第百五十六話 『水は逆さまに流れず』
「……っ、起きろ、コンペンセイター!」
——まだだ。
そう簡単には終われない。易々とは殺されない!
イドラは己の首へ、輝ける赤い天恵の刃を突き刺す。
傷の補整。しかしイドラに活力を補うアンプルはもうない。
ゆえに、イドラは別のモノを捧げた。
(僕たちにはアレがある。まだ……大丈夫のはずだ!)
偽りの星の光を浴び、イドラの手首で黄金の腕輪がきらりと輝く。
問題なく首は完治した。誘導されたとはいえ、一歩下がったおかげで、首が両断されて即死するようなことにならなかったのは幸運だった。
「しぶとい男だな。あのカナヒトとかいう、カタナを持った男も大概だったが」
辛くも死の淵から生還したイドラへ今一度、漆黒の剣が振り抜かれる。
イドラとて歩んできた旅路は尋常ではなく、ナイフの腕は卓抜している。見事なナイフ捌きにより、抉るようなレツェリの剣を凌いでみせた。
だが——
「小門・展開。二門」
「……っ!」
レツェリは剣士ではない。剣は単なる、いくつもある道具のひとつに過ぎない。
攻め入る隙を与えないように、イドラの胴体に『箱』が展開される。万物を断裂させる恐ろしい能力の前兆だ。
そしてそれさえも本命でなく。
『箱』を回避した先の位置に、ふたつの天の窓から戦斧と薙刀が放たれた。
「が……ぁ!!」
対処できたのは片方だけ。辛うじて薙刀の方をコンペンセイターで受け流すと、戦斧は呆気なくイドラの片足を切断した。
天の窓から射出される際の勢いは相当なものだ。弾丸さながら一直線に放たれた黒い戦斧は、いともたやすく骨肉を断つ。
(まだ、だ……!)
背を伝う悪寒。されど痛みは——ない。
感じない。
心の奥底からじくじくと湧いて出る恐怖を燃やし、イドラは足の断面をコンペンセイターで斬りつけ、『補整』を行う。
断ち切られていた脛から下が再生する。治りたての足で地面を踏み込み、イドラはコンペンセイターを振り抜く。
「なに?」
怪訝そうに眉をひそめながら、レツェリは剣で受け止める。
さらに展開される『箱』。回避するイドラ。またしてもそれを読んだ太刀筋で、漆黒の剣がイドラを逆袈裟に捉える。
「はぁッ!」
まともに受けたイドラの胸から、おびただしい量の血が飛び散る。傷は内臓にまで達している。
それをまるで意にも介さず、再度振り抜かれたコンペンセイターの赤い刃が、レツェリの肩口を裂いた。
マイナスナイフと違い、コンペンセイターの刃は負数を帯びていない。『補整』の能力を使わなければ、斬ったものは通常のナイフと同じように斬れる。
そしてレツェリに攻撃が有効なのは、以前カナヒトが証明済みだ。『星の意志』の力をレツェリはあくまで眼球にのみ封じている。よってその眼を除けばレツェリの肉体は人間のままで、ならば血も通っており、致命傷を負えば死ぬはずだった。
「貴様……痛みを感じんのか?」
「——」
レツェリが攻撃の手を休めたのを見て、イドラは胸の傷を『補整』する。
レツェリの言う通り、斬られた時も、傷口にコンペンセイターを刺して治療する際も、まるで痛みは感じない。
……代償。
コンペンセイターの能力は代償を伴う。以前のように活力を補整のために捧げれば、気を失いかねない。
だからイドラは痛覚を棄てていた。傷を補整する代償として、痛みという感覚を捧げたのだ。
「フン。人の身から外れようとしているな、貴様」
「お互い様だろ、神さま気取り!」
ソニアはまだ花の海に溺れている。イドラはここが正念場だと理解していた。
息もつかせぬ連続斬撃。一気に攻勢に打って出て、刃の雨を浴びせる。
だが、それを甘んじて受けるようなレツェリでもない。『星の意志』に由来する剣術と、持ち前の天恵で反撃に出る。
さらに、極小の天の窓から打ち出された得物が体をかすめ、イドラの肉を抉っていく。
「——はあぁッ!」
一切ひるむことなく猛攻を続ける。
痛みを感じぬ傷など、無いのと同じことだ。既に痛覚は完全に消え、嗅覚も代償に捧げた。
レツェリの『箱』を視認できるよう補整した右目も、視力のほとんどを失っている。モノを視るための器官ではなく、レツェリの描く仮想の立方体を捉えるためだけの存在へ近づいているのだ。
視界に浮かぶワイヤーフレーム。
避けきれず、脚の一部を切り取られる。
「せやあッ!!」
「く——」
それでも攻撃の手を休めない。肉が裂けて血が飛び散り、骨が覗こうが、赤い天恵の刃を振るう。
それはまるで三年前、ウラシマを亡くし、半ば自暴自棄の気持ちで不死の怪物を狩り続けた、旅中の頃のようだった。
「人外じみた戦い方を……! だがその戦法も長くは持つまい!」
「持たせてやるさ、必要ならな!」
肉体の駆動に支障が出る傷のみ、コンペンセイターで治療する。
今度の代償は味覚。戦闘に必要のない五感は棄ててもいい。
痛みは感じずとも——あるいは痛みがないからこそ、胸中にはじくりと恐怖が湧く。
レツェリに対する恐怖ではない。自らの変化……あるはずの感覚が失せ、人としての枠を少しずつ外れていくことに対する、根源的な恐れ。
しかし眼前の悪魔に対抗するには、こうするほかない。
イドラが背負っているのはもはや個人の宿命だけではない。方舟の多くの人たちの希望、現行人類の存亡をもその背に乗せている。
ならば、恐怖を燃やし、迷いは取り除かなければ。
カナヒトたちがそうしてきたように——
「なぜ拒む——なぜ誰も理解できん? ヒトは死を克服するべきだ、しなければならない! 私は至るべき理想郷を到来させようとしているのだぞ!」
「そのせいで地上や地底の人たちが死んだら、意味なんてないだろう……!」
「もとより死ぬ命だ! 私がなにもせずとも、いずれ塵芥と消える命だろうが……!! 意味のある生など存在しない! 私の創り出す、永遠の理想郷以外では!!」
拮抗する天恵の赤。眼球が輝き、仮想の立方体が花を断ち、短剣が振るわれ、いくつもの天の門が開かれる。
幾度となく斬り結ぶ。
だが、感覚の喪失を伴う『補整』を前提とした、イドラの強引な攻めを以ってしても、レツェリに深手は与えられない。
その恐るべき天恵に加え、『星の意志』から継いだ力。手札の数が違いすぎるのだ。
しかしイドラにも、まだ奥の手は残されている——
その手首には、出撃前にウラシマに渡された荊棘之道がある。
「死んだ人間には——終わった生には意味がないって、お前はそう言いたいのか」
「そうだ! 死ねば終わりだ、それが世の理だ! だが、そんな理不尽は認めない……! ゆえに死を超克するのだ、摂理をねじ曲げてでも!」
「お前の見方は一面的だ、はっきりとわかったよ。ソニアの言った通り、その理想は意義を欠いている」
「なにを——」
翻る剣、展開される『箱』を越え、赤い天恵の刃を届かせる。
またしても浅手ではあったが、レツェリの肩から赤い血が漏れ出る。
「後に続く誰かがいる限り、死の意味は決してなくならない。そんなこともわからないから、ただ生きているだけの停滞した世界を理想だなんて思うんだ」
「——死を肯定するのか? 馬鹿な。だったら、貴様だけとっとと首を吊ってこい」
「自慢の眼が曇ってるって、そう言ってるんだよ。死は確かに悼むべきものだが、お前の思うように、なにもかもが無に帰るわけじゃない」
トウヤと過ごした時間をイドラは思い出す。
アンゴルモアに抗い、死んでいった者たち。カナヒトは彼らの死を無駄にしないために戦っていた。
そう、無駄になどならない。誰かが遺志を継ぐ限り、生きた証は残り、その生が無駄になどなるはずがない。
「たわごとを抜かすな! 小門・展開、四門ッ!!」
周囲に開く神の門。空間に浮かぶ漆黒の亀裂から、直刀、曲刀、短刀、青龍刀が現れる。
それらは別々の場所に向けて発射される。イドラが回避する先の地点を、前もって潰す軌道。
ならばと前進し、レツェリへ肉薄するイドラ。そこへ振り抜かれる漆黒の剣。
回避先は青龍刀に潰されている。イドラは左腕で刃を受け止めた。
「——」
腕一本を使う、骨肉の盾。
構わない。痛みはない。傷も、後から補整可能だ。
なりふり構わぬ刺突を繰り出し、コンペンセイターの刃を宿敵の胸に突き立てる。
「かかったなァ! イドラッ!」
赤い短剣は確かにレツェリを貫いたが、わずかに位置をずらされた。心臓は逸れており、即死ではない。
そしてレツェリはいつの間にか漆黒の直剣を捨てており、空いた両手で、イドラの右腕を強くつかんだ。
「——なっ!?」
「逃がしはせん! その腕、もらったぞ——!」
イドラの右目、補整眼球の視界にワイヤーフレームの『箱』が浮かび出る。
それは自身の右腕に被さっていた。
「しまッ——」
振りほどこうにも、両手で完全につかみ取られている。このように物理的に捕らえ、逃げられないようにしたところで、万物停滞を使う。そのためにレツェリはあえてイドラの刺突を受けたのだ。
もし『箱』が即死を狙って頭部や胸部に展開されていれば、足は自由なのだから強引に抵抗すればなんとか回避できたかもしれない。だが、『箱』の位置は腕。どう抵抗しようとも、その境界から逃れ出ることは叶わない。
「ぅ……!」
「ハッ、ここまでだなイドラッ! 後はゆっくりと寸断してくれる——」
にぎっていたコンペンセイターを取り落とす。なすすべなく、肘の少し先でイドラの右腕はバッサリと切断された。
すると血が抜け出たことで腕がわずかに縮んだのか、手首に着けていた黄金のブレスレット——荊棘之道が落下の衝撃で切断面から外れ、右腕もろともサンダーソニアの海へ沈む。
痛覚を棄てたおかげで痛みはなかったが、絶望的な状況には変わりない。
腕がなければ短剣を振るうことなどできはしない。無論逆の手はあるが、地面に落ちたコンペンセイターを拾おうとすれば、間違いなくレツェリはその隙にイドラを殺すだろう。
「——ッ!?」
そんな絶対的優位にあるはずのレツェリが表情を凍らせる。
そして、手元に極小の天の窓を開くと、またしても現れた柄をつかみ取り——後方に向けて振り抜いた。
振り向きざまの一刀。レツェリが手繰り寄せたのは、二尺程度の小太刀だった。
そしてそれを受け止めたのも、また日本刀——
「貴様……ッ、なぜ生きている!!」
全身、具体的には肩と背中と脚に刀剣が突き刺さったままのソニアが構えた、コピーギフトのワダツミだ。
そこには確かにソニアが立っていた。二本の足で、花の大地を踏みしめて。
完全に不意を突いた一撃だった。なにせ、ソニアはどう見ても致命傷だ。死者が動くはずはない。
しかしそんな想定外の奇襲さえ、レツェリは危うくも防いでみせた。
そこへさらにソニアは二の太刀、三の太刀を浴びせる。
だがレツェリにも『星の意志』から継いだ剣技がある。両者の剣戟は数度続き、そのたびに刃同士が激突する音が花畑に響く。
「小門・展開、六門ッ——この私の邪魔をするな、ただの小娘が!!」
「いいえ。わたしは、あなたを裁く者です」
「なにを……」
開かれるいくつもの極小の天の窓。
そこから放たれるそれぞれの刃物に対し、ソニアは注意を払わない。意にも介することなく、ワダツミを振り抜こうとする。
「捨て身か? 起動しろ、万物停滞ッ!」
駄目押しとばかりに、赤い眼球が起動する。
『箱』はソニアの頭部に展開された。もしソニアが死と引き換えに一刀を放つつもりであっても、頭と体が別れてしまえば、肉体に命令を届けられはしない。レツェリらしい実に的確な判断だ。
そして、『箱』がソニアの頭部に重なった状態で、その能力は確かに発動され——
「巻絡」
「な……に?」
一閃。斬り上げる刀身が、レツェリの胸を深く裂いた。
……ソニアの首はつながっている。
それよりも不自然なのは、全身に突き刺さる刀剣だ。今の射出を受け、ソニアの小さな体を、痛ましくも刀や剣が何本も貫いている。
だというのに。血は、一滴も出ていなかった。
レツェリはその場に膝をつく。致命傷は明らかで、胸から滴る血が足元に咲く橙色の花を赤く染めている。
呆然と、刀を下ろすソニアを見上げるレツェリ。
その視線の先——ソニアの手首で、黄金の腕輪が輝いた。