第三幕 忘却の白色
(まだ昼過ぎだ。ソニアも余裕がありそうに見える。うまくいけば、一日で山を降りるところまでやれる……)
目的地へ近づいているという実感とともに、イドラの中に逸る気持ちが芽生えてくる。
ミロウが誰と会わせたいのかは分からないが——早く、この一件を終わらせなくては。
そんな焦燥が胸をよぎる。
どうしてこう焦っているかなど考えない。それ以前にそもそもイドラ自身、焦っていることに気付いてさえいない。
「ソニア、念のため確認するが休憩は要るか? これからあっちに向かって下山する……まあ休憩を取るにしても、ここは風が強いから、まず適した場所を探さなくちゃいけないが」
しかし焦っていてもイドラとて旅慣れている。安全には十分気を使っていたし、ソニアもとうに自分のことは自分で解決できる程度には成長している。
だからイドラに失敗があるとすれば、かすかな疑念をそのままにしていたことだ。
吹き付ける風は冷たく、周囲はどこまでも白く白く。
忘却の白色。より強く疑っていればよかったのだ。本当に、イドラは——
——自分は、北地の雪山を登るのは初めてなのか?
堆積する忘失の中に、同色の怪物がカムフラージュを試みた。
「イドラさん——っ!!」
叫ぶソニア。その声にイドラが反応するより早く。
いつの間にかイドラのすぐ隣にいたイモータルが、その発達した前腕を振り抜いた。
「——————ッ!!」
なぜイモータルが? どうやって? いつから? 姿の全容は——?
すべての疑問を脳内から棄ててイドラは咄嗟に片腕で身を守る。人外の怪物が放つ不意の一撃をまともに受け、イドラの左腕は呆気なく砕かれた。
「くっ……!」
粉々になった骨と血液が飛び散る。前腕の骨は無様に粉砕され、比較的無事な内側の骨——尺骨も完全にへし折れ、皮膚を突き破って露出する有様だった。
だがいい。
構わない、とイドラは意に介さず無事な右手でナイフケースから己の天恵を引き抜く。
片腕が破壊されようが、今や痛覚のないイドラにとっては狼狽える理由にはならない。
「コオオオォォォォォォォォ————ッ」
そんなイドラの前にいたのは、雪の化身のような、真っ白くかすかな光沢を帯びた狼だった。
その双眸は黄金。どこかノイズ混じりのような、巨大な木笛を鳴らすのにも似た鳴き声。全長二メートルほどのするりとした体躯でありながら、前腕だけは異常に発達しており、よくよく見れば指は五本ある。生命としていびつな造形。
間違いなくイモータルであり、その真っ白い体毛を活かして雪に紛れていたのだと遅れてイドラは理解した。
(追撃が来る! 腕を治す暇はないか……!?)
イモータルは——目を疑うような光景だが——その拳をにぎり込んだ。親指を除く四本の指には人間と同じように第一、第二、及び第三関節まで存在し、握り拳を作ることが可能だった。
先ほどイドラの腕を一撃で粉砕かつ複雑骨折せしめたのも、この拳の一撃だ。イモータルの膂力は人間や動物のそれとはまるで比較にならない。
そして、引き絞る弓の弦を解き放つように、今再びイドラに向け、拳が放たれる。
「させ、ませんっ!!」
「ソニア……!」
そこへ割って入ったのはソニアだ。橙色の髪を翻す彼女の手には、既に鞘より抜かれたワダツミがにぎられている。
そしてイドラ目掛けて放たれる巨大な前腕に、ワダツミ——異界の技術により造られたコピーギフトを振り抜く。
「コォォォォォオオオ——ッ!」
「うぅッ」
しかし先述の通り、イモータルの力は人間とはあまりにレベルが違う。
そして今のソニアは人間だった。混じりけのない、完全な人間。以前であればいざ知らず、今のソニアがイモータルとの力比べに勝てるはずがない。
ソニアは呆気なく弾き飛ばされる。
だが——その拳の軌道は確かに逸らされていた。
力を失ったソニアはそのぶん、技を鍛えてきた。一日たりとも欠かすことなく、ずっとだ。
空振るイモータルの腕。イドラはその隙に、自身の天恵、青いナイフをぐしゃぐしゃになってしまった左腕へと突き刺した。
マイナスナイフ。負数の刃が外傷を打ち消す。
イドラの悲惨なまでの腕の傷は、一瞬にして元通りになる。
天より授かったギフト、マイナスナイフの能力——というよりは、性質だ。能力と呼ぶべきものはまた別にあり、これはあくまで負数を帯びた刃で刺したからそうなった、という現象に過ぎない。
「やってくれたな、イモータル」
「コオッ————!!」
短い咆哮とともに、イモータルは再び拳を繰り出そうとする。対し、イドラはくるりと手の内で得物を半回転させる。
逆手の構え。そしてその腕を動かし、なにもない虚空をなでるようにマイナスナイフが空を斬る。
するとイモータルの拳はイドラに届かず、その手前をまたしても空振った。
もしイモータルに情緒があれば、さぞかし動揺したことだろう。届くはずの攻撃が届かなかったのだから。
空間斬裂——空間を斬ることこそマイナスナイフの能力。イドラにしか扱えない、そのギフトが持つ固有の力。コピーギフトを製造した現実世界の呼び方に倣うのであれば、『スキル』というやつだった。
そして負数の刃でそれを行ったことで、斬られた空間は膨張する。結果、イドラとイモータルの間にある距離が伸び、届くはずの拳は空振った。
「コォォォ————!」
「無駄だ」
さらなる追撃を試みるイモータル。だが次の瞬間、イドラの姿はその場から消える。
そして、雪上に足跡を残すこともなく、イモータルの隣に現れたイドラがそのまま斬撃を浴びせた。
不死の怪物、イモータルにあらゆる攻撃は通用しない。それがこの大陸の常識だ。
けれどもマイナスナイフは負数の刃。死を超越した怪物を、その青い刃は死のゼロへと引き戻す。
「ォォォォ————————ッ」
「ふっ!」
不死身の怪物が傷を負う。負わないはずの傷を。
さらにイモータルがイドラを捕捉し、攻撃しようとするたび、イドラは別の場所に瞬間移動する。
手品のタネは、先と同じ空間残裂の能力だ。ただし違いは、自身と敵の間ではなく、自身の後方の空間を斬る。そうすることで背後の空間を膨張させ、自身の座標を前へと押し出すようにして作用させているのだ。
細かな位置の調整は困難な芸当だったが、それもイドラはこなせるように鍛錬している。
現れては消え、消えては現れる。反撃できないことをかさにかけ、イドラはここぞとばかりに怒濤の猛攻を繰り出す。
「——やぁっ!」
さらにそこへ復帰したソニアも加わる。先ほど吹き飛ばされた一撃も、ワダツミでうまくいなせていたらしく、特に手傷を負った様子はない。
「いける……! 畳みかけるぞ!」
「はいっ、カバーは任せてください!」
ソニアのワダツミ自体にイモータルを傷つける効果はないが、先のように敵の攻撃の軌道をずらして援護することはできる。また、イモータルの意識がソニアに向かえばそのぶんイドラの攻撃するタイミングも増える。
(殺しきる……!)
方舟でチーム戦闘の経験を積んだこともあり、イドラとソニアの連携はまさしく阿吽の呼吸。もはやイモータルに反撃のすべはなく、不死殺しによって狩られる運命にある——
——かのように、思えた。
「コオオオオオオオオォォォォ————ッ!」
「……っ、なんだ?」
四肢を震わせ、突如吼え始めるイモータルに、イドラはつい攻撃の手を止める。
奇妙なのはそれだけではない。イモータルの喉がかすかに、しかし少しずつ、黒く輝きを放ち始めていた。
——魔法器官。
「魔法だ!」
イドラはその正体にようやく気付いた。ソニアに対し警告を発し、身構えたその瞬間。
イモータルを中心に、周囲に莫大な衝撃が放たれ——
足場が崩れた。
「なにっ……!?」
ぞっとするような浮遊感。
「きゃあっ——!?」
「コォォォォォ————ッ!」
おそらくは当のイモータルでさえ想定外だっただろう。尾根の上で戦ううちに、いつの間にか雪庇の上に移動していたのだ。
雪はこの低温で完全に固まっており、それでも崩れはしなかった。しかし辛うじて保たれていた均衡も、イモータルが魔法を使おうとした衝撃で崩壊したというわけだ。
「くっ——しまった……!」
自由落下が開始する。臓腑がひっくり返るような不快な感覚とともに、重力がイドラとソニアとイモータル、それと散らばる雪の欠片たちを分け隔てなく引き寄せる。
だが、地面はすぐに落下するすべての者を受け入れた。もとより張り出した雪庇の下には、斜面が待ち受けているのが道理である。
落下の勢いそのままに斜面へ落ちたのだから、そのまま転がり落ちていくのは誰にも避けられなかった。
滑落——
「————————っ」
山の上から滑り落ちた時、人はどれほどの確率で生き、どれほどの確率で死ぬのだろうか?
それはもちろん状況や様々な条件によって異なったが、少なくとも高度的には十分、イドラに死の危険を感じさせるには十分だった。
回転する視界。雪の白と空の青が交互に、交互に交互に交互に交互に交互に交互に目に映る。
止まれない。どんどん加速する。手にしていたマイナスナイフはどこかのタイミングで取り落としてしまった。それでも止まろうと両手の指で地面をつかもうとするも、指の表面が摩擦でずたずたになるばかり。
このスピードで仮に、硬い岩場にでも激突して頭を打てば即死だろう。
あるいは腕や足を折るだけでも、その後の生存は一気に難しくなる。マイナスナイフが見つからなければ。
一度勢いに乗った滑落はもうどうすることもできない。打つ手なく、イドラは運を天に任せるほかなかった。
あるいはこういった、人の身ではどうにもならない時にこそ、人は神に祈るのだろう。
(——祈り?)
ふと、なにかを思い出した。
否。思い出しかけた。
するとちょうど、勾配の強かった地面が平坦になり、イドラの体は前方へと射出するように投げ出される。
「うぐっ……」
雪の中に倒れ込む。岩にぶつかって派手に死ぬという最悪のシナリオだけは、運よく回避されたらしかった。
しかし窮状に変わりはない。痛覚のないイドラでも、滑落の最中かそれとも最後の衝撃にやられたのか、自分が全身の骨を何本も折っていることがなんとなく理解できた。
深い雪に埋もれている。冷たさはあまり感じない。立ち上がる気力もない。
(腕に力が入らない……マイナスナイフもどこかにやってしまった。ここまで、か?)
ソニアと、それからあのイモータルはどこへ落ちていったのか。転がるうちにはぐれてしまったようだ。
自分が今、山のどの辺りにいるのかもまるでわからない。だが街道からは遠く離れているだろうし、助けを望むのは無謀だろう。
イドラの中の冷静な思考が、淡々と現状の危機を指摘する。もう助かる見込みはないぞ、と。
だがそれは、『だから諦めろ』という勧告ではなく。
「は、ぁぁぁっ……!」
『今すぐに自力で立て』、という命令だった。
いくら皮膚感覚が希薄で冷たさを感じなかろうとも、雪は確かに体温を奪い、肉体を低体温症へと歩ませる。
立てなければ死ぬ。ならば、無理やりにでも立つべきだ。
折れた手と足で強引に立ち上がる。すると肋骨も折れていることに気づいたが、痛みはないのでひとまず無視した。
雪の上に足跡と、真っ赤な血を残して。イドラは朦朧とする意識の中、周囲をさまよう。
休める場所を探しているのか。ソニアのことを探しているのか。マイナスナイフを探しているのか。
(僕は……誰を忘れている?)
それとも、別のなにかを、あるいは誰かを探しているのか?
雪が、降っていたはずなのだ。
火にくべた記憶は決して戻らず、在りし日の影に光は二度と当たらない。忘れられた約束が果たされることもない。
結局、積もる忘失のどこを見渡せどなにかを見出すことは叶わず、イドラは岩場の陰に倒れ込んだ。昼にソニアと休憩を取ったのと似た、張り出した岸壁の下だ。そこには雪も積もっておらず、まるで一面真っ白に侵食された世界における最後の安全地帯といった風情だった。
(まだ……休むわけには……)
疲労と出血で体はとうに限界だった。意志に反し、意識が薄れていく。
重いまぶたが閉じてしまえば、もう開けることは叶わなかった。