第百五十五話 『落花』
「————ぐぅうッ……!」
脳髄を突き刺すような鋭い激痛に、思わずイドラはうめいた。
偽りの星が見下ろす、サンダーソニアの花畑。
そこは確かにタワービルの屋上だったが、レツェリが『星の意志』から継いだ力を使い、地底世界の空間を投影したことでまったく違う光景を見せていた。
「……貴様、なんのつもりだ?」
そのレツェリがイドラを前に当惑する。
痛みにうめくイドラ。しかしレツェリはまだ攻撃をしていない。
そう、レツェリはなにもしていない——
そして、イドラの右目に、コンペンセイターの赤い刃が突き刺さっている。
自傷。イドラが自分からその手でコンペンセイターを目に押し込んだのだ。レツェリが百年と少し前、左の眼球を自ら進んで抉り出したように。
逆の手には体内に注入を開始する、最後の注射器。
(この後のことを思えば、一本は温存しておきたかったが——)
——余力を残して勝てはしない。
躊躇を捨て、痛みを越え、薬剤によって得た活力を刀身へ注ぐ。
補整器、そう命名したのはスドウだった。実に言い得て妙だ。
代償を注ぎ、欠損を補整する。それが『順化』したマイナスナイフである、この赤い天恵の能力。
では——なにを以って十全とするのか?
なにを以って、欠損とするのか?
定義には一考の余地がある。解釈を入れる隙がある。
イドラはここで、己の眼球を再定義した。
「レツェリ。お前はそのギフトで空間を区切る時、立方体の形を視界に描いているな?」
「なにッ?」
指定した空間の時間を、たった一瞬だけ遷延させる。それがレツェリのギフト・万物停滞の能力だ。
指定した範囲の境界にある万物は、内と外で流れる時間の差により、断裂される。
そこまでは、デーグラムの聖堂で暴いていた。
だがその先。具体的にどのようにして能力が及ぶ範囲を決めているのか?
その謎の答えは、皮肉にも『順化』がもたらした。自転する星の上で、レツェリの眼は静止物さえも巻き込めるようになり、イドラの前でビルをまるまる一本断ち切ってみせた。
しかしそれをきっかけに、イドラは気付いたのだ。レツェリは、仮想の立方体を視界内に重ね合わせることで、能力を発動しているのだと。
「なぜ知っている? どうして気付いた? いや、気付いたとして、だからどうだと——」
「僕にも見せてもらうぞ。お前だけの仮想の『箱』を」
補整が完了する。赤く輝く補整器の刃が引き抜かれ——
……そこには、コンペンセイターの刃の輝きが移ったかのような、赤い右目が残った。
「——赤い、眼?」
「なんだ、赤色になったのか? くそっ、おそろいみたいで恥ずかしいじゃないか。色まで変わるなんて聞いてないぞ……」
「イドラさん……」
心配げな目を向けるソニア。彼女は事前に、イドラの『策』を聞かされていた。
これは最初の一手だ。なによりも肝心なレツェリの天恵への対策を、イドラは己の眼を補整することで行った。
「抜かせ、できるはずがない! 起動しろ、万物停滞……!」
赤い左眼が不吉に輝く。レツェリがその恐るべき天恵を起動させる。
その瞬間——
イドラの視界に、己の首から下を巻き込む、ワイヤーフレームの立方体が映し出された。
すぐさまイドラは背後へ跳ぶ。すると、イドラが立ち退いた立方体の境界にあった、サンダーソニアの花々が茎のところで断裂する。
「視えているぞ。レツェリ」
「貴様ァ……ッ!」
ぎり、と歯ぎしりの音。おそらくは——否、間違いなく、レツェリの長い生涯でも初めての経験だろう。
仮想の立方体、己が視界内に展開する『箱』を視られている。
すべてはレツェリの頭の中で行われることで、本来それは余人に見えるようなものではない。だが、もし仮に、他者にもそれが見えているのなら——
能力発動までのタイムラグのうちに、万物が停滞する死の境界線から逃れ出ることはそう難しくはないだろう。
しかしなぜイドラに、そのレツェリにしか視えないはずの『箱』が視えているのか? 答えはやはり、コンペンセイターによって『補整』した右目にあった。
レツェリによる範囲指定のプロセスを理解したイドラは、同じ『箱』を視るように右目を補整した。つまり、レツェリの『箱』を視られる状態こそが十全であり、それができていない己の眼球機能は欠損していると定義したのだ。
当然ながらそれは無茶な行いだった。言うまでもなく、ヒトの眼は本来そのようにはできていない。他者が脳内で仮想的に描く立方体を盗み見る機能など、現状の人間の眼球には搭載されていない。
ゆえに、その補整した右目は『箱』を視る機能と引き換えに、従来の機能を喪失した。
「その天恵……以前の能力を失い、驚異にはならんと踏んだが。やはり、私の天敵は貴様だったか!」
「さあ、仕切り直しだ。目にものを見せてやるよ、神さま気取り」
右目を指し、これ見よがしに挑発をするイドラ。
レツェリはそれを受け、唇を歪めて笑みを形作った。
「ハッ、ずいぶん得意げになるじゃないか! 私の描く『箱』を視られるからといって、貴様に私と同じことができるわけではない。それで私に並んだつもりか?」
イドラの腕を巻き込むワイヤーフレーム。能力が展開される前に、腕を引いて逃れる。
だがイドラを追って、さらにレツェリの視線が向けられる。今度は右脚を切断する位置に仮想の『箱』が現れる。
「イドラさんばかり狙わせませんっ!」
そこへ、ソニアが助けに入った。抜き身のワダツミ、その白刃を振りかざす。
だが——
「何度言えばわかる。イモータルの力を欠いた貴様など、ただの小娘に過ぎん!」
「ソニア、右だ!」
「——っ!」
イドラの視界内で、今度はソニアの位置に『箱』が現れる。
ソニアに『箱』は視えない。よって、イドラが指示してやる必要がある。しかし瞬時に詳細な『箱』の位置を伝えることは難しく、回避の方向を大雑把に教えるのが精一杯だ。
だがそうなれば、回避は大げさになり、とても攻撃と両立できるようなものではない。ソニアはイドラの指示を受けると、接近を諦め、横へ大きく跳ぶ。
一秒前まで彼女がいた位置に自生していたサンダーソニアが、またしても茎で切断される。いくつも咲いた、橙色のベルに似た袋状の花弁が、罪人の首を斬り落とすようにぼとりと落ちた。
いかにイドラに『箱』が視認できようと、レツェリは視線ひとつで殺傷が可能。
ただ視る。それだけで恐ろしいほどの牽制になる。
「だったら……!」
ソニアは突然、構えたワダツミを腰の鞘へ仕舞う。
近づけないのなら——近づかずに斬ればいい。今のソニアには、その手段がある。
ウラシマから継いだ、あのベルチャーナに打ち勝つ決め手にもなった、水流居合!
ソニアがなにか仕掛けようとしているのを察し、イドラは注意を引くべくレツェリへ向かっていく。
「なにをしようと無駄だ、既に地上と地底はすぐそばにまで迫っている。衝突までの猶予はそう長くはあるまい」
「そんなことはさせない……!」
逆手にコンペンセイターを構え、白兵戦を仕掛ける。
しかし当然、レツェリは進路を阻むように『箱』を展開し、それが補整眼球で視えているイドラはそのつど迂回を強いられる。
両者の距離は簡単には縮まらない。
(だけど、これで十分!)
イドラの目的はあくまで、あの赤い眼を釘付けにすることだ。
トカゲやカメレオンでもなし、いかなレツェリも両の眼を別々に動かせはしない。
イドラに『箱』を展開している間、レツェリはソニアへの牽制を行えない。
そのはずだった。
「——氾濫。イドラさん、いきます……!」
「わかった!」
「む……」
ソニアが刃を鞘に納めたまま、ワダツミの起動コードを口にする。
今、彼女の鞘の中では、精密な水流操作によって、水が加速しながら循環している。
イドラは巻き込まれないよう、レツェリから離れるように花畑を横切る。
そして——開かれた射線に向け、
「はあああああぁぁぁぁぁ————ッ!!」
裂帛の気合いを込めて、ソニアはワダツミを抜き放つ。
とても太刀の間合いではない。しかしその加速した斬撃は水を乗せ、流体の刃を標的へと飛ばす。
ウラシマが編み出しソニアが継承した、55号・ワダツミのためだけに究められた術理。逢い見る者すべてを斬る魔の一刀がレツェリを襲う——!
「——小門・展開。四門」
迎え撃つは神の門。
レツェリの周囲に極小の天の窓が四つ、音もなく開かれた。
「あれは……『星の意志』のッ!?」
——あれさえ使えるというのか!?
イドラにとって忘れもしない、ポータルのひとつひとつから武器を射出する、『星の意志』の使った超常の力。
修練された人の技を、大いなる意志の御業が打ち砕く。
「え……っ?」
「少しばかり驚いたが——やはり、所詮は無力な小娘だなァ」
天の窓から発射された巨大な片刃の剣が、その幅広の刀身でさながら盾のごとく、水流居合によって放たれた鋭い水の刃を防ぎきった。
そして、残りの門より射出された三本の刀剣が——
ソニアの全身に突き刺さり、その柔い体を貫いた。
「ソニア!!」
悲鳴も上げず、ソニアは剣が刺さったままの体でその場にどさりと倒れ込む。
すると彼女の姿は、サンダーソニアの花たちに埋もれて見えなくなってしまった。
「まったく阿呆な娘だ。力を失くしたのだから、大人しく市井に混じって過ごせばよいものを」
即死でなければ、コンペンセイターの補整能力による治癒が通じるはず。
しかし、駆け寄ろうとするイドラの眼前に、進路を塞ぐ『箱』が現れた。
「くっ——!」
「初めに言ったはずだ、貴様たちは最善を逃した。選択を誤ったのだ!」
迂回するために足を止めたイドラに、あろうことかレツェリは自ら接近する。
近づきながら、手元に天の窓出現させ、そこから現れた柄をつかむ——
「レツェリ……! お前はぁ!」
「案ずるな、すぐに貴様もあの娘のもとへ送ってやろう! 死という停滞の中へなァ!」
——引き抜きざまに振るわれたそれは、特別な意匠のない直剣。
星のない夜を鍛えたかのような、漆黒の剣。
レツェリは『星の意志』と同じように、極小の天の窓を使えることを隠していた。その奥の手を見せた今、剣による白兵戦はむしろ望むところのようだ。
重い一撃をなんとかコンペンセイターで受けるイドラだったが、すぐに、自身の首に被せられたワイヤーフレームの存在を辛うじて視界の端で認識する。
『箱』だ。
すぐにその場を退かねば、境界に立つイドラの首は落とされる。先ほどその能力に巻き込まれたサンダーソニアの花のように。
「——っ」
「そら、詰みだ」
だからイドラは後ろへ一歩下がり、それを読んだ横薙ぎの一刀が首を裂いた。
誘導——
剣による接近戦に、恐るべき眼球の力を組み合わせた戦法。
特筆すべきは剣の冴えだ。やはり『星の意志』の力から達人じみた技能を獲得しているのだろう、レツェリの剣技はイドラの想像を超えた鋭さを帯びていた。
頸動脈が切れ、びゅうと赤い血がイドラの首筋から飛び出る。