第二幕 山越え
「会わせたい……それだけ?」
「はい。ともかくデーグラムに着けば、協会の者が案内するかと」
「デーグラムに着けば、って言ったってな」
イドラは思わず隣のソニアと顔を見合わせた。
「今から向かって、どのくらいになるでしょうか」
「最短距離でも十日以上はかかる……そして、最短でたどり着くのはほぼ不可能だ」
その理由は地理にあった。デーグラムのあるウドパ王国と違い、ここ連邦は行き来に関しての制約が少なくない。各州ごとの境界をまたぐには、決まった場所で手続きを行わなければならなかったりする。
「まったく、こんな北の果てにいることを知りながらお呼びとは。ミロウも偉くなったもんだな?」
「ま、まぁまぁ。きっとそれほど大事な用事なんですよ」
「ふむん。しかしだな、会わせたい人だなんて言われても、正直とんと予想がつかないんだが……」
共通の知り合いなど、レツェリとベルチャーナくらいのものだ。
そしてレツェリは雲の上でその野望とともに果て、ベルチャーナは未だ行方知れず。
会いたいと言えばミロウ本人にこそ会いたい気持ちだった。なにせ地底世界に戻ってきてすぐ、ベルチャーナのことを報せたのが最後。その時もミロウはずいぶんと多忙で、あまり時間は取れなかったのだ。
「おっしゃることはわかります。ですが、なにとぞ。連邦との国境には協会が馬車を手配しますので」
「バシャ? バシャっていうのは?」
「えっ馬車をご存じない……!? それは流石に無理がありませんか!?」
町の名前は知らなくとも無理はないと言ってくれたが、こちらはフォローしてくれなかった。
だが、そう、現実としてイドラには『馬車』がわからなかった。
「イドラさん、馬車っていうのはですね、こう、お馬さんが荷車を引っ張ってくれるんですっ。早く移動するための乗り物ですね」
「へえ、確かになんだか加速しそうな名前だもんな」
「それはちょっとよくわかんないですけど」
ソニアに馬車の説明を受けるイドラのことを、ミドリハは口をあんぐり開きながら見つめる。
山羊や牛しか見たことのないような田舎暮らしならともかく、イドラは旅人なのだ。そんな人間が、少女に馬車について教えてもらっている。それはもうほとんど異常な光景と呼んで差し支えなかった。
「なんか言われてみたら、乗ったこともある気がしてきた」
「はい、結構ありますよ」
「そっかぁ」
協会の手配した馬車に乗った経験はイドラにもあった。言われてみれば、その時のことを思い出すこともできる。
だが、『馬車』という概念、事物についてだけは、新しく覚え直す必要があった。
記憶の欠落。
これもまた、今のイドラが抱え、そしてこの先付き合っていかなければならない問題だった。
レツェリの野望を阻止するため、その記憶さえイドラは代償に捧げた。
関わりの深い人たちのことは、どれも覚えている。大切な思い出は忘れていない。
けれど些細な出来事や印象の薄いもの、それから常識的なこともたまに抜け落ちている。そしてそのことは、イドラ自身も気付かない。
この前などは箸の持ち方まで忘れていた。もとよりこの大陸では主流でない食器なので、使い方を忘れていることに気が付くのにも遅れた。
なので、そうした時は今のように、ソニアに教えてもらうのが常だった。まるで物忘れの激しくなった老人みたいじゃないか、と内心で皮肉なことを思ってしまいながら。
「なんなのこの人、怖……」
そのようなイドラの都合などまるで知らないミドリハは、普通にドン引いていた。
イドラとて周囲に怪訝に思われることは理解しているが、いちいち経緯を説明してもいられない。そもそも現実世界——終末の使者の侵略に遭う雲の上の異世界についての話をしたところで、大抵の人間は噓八百としか受け取るまい。
よってイドラはドン引き状態のミドリハをよそに、国境までのルートを一考してみる。
「うーん……とはいえ移動時間の大半を占めるのは連邦からの脱出だ。結局、そこから馬車に乗ったところで二日か三日の短縮にしかならない気がする。ソニアはどう思う?」
「わたしも同意見ですね。どうあれ国境までは六日か、長引けば七日はかかります。王国に入りさえすれば、替え馬できる宿場も多いですから素早く南下できるでしょうけれど」
「う……」
難色を示すふたりにミドリハは若干たじろいだ。ミドリハとて、ここからデーグラムまでの遠路など百も承知。
だが、メッセンジャーたる彼女は役目を果たしただけだ。
イドラはちらりとミドリハを見る。
(文句にしろ感謝にしろ、直接ミロウのやつに言うしかないか……)
眼鏡の向こうで困り眉を作る彼女になにを言ったところで、益体はあるまい。不憫になるばかりだ。
ともかく、伝えるべきことは伝えてもらった。了承の旨をイドラは告げる。
ミドリハはほっとした様子でイドラとソニアにぺこぺこ頭を下げると、自身の家宅の方へ戻っていった。
「でもイドラさん、どうします? いえ、向かうほかありませんが……デーグラムからここまで言伝が届くまでも相当の日数がかかってるはずですよ。ずいぶん待たせちゃいますね」
「そう、だな」
向こうもそれは承知の上だろうとは思いつつも、司教代理として空いたレツェリの席に収まってからというものの、ミロウが忙殺される勢いで業務に追われていることはイドラも知っている。
なるべくは待たせたくなかったし、それになにより、イモータルを狩るという旅の主目的から長期間逸れるのは避けたい。
イドラは村の向こう、道なき先の山々に目を向ける。本来であれば迂回し、関所で手続きをして隣接する州に入っていく。
……本来であれば。
「山越えをするか」
「えっ」
山の上を通っていけば、近道になる。ごくシンプルな思想。
「不安か? それとも体調が心配か?」
「い、いえ……もう気分はずいぶんよくなりました。準備の方も、一応、北部に入るにあたって防寒具なんかの備えもありますから。平気だとは思いますけど——」
「けど?」
ソニアは言い淀む。それからイドラと同じように、南西の山々に目をやった。
天気は快晴。
朝焼けの中に佇む雄大な姿。ところどころ岩肌が露出してはいるが、そのほとんどは真っ白い雪が覆いかぶさって隠してしまっている。
まさに雪化粧——
幸いにして今は吹雪く時期ではない。そう、先日村の者からイドラたちは聞いていた。
「——ううん、なんでもありません。そうと決まれば早く行きましょう、進めるのは陽が落ちるまでの間だけですから」
「ああ、その通りだ。ソニアも旅人らしくなってきたじゃないか」
「おかげさま、です!」
快活に笑うソニアの姿に、知らずイドラは頬を緩める。
かくしてふたりの旅人は入山を試みた。白い雪の山々に、怪物が潜んでいるとも知らずに——
*
「ふう……斜面の雪は、思いのほか足を取られるな。ソニアは平気か?」
「はいっ。このペースなら、昼に一度休憩をはさんでもらえれば大丈夫です」
「そうか。キツくなったらちゃんとワダツミを杖にするんだぞ」
「だからそれはしませんよ……!?」
山裾の傾斜はなだらかで、旅慣れたふたりにとっては苦労するほどでもない。
雪の中にふたつ、足跡を残して進んでいく。
登山は順調だった。時たま山に棲まう魔物が現れることもあったが、普段イモータルと戦っているイドラとソニアにとっては、不死身でない怪物など恐れるには足りなかった。
昼前になり、一度休憩を取った。風を凌げる張り出した岩壁のそばで身を寄せ合い、携行食を口にする。
山に入ってしまうと現在位置を測るのも楽ではないが、既に中腹には達していると思われた。
「うー……保存食は味気ないです。昨日のご飯がとってもおいしかっただけに、落差が……」
「やっぱり昨日のはうまかったんだな。それはなによりだ」
「あ——すみません、イドラさん」
今のイドラに味覚がないことを思い出し、申し訳なさそうにするソニア。
その右目が色を変え、本来の眼球の機能である『モノを見る』という能力を失ったのと同日。イドラは味覚をはじめとする様々な感覚を失っていた。
正確には、代償に捧げたのだ。赤い補整器の燃えるような熱の中にくべてしまった。それらはもう戻ることはない。
「謝らないでくれ、ソニアが満足できたなら祝いの席に顔を出した甲斐もあったってものだ。それに……ははっ」
「——?」
突如肩を揺すり、小さく笑ってみせたイドラに、ソニアはどうしたのかと橙色の目をぱくちりさせる。
「いや、少し前とはまるで逆だな、って思ってさ」
「あ……そうですね。真逆になっちゃいましたね、ふふ」
以前はソニアの方が味覚を損なっていた。こちらはイドラとはまったく別の要因で、今はもうすっかり正常に戻っている。
それが今ではまるであべこべだ。おかしさに気付くと、ふたりは笑いあった。
それから休憩を終えると、イドラたちは歩みを再開する。
中天にかかる太陽。日差しは積雪に反射して、一面の銀世界を輝かせる。
一瞬だけ足を止め、イドラはその光景を見つめた。景色に見とれたわけではない。ルートの選定をするためだった。
(よし、多少急峻な地形もなくはないが、十分避けて通れるな……。僕の記憶が例の『代償』でぶっ飛んでなければ、雪山の登山は初めてだが、このぶんだと雪があるだけで普通の山と大差はないな)
イドラが生まれた南部も含め、このランスポ大陸は概して山がちではあるが、その傾斜自体は強くない。
別の大陸には、ここでは考えられないくらい大きく、考えられないくらい険しい山々だってある——そうイドラは昔、ウラシマに聞いていた。故郷の村で。
あの頃に聞いた旅の話のことを、イドラはまったく忘れていなかった。いくつもの記憶のピースを欠いた今でもだ。
「一面真っ白で、きれいですね。流石にちょっぴり寒いですけど」
「ああ」
ソニアの方は、イドラが景色を見つめていると思ったのかもしれない。だが特にイドラは訂正せず、ソニアがついてこれる速度でまた歩き出す。
「頂上に行けばもっとすごい景色が見られるんでしょうか。うーん、そう思うと登りきるのが楽しみです!」
「ん? いや、山の向こう側に行くのが目的だから、頂上には行かないぞ」
「えっ?」
「このまま、あっちの方の岩壁を避けるようにして斜面を進んで……そこからは尾根を目指して平行に進む。そうして尾根に出たら、後は下りだ」
「え——っ??」
ソニアは驚いたように橙色の目を丸くした。それからやや意気消沈した様子でイドラの後に続く。
やっぱり頂上を目指そうか。そう考えかけたイドラだったが、やはり寄り道をしている暇はなかった。
進み自体は順調。だからこそ陽が落ちるまでに、行けるところまで行くべきだ。
選定したルート通りに雪景色を縦断する。
傾斜が特別激しくはないが、滑落すれば危険なのは間違いない。うまく止まれなければ、そのまま何十メートル、下手すれば何百メートルも転がり落ちることになる。
万が一に備え、イドラはソニアは互いをフォローし合える距離感で斜面を進む。無事にそこを越えると、今度はトラバースと呼ばれる横断の移動だ。
「きゃっ……風が強くなりましたね」
「ああ、バランスを崩さないようにな。僕の陰に入っても構わない」
「は、はい」
足場の傾斜が激しくなくとも、強風に煽られて転倒というのは十分ありえた。
狭い足場。緊張から自然とふたりは言葉少なになり、慎重な足運びで少しずつ動く。
耳に届くのは互いの息遣い。そして、それを運ぶ風の音。凍えるように冷たく、叩きつけるように力強く吹き付ける突風。
無理には進まず、風がおさまるのを待ってから動きを再開する。そんなことを何度か繰り返した。
「よし——! あと少しだ、ソニア!」
「っ、はい……!」
先行するイドラが一足先に斜面を脱し、後ろのソニアに手を伸ばす。ソニアはそれを迷いなくつかみ取った。
つなぐ手を引き寄せるイドラ。広く、比較的平坦な尾根の上にふたりはようやくたどり着いた。
「ふう。やっとこさ折り返し、だな」
「ですね——あっ」
広い尾根はここも変わらず雪に覆われ、遠く稜線の先には燦然たる太陽のもとで輝く頂上が目視できた。
ソニアが声を漏らしたのは、そちらを見てではない。
「見てください。ここからでも十分、きれいな景色です」
「そうだな。それにこれだけ見通しがいいと、降りる方向を間違えることもなさそうだ」
「もう、イドラさんってば実利的なことばっかり」
くすりと笑う。つい気を張っていたイドラも、それを見て緊張を緩めた。
眼下には真っ白く続き、うねる、広大な景色。その向こうには平地があり、さらにその先には雪を被って白く染められた森がある。
その森を抜ければ、国境に続く道へと大きくショートカットできる。