最終話 『プライベート・オラトリオ』
「うわっ……!?」
「きゃあッ————」
眼前で弾ける閃光。視界のすべてを覆い、塗りつぶすような、白と赤の光。
それらはせめぎ合うように互いを喰らい——やがて収束した。
「——収まった……?」
「……ああ。みたいだ」
二色の光は相殺すると、嘘のように消え去った。『外殻』は消失し、地響きは収まる。
風も止んだ。
手の中には、何事もなかったかのようなコンペンセイター。輝きの残滓だけをわずかに刃に残し、物言わぬ天恵は手に収まっている。
「あ……見てくださいイドラさん。朝ですよ」
身をわずかに離してソニアが言う。
イドラは反射的に、遠い地平線に目をやった。
「本当だ。夜が、明けたのか——」
渦を巻いていた雲は散り散りになり、まばらに広がりつつある。
そんな移り気な雲たちを優しく包むように、東の空から顔を出した太陽が、柔らかな朝の光を送り出している。
朝の訪れ、人類の夜明け。
ぎりぎりのところで、コンペンセイターの『補整』は届いた。
世界の融合は止まり、地上と地底は元通りに隔絶したまま。それはつまり、レツェリの望んだ理想郷の顕現は叶わなかったということだ。
そして、なおもイドラは自分自身や、ソニアのことを覚えている。
忘れてしまったものも、わからなくなってしまった誰かもいるけれど。一番に大切な少女のことや、身近な人々のことは覚えたままだ。
……最後にイドラがその記憶たちを燃やすことを踏みとどまったのは、ためらったから。単なる迷いの産物に過ぎない。
ただただ恐れ、躊躇した。だがそれこそがイドラの答えだ。
迷いなき意志を以ってこそ人は、吹雪の雪原を、照りつける荒野を、茨の道を往くことができる。
されど。同時に迷いを有してこそ、人は断崖の手前で踏みとどまることができるのだ。
「——やったんだな。僕たち」
「はい。これで、アンゴルモアもイモータルも、きっと……」
終末の使者も不死の怪物も、すべては『星の意志』の被造物だ。
『星の意志』——さらにはその力を引き継いだレツェリもいない今、アンゴルモアもイモータルも新たに生まれ出ることはない。
既に存在するものが消えないのであれば、すぐさま問題が解決するわけではないが、それでも先の見えない戦いではなくなった。
いずれ、この地上からはすべてのアンゴルモアが消え去るだろう。
「……たくさんの人たちが救われた。それなら、これでよかったんですよね」
だというのにソニアは浮かない顔で、朝陽ではなく、離れたところで倒れる男の死体を見つめながらぽつりと言った。自らに言い聞かせるように。
「もちろんだ。レツェリはもう、人間と相容れる存在じゃなくなっていた。こうするしかなかったはずだ」
「それでも——わたしはやっぱり心のどこかで、殺さずにいられる道を見つけたかったと思っています。そんな道が……あるはずないってわかっていても」
ソニアは断じて個人的な報復でレツェリを殺したのではない。仮にその気があるのなら、地底の聖堂でとうにそうしている。
レツェリはただ、排斥されたのだ。
神が人を排そうとしたように。人もまた、神を排した。
生命の生存とは、往々にしてそうしたことの連続であるのかもしれなかった。
「迷うことは、時には正しかった」
「イドラさん?」
「雨宿りしてた時にそんな話をしたの、覚えてるか? ソニアの中に迷いがあるのなら……それならそれも含めて、正しいって思う。今の僕はそう、はっきりと言える」
うつむく少女の肩を抱く。イドラの腕の中でソニアは、
「……はい。わたしも、そう信じたいです」
目を閉じながら、体重を預けるように身を寄せた。
世界の変革は止まり、天変地異のような異変は収まったが、ここはタワービルの屋上だ。まったくの無風ということは中々なく、柔らかな陽光の中、穏やかな風がふたりに触れる。
しばらくの間そうしていたが、背後から鳴り響く足音が耳に届き、イドラはそちらに体ごと向けて確認する。
「——誰だ?」
てっきり、ビルの下でアンゴルモアたちを抑えてくれていた、戦闘班の誰かが来たのだとイドラは思った。
だがそうではなく。
そこにいたのは状況に不釣り合いな、みすぼらしい格好をした見知らぬ少女だった。
少女は穴すら空いたボロボロの薄いシャツをまとい、茶色の髪は乱れ、剥げの目立つ合成皮革の不格好に大きなカバンを肩から下げている。
一目でわかる、ミンクツの——それも相当に貧しい暮らしをしている地域の子ども。
ひょっとしてソニアの知り合いなのかと思い、イドラは横目にソニアを窺うものの、彼女も疑問符をその顔に浮かべている。
今のイドラの記憶は虫食いだ。だが、ソニアも知らないということは、本当に知己の相手ではないらしい。
「あ——お兄ちゃんたち、あのっ、おじさんを知らない?」
その少女は、長い階段を駆けあがってきたのか、息を切らせながら訊いてくる。
ビルの周囲はアンゴルモアに囲まれていたはずだ。こんな幼い少女が、戦闘の合間を潜り抜け、ビルに入れるはずがない——
そうイドラは思いかけたが、すぐに気付く。作戦前のブリーフィングで確認した事項によると、このビルは二棟が連結している。イドラたちが入ってきたのとは別の棟から、連結部分を渡ってやってきたのだろう。
そちらのビルの周囲にもアンゴルモアはいただろうが、おそらく戦闘班たちの騒ぎに寄せられたのだと思われた。だからといって方舟から遠く離れたこのような場所に、非力な少女が単身で赴くなど、なにかの拍子に命を落としてもなんらおかしくはなかったが。
「おじさん? って……?」
「レツェリおじさんっ。ええと、背が高くて、髪は黒くて、ちょっと怖い雰囲気で——」
「レツェリだって!?」
「——あっ! あとね、いっつも左目だけ充血してる!」
——たぶん充血ではないと思う。
イドラは、こんなに幼い子どもがレツェリと知り合いであることに大層驚いた。
「レツェリおじさん…………レツェリおじさん…………?」
ソニアも驚愕のあまり、呆けた顔で少女の言葉をリピートしている。
一体どのような経緯で、この少女とレツェリが知り合ったのか。
どのような関係なのか——
それはイドラにはわからない。だがそれでも、この少女は確かにレツェリの知り合いのようだった。
「あれ? お兄ちゃんもなんだか、右目だけ赤いね……汚れた手で擦っちゃった?」
レツェリに会うために、幼くともここまでたどり着いたのだ。
ならば残酷でも、教えねばなるまい。その末路を。
イドラが視線で促すと、少女はそちらに顔を向けた。
「ぇ? あれ、って……」
屋上の隅で仰臥する黒衣。
すべてが移ろう世界で、ただ独り、時の流れに逆らおうとした者——その死体。
少女はふらつくような足取りで、レツェリのもとへと歩き、そのかつて生命だった肉塊に縋りついた。
「おじさん……う、ううっ。うぁ——ああああっ、ああああぁぁぁ……!」
そして、ぽろぽろと大粒の涙を流し始める。ただ純粋にその死を悼み、泣きじゃくる少女。
イドラとソニアは顔を見合わせる。もとよりイドラたちにとって、この世界は異邦の地だ。言うまでもなくそれはレツェリも例外ではない。
しかしそうであるはずのここに、レツェリのことをこれほどまでに強く想う者がいるとは。
少女が泣き止むのを待ってから、イドラはその小さな背に近づき、ゆっくりと話しかけた。
「僕はイドラ。その男の……レツェリの、敵だ」
「……イドラお兄ちゃんが、おじさんを殺したの?」
「そうだ。僕たちが、レツェリを殺した」
とどめを刺す役目は、イドラではなかったが。それでも同じことだ。
経緯はどうあれこの少女はレツェリの死を悼んでいる。ならば、恨まれても仕方がない。
そう、イドラは思っていた。しかし——
「……そう、なんだ。そっか……」
少女は振り向いて、ただ悲しげにイドラのことを見つめただけ。そこには怒りも、憎しみもない。
思わずイドラは訊いていた。
「恨まないのか?」
「おじさんは、悪いひと、だから」
一度だけ、少女はレツェリを見る。
百年を超える悲願を断たれ、胸を貫かれて死んだその男の顔は——眠るように安らかだった。
「マルオおじちゃんがね、教えてくれたの。おじさんは人を殺した。人を殺すのは悪いことだから、おじさんはきっと悪い人だったんだと思う。たぶん、ずっとずっと昔から」
己の目的のために、周囲の一切を顧みないその在り方。
それは純粋ではあったが、決して正義ではないだろう。
「そうだな、レツェリは紛れもない悪党だ。……でも、なら、そうまでわかっていてどうして、こんな危険なところにまで来たんだ?」
「だって——わたしが来なかったら、おじさんはひとりきりだから。悪いひとでも、ひとりなのは、きっと寂しいよ」
そして、少女の想いもまた、どこまでも純粋なものだった。
私欲や利害のない、混じりけのない献身。
レツェリの生涯は不死の探求に捧げられた。それゆえに彼は孤独だった。
その思想を理解する者はおらず、望みが途絶え、胸を貫かれる最期の瞬間まで彼は独りだった。
「寂しい——か」
あの男が、そのような寂寥を覚えるだろうか。
イドラはそう思ったが——
「ええ、そうですね。わたしもそう思います」
ソニアは、少女のそばへ歩み寄ると、柔らかく微笑む。
「お姉ちゃん、だれ?」
「わたしはソニアです。独りきりなのは……ええ。誰だって、寂しいものですよね」
「……うん。あのね、わたし、天音。矢田天音!」
「アマネちゃん?」
「そうだよっ。よろしくね、ソニアお姉ちゃんっ」
微笑みを返すように。ソニアに対し、少女は——アマネは、にこりと笑ってみせた。
雲が散り行き、空が次第に晴れ渡る。
涼やかな風がビルの屋上へと吹き付ける。
「わたしね、誰に言われたかは思い出せないんだけど……ずっと昔に、教えてもらったことがあるの」
再度、レツェリの死体に向き直り、その冷たい手に自身の小さな手を重ねながら、アマネは言う。
「亡くなった人は、雲の上にいく。遠い遠い、空の向こうにいくんだって。でも、この高い建物からなら……そこにも届くかもしれないよね?」
幼い少女が持つ、最も古い記憶。
おそらくその言葉を授けたのは、本来今も彼女のそばにいるべき存在だろう。
すぅ、とアマネは肺いっぱいに息を送り込む。
「ら——、ら————ら————っ、らら——」
そして、晴れ渡る空に響かせるように、大きな声で歌い出した。
「歌……」
イドラとソニアは思わず聞き入る。
アマネの歌は、歌詞もなければ調子はずれで、お世辞にも上手いものではなかったけれど。
「ららら——、ら——っ、らら————」
ただただ、懸命だった。
胸を打つひたむきさ、込められた感情の純粋さが、不出来なはずの歌唱にはあふれている。
天まで届けと音が響く。
レツェリに理解者はいなかった。同じ思想を共有し、同じ目的のために歩む者など、ただのひとりも存在しなかった。
しかし……この空の下には、そんなレツェリを想い、寄り添おうとする少女がいる。
もしもこの歌が届くのなら。念願叶わず死した男も、わずかばかりの救いを覚えるのだろうか?
死者は黙して語らない。その生は完結し、生命とはそうすることで初めて、流転する時間の中から外れることができる。
永遠の停滞へ至ることができる。
ならばせめて、そこが安らかな場所でありますように——
そんな願いを込めるように。少女の歌が、いつまでも雲の彼方に響き続けた。
次回エピローグです。