第一幕 ミロウの言伝
お久しぶりです。三万字程度の短編になります。
「では——我らの村を救った英雄、不死殺し殿にかんぱァーい!」
その村で一番大きな酒場で、底抜けに陽気な声が響いた。
周囲の席を埋める村人たちは、そんな若い村長の音頭に対し、今や誰も耳を貸さずに酒と肴に舌鼓を打ち、談笑する。
なにせ、先とまったく同じ言葉を彼はこの日、既に七度吐いていた。
「すィませんねぇ、イドラさん。村長ってば、ここしばらく気が気でない様子でしたから。不安の種がなくなって相当はしゃいじゃってるみたいで」
そう言って、隣に座る女性がお酌するのを、イドラは苦笑しながら受け入れた。
イドラ——不死殺しのイドラ。その名は今や、大陸のほとんどにまで知れ渡っている。
このような大陸北東の、地の果てにあるような小さな村でも。
「イドラ殿に乾杯ィ——! 不死殺しばんざァい!!」
村長の男性は顔を真っ赤にしながら酒を流し込んでそう叫ぶと、そのまま腹を出して床にひっくり返ってしまった。
ほとんど痴態とも呼べるような有様に、イドラの隣の女性は眉間にしわを寄せ、イドラはますます苦笑を浮かべるほかない。
この村は近頃、付近の山から降りてくるイモータルに悩まされていた。
イモータルとは、この大陸にのみ存在する不死の怪物だ。だがイドラが持つギフトは唯一、その不死を殺すことができる。
そこで旅のさなか、生まれ育ったこの村を苦渋の選択で棄て、別の村に避難すべく南下する村人に出会い、話を聞いてイドラは駆けつけた次第だった。
ともに旅をする協力者の存在もあり、イモータルの討伐は一日足らずで済ませてしまった。偶然出会ったあの村人も、知らせを受ければ戻ってくることだろう。
「本当にすみません、村を救ってもらった英雄だというのに」
「いえ。頼りになる仲間もいますから、そう苦戦する相手でもありませんでした」
注いでもらった酒を喉に流し込み、イドラは思わず苦い顔をする。
すぐに「しまった」と思ったが、幸い村長に対する苦笑と混じって目立たなかったようで、女性は特に気にしていない様子だった。
イドラは酒は苦手だった。なにせ、味もしないのに、酩酊の不快感だけは残していく。
「せめて酒と食事だけでも楽しんでいってください。これだけがこの村の自慢なんです」
そう口にする女性はどこか誇らしげで、厳しい寒さに見舞われながらも自然豊かなこの地を心から愛しているようだった。
だからその様子を見てようやく、イドラは気付く。
——ああ、ここの飯はうまかったのか。
「……ありがとうございます。では遠慮なくいただいてきます」
「はい、そうしてくださいな」
邪気のない、朗らかな女性の笑み。
イドラに味覚は残っていない。一応、なにも感じないというほどではないが、そのほとんどは失われている。
ついでに言えば嗅覚もほぼなく、痛覚に至っては完全に消え失せ、他の皮膚感覚も希薄。
そしてその右目は、仇敵の眼窩を埋めていた天恵と酷似した、不吉な赤色を帯びていた。
「イードーラー、さんっ」
「うわっ?」
噛み締めても砂の味しかしない魚の煮つけを口に運んでは、作り笑いを浮かべるイドラ。そこへ背中から何者かがぶつかってくる。
振り向くと、そこには赤らめた頬をにへらと緩めた少女がいた。
その瞳と髪は橙色。それはちょうど、ベルのような花弁を釣り下げたとある花に似ていた。
「……ソニア。お酒は飲むなって言っただろ?」
「えぇ~? なんれすかぁ? 聞こえませんよぉ、えへへ」
完全に出来上がっている。イドラは大きくため息をついた。
間違えて飲んでしまったのか、それとも好奇心に駆られてしまったのか。今の彼女に訊いたところで、確かめることは叶わないだろう。
緩みきった顔でイドラの腰に抱き着くこの少女こそが、誰より信頼するイドラの旅のパートナーだった。
「ほらソニア、離れてくれ。人前だ。それに酒臭い」
「そんなこと言わないでくらはいよぉ~。あれ……なんれしょう、天井がくるくる回って——」
「めまいに襲われてるじゃないか。まったく飲み過ぎだ」
「——あ、方舟の皆さんですっ。わ、ウラシマさんとカナヒトさん、いっしょに訓練してますね……?」
「酔い過ぎて向こうの世界が見えてる……」
おそらくは幻覚なのだろうが、ソニアは不死憑きだった頃——イモータル化の発作に襲われていた時、妙に意味ありげなうわごとをつぶやいていた。この地底世界のはるか上方、雲の上に広がる、終末の使者によって荒廃した現実世界を垣間見るように。
となれば今回も——
(いや……やっぱり幻覚だな)
抱きかけた疑念を、杞憂だとイドラは切り捨てる。
なぜならソニアはもう、発作に襲われることなどない。不死憑きではなくなり、その肉体はもうすっかり元に戻った。
——否。それもまた、事実とは多少異なる。
「しょうがないな、まったく」
そばのソニアに手を伸ばし、その頭を軽くなでてやる。ソニアはくすぐったいような表情で脱力し、身を預ける。
なでながらイドラは、指通りのいい橙色の髪をひと房、指先ですくう。
白い毛先。そこにはまだ、不死の残滓がかすかに残されていた。
不死の鼓動がその身を侵していた時、ソニアの髪は絹のごとく真っ白になってしまっていた。だがイドラのギフトによってその鼓動が取り除かれると、それからソニアの体は徐々に正常に戻っていき、今ではその髪も母譲りのオレンジ色に戻っている。
しかし毛先の方だけはまだ、以前の白色が残っていた。
とはいえ、あと少し髪が伸びて散髪すれば、それで完全に白髪部分は除かれることだろう。本当の意味であるべき姿に戻るのは、既に時間の問題だ。
「すみません、そろそろ戻らせていただきます」
「え? もうでございますか? まだ準備は……」
「連れがこの状態なので。介抱しないと」
「は、はあ」
酔って千鳥足のソニアを持ち上げて抱きかかえると、宴もたけなわ、盛り上がる酒場をイドラは後にする。
両開きのドアに向けて歩く途中、イドラははたと思い出したかのように振り返り、思いのほか早く宿に戻ろうとする英雄に困惑した様子の女性に向けて言った。
「ご飯とお酒、ありがとうございます。お話し通り、とってもおいしかったです」
*
翌朝、まだ陽の昇りきらぬ頃。
眠気と若干の二日酔いを引きずるソニアを連れ、イドラは村を発とうとしていた。
昨晩の騒ぎは主役を欠いても相当に続いていたらしく、まだ村全体がしんとしたまどろみに沈んでいる。
地平線の彼方からわずかに顔を出した陽が、三日前に降った雪をきらきらと照らす。ここはランスポ大陸の最北、一年を通して厳しい寒さに見舞われる過酷な土地だ。一度降った雪は中々溶けきらず、山の方に行けば万年雪すら珍しくない。
「まだ眠いか? ソニア」
「う……大丈夫です。ただちょっとふらふらして。足元も雪で歩きづらいですし……」
「杖でもあればいいんだがな。ん——そうだ、ワダツミを使えばどうだ?」
「使いませんよ!? ウラシマさんに託してもらった大事なコピーギフトなんですからっ」
ソニアが腰に帯びている刃物。未だ彼女の背丈ではいささか不釣り合いなその日本刀は、ソニアにとって、そしてイドラにとっても恩師と呼べる女性から譲ってもらったものだ。
断じて二日酔いのふらつきを抑えるための杖に使っていいようなものではなかった。
結局、落ち着くまでイドラが手を引いてやることになる。
底冷えする外気の中を、静寂を泳ぐように、ふたりして白い息を吐きながら歩く。
(なんだか……あの時を思い出すな)
まだ一年ほどしか経っていないのに、もうずいぶんと以前の出来事のようにも思えるその日の一幕を、イドラはぼんやりと思い出した。
暗闇の中、長い階段を上ったこと。そしてそこでは、つないだ手の体温がなによりも心地よく、無言のままでも気持ちを伝え合ってくれたこと。
それはこうして、手を引いて雪の上を行く今も同じだった。
イモータルを狩るこの旅は、決して無理に急ぐものでもなかったが、かといってイモータルのいない場所に長居はできない。
あの白と金の怪物を殺せるのは、不死殺しだけ。イドラだけなのだ。
ならば、この村のように被害に苦しむ人々がいる以上、安穏としてはいられない。
(——村長のひと、若かったな。僕とそう変わらない歳に見えた)
酔っぱらって倒れていたあの村長の男は、明らかに若かった。
いかにも先代の村長の身になにかがあり、急遽その席を継いだという風だ。
なにか、とは。なんらかの病か。それとも事故か。
あるいは、不死の怪物に殺されたか。
酒の席で聞いた話では、最近はずいぶんとイモータルに気を揉んでいたという。避難のため南下していた男性がいたことも併せ、まず実際に被害が出ていたのは間違いない。
(もっと……僕が、早くここに来れていたら)
知らず、手に力がこもってしまっていたのか。ソニアがどこか疑問符を浮かべた顔でイドラに視線を向ける。
そして軽く息を吸い、なんらかの問いかけを投げかけようとしたところで——
「すみませ——んっ!」
「わっ?」
「なんだ……?」
後方、村の方向からイドラたちを呼び止める声。
振り向くと、特徴的な白の衣服に身を包む女性が、ぱたぱたと雪の上を駆けてきていた。
「……シスター、か?」
「みたいですね?」
近づくにつれ、その輪郭が鮮明になる。銀の髪を後ろでくくった、眼鏡姿の若い女。
なにより目に留まるのはその衣装だ。教会に伝わる数々の聖水を携帯できるようにと、ゆったりとしたシルエットに作られたローブのようなそれは、白い生地に藍色のラインが一本だけ入っている。
ロトコル教会のシンボルである、どこにでもいる小鳥、パーケトの見た目を模した修道服。祓魔師にも似たようなものが配られているようだが、彼ら彼女らはよくその制服を改造しがちだ。なにせ魔物、それからこの大陸においては不死身のイモータルを相手取らなければならないため、聖水をどの程度使うかなど、己の戦闘スタイルに合わせてアレンジをするのが通例だった。
本来そのような逸脱行為は禁じられるべきだが、時に信仰よりも力が優先されるここランスポ大陸の葬送協会においては、ほとんど公然の黙認を受けている。
(つまり、彼女はミロウやベルチャーナみたいなエクソシストじゃなく、各地に派遣されるふつうのシスターだ)
——しかしそのシスターが、一体なんの用だろうか?
かつてのイドラは、同じシスターの女性に恩師を殺され、協会の人間に対して不信感を抱いていた時期もあった。
だが、ミロウやベルチャーナとの関わりを経て、今ではそのような先入観を抱くこともなくなっている。
よほど体力に乏しいのか、ぜーはーぜーはー、と息を切らしてずり落ちた眼鏡を整える彼女に向け、イドラは問いかけた。
「なにか、用でも?」
「あ……! あのっ、すみま……こひゅーっ、ぜひッ」
「……息を整えてからで結構ですよ」
額の汗をハンカチで拭い、シスターはしばし呼吸に集中する。それから改めて、イドラの方を見た。
「挨拶させていただきます。私はこちらの村に駐在しております、ミドリハと申します。ええと、おふたりはこれからロウバイの方に向かわれるご予定でしょうか?」
「ロウバイ?」
「この先にある町です。てっきり、方角的にそちらへ行こうとしているのかと……」
「いや、この辺りには詳しくなくて。とにかく山を迂回して南下しようかと」
「なるほど。大きな町ではないので、遠くからお越しになったのなら知らないのも無理はありません」
話してみればミドリハと名乗った彼女の喋りは流暢で、体力はないようだが、仕事はできそうな印象があった。
「ミドリハさん、こちらからも質問しても? 僕の記憶が定かなら、祝いの席にはいなかったようですが」
「清貧こそロトコル教徒のあるべき姿ですので」
中々に信心深いらしい。イドラは感心した。
それで、とミドリハは話題を転換する。本題に入るようだ。
「イドラ様に言伝をあずかっております」
「言伝? 一体誰から?」
「デーグラムのミロウ様でございます」
思いがけない名前にイドラは驚きつつも、同時に納得する。
大陸各地に散るシスターをメッセンジャーにできる特権的な人間など、そう多くはない。それこそ、司教代理の彼女くらいのものだ。
「曰く、会わせたい人がいる、と。そのためにイドラ様を招かれております」