしまった身だが、それはあくまで感じないというだけ。反応は正直だ。
「どれだけ稀有な天恵を持とうがしょせん、ただの一個人だ。大陸中の人間の命を背負おうなんて、無謀が過ぎたな」
「ええ。そんな大勢、イドラさんの甲斐性じゃ無理ですよ」
「はっきり言うなぁ。じゃあ、何人なら背負えるんだ?」
毛布の中でもぞりとソニアが動き、冷えた体を押し付けてくる。体温はすぐに溶け合い、同じ熱に均される。
「——ひとりだけ、です」
小さく微笑むその頬の、うっすらと帯びた赤み。即席のバリケードは確かに、外界の冷えた空気を遮断してくれていた。
天高く月は昇り、夜はまだ長い。朝になるまでこの気温の中で、食糧も切り詰めて過ごさねばならない。
そんな過酷な状況下でありながら、ふたりは穏やかに夜を明かした。
*
朝が来て、イドラたちは残しておいた保存食を少し腹に入れてから、荷物をまとめて岩棚の下を出た。バリケードも解体だ。
満足に眠ることもできない気温だったため、気力も十分とは言い難い。だが、旅とはいつも過酷なもの。ある意味、イドラたちは気力が不十分なこと自体に慣れている。
その日も天気は晴れで、下山するうちになんとなくだが、イドラは現在地がどの辺りなのかをつかむことができた。方角さえ合えばいずれは街道にたどり着けるはずだ。
そして下るうち、地面の傾斜も緩まっていき、いよいよ山裾へと至ろうかという時だった。
「……逃がすつもりはない、とでも言いたげじゃないか」
今度は見逃すまい。
雪の白にまぎれるように、行く手を阻んで佇む怪物がそこにいた。
「イモータル……!」
ワダツミの柄に手をやりながら、ソニアが重苦しくつぶやく。
白い毛並みに黄金の瞳。間違いなく昨日の個体だ。
「あいつは魔法器官がある。気を付けていこう」
「はい……!」
魔法器官とは本来魔物に備わるものであるが、稀にイモータルにもそれがあり、魔法を行使する個体がいた。
イモータルの源流、地上世界のアンゴルモアにそのような形質はまったくない。だとすれば、これは一種の独自進化のようなものなのかもしれなかった。
「来るぞ!」
「コォォォオオオオオオオオオ————ッ!」
不死の白狼が吼え、その喉が黒く輝く。
向こうもイドラたちをきちんと認識できているらしい。先日の続きだとばかりに、初手から魔法の行使を始める。
距離のあるイドラたちにそれを止めるすべはなかった。なにが起きても対処できるよう、イドラたちは臨戦態勢を取る。
一陣の風がイドラたちの間に吹いた。
「……?」
身をなでたその風に不自然なものを覚え、イドラが眉根を寄せる。
次の瞬間、より強い、肌を裂くような突風が周囲に吹き荒れた。
「これは……!」
「雪が、舞い上げられて——」
それは単に風を生み出す魔法ではなく、吹雪を再現する魔法だった。
積もり固まった雪たちがほどけ、風にさらわれて舞い上がる。たちまち周囲は大吹雪に見舞われたかのような、荒れ狂う風雪に囲まれる。
「まずいな。ここまで広範囲に影響を及ぼす魔法は初めて見たかもしれない」
「骨の折れそうな相手、ですね。昨日は実際に折られましたけど」
「……笑えない冗談だ」
イドラの頬を小さな氷塊の粒がかすめる。皮膚が裂け、血がにじみ出た。
この吹雪の中を縦横無尽に駆け回るのは、単なる雪ではない。一度降り、固まった積雪を細かくして再び上空へ舞い上がらせているのだ。
つまり一粒一粒が硬く、ほとんど雹のようになっている。そんなものが無数に、魔法の風に運ばれて凄まじい速度で動き回っている。