第百五十二話 『暗夜の果て』
「……はい。正直、怖いです」
素直にそう答えたソニアの肩は、わずかに震えていた。
その幼い双肩に人類の命運が乗せられている。今日に続く過去の意義と、今日から続く未来の存続が、今夜その手で決定付けられるのだ。
恐ろしくて当然だ。
「大丈夫。大丈夫だ」
「あ……」
昼過ぎの時のように髪に触れ、軽く頭をなでる。するとソニアは猫に似て目を細め、少しくすぐったそうにはにかんだ。
「……ありがとうございます。そうですよね、大丈夫です。いい結果にするって、決めましたから」
「その意気だよ。きっとやれるさ、僕たちなら」
そう言ってゆっくりと手を離すイドラの手首に、きらりと輝くものがあった。
その形状はまさしく荊棘之道。地底世界でウラシマの形見としてお守り代わりに着けていたブレスレットと同じもの。
昼間、無線でウラシマに聞いた通り、コピーギフト開発部は、荊棘之道のコピーギフトの製造に成功した。イドラは出撃前にウラシマからそれを渡されていた。
そのスキルも起動コードも、既に伝えられてある。
やがて通信機を通じ、方舟本部のオペレーターから出撃の合図が届く。
タワーの周辺は一面の黒い存在に占められている。アンゴルモア——終末の使者は塔の果てにいる主を守るかのごとく、周辺を埋め尽くす。
陣形を保ったまま、狩人たちが前進する。それはまるで黒い海に飛び込んでいくかのようだった。
「……行こう!」
「はいっ!」
イドラとソニアは遅れてそのあとに続き、仲間たちが拓いた道を駆け抜ける。
黒い海が割れている。それは断じて神の奇跡などではなく、命を懸けて同胞たちが作り出した、血で出来た刹那の活路だ。
「気張っていけぃ、『片月』!!」
「せいぜいがんばってくださいよぉ……!」
「死んだらあかんで、おふたりさん!」
すれ違う者から声援が届く。中には『鳴箭』の面々もいた。
仲間を信じてイドラたちはひた走る。その進路上に、ふらりと戦線を抜け出たハウンドが立ちふさがる。
それを、激しい炎が消し飛ばした。
まばゆく闇を照らす輝き。その炎は、かつて幼い頃、イドラがなによりも憧れた——
「セリカ……!」
「離れてても仲間だから——あたしも、リーダーも! さあ、行って!」
「ああ!」
「ありがとうございますっ……!」
走る。走る。走る。タワーまではあと少し。
息を切らす全力疾走。入口は近く、阻むものはない。阻害する漆黒の使者はすべて、明日を望む者たちが抑え込んでくれている。
「——行くんだ、イドラ君、ソニアちゃん!」
そして最後に、恩師の声を背に受けて。
希望を託されたふたりは、ついにそのビルの中へと入り込んだ。
広々としたエントランスホール。だが中の施設が生きているはずもなく、闇の中に目を凝らせば、アンゴルモアによる破壊の爪痕らしきものがある。探せば白骨化した死体も出てくるだろう。
イドラたちは階段を探すと、屋上に向かって上り始める。
地上数十階もある高層ビルだ。道のりは長い。
一段、また一段と、闇の中を上っていく。明かりはなく、耳に届くのは互いの足音のみ。
まるで、光も音も殺されてしまったかのよう。
階層をひとつ上がるごとに、感じる圧力のようなものが増していく。
不吉な気配。背筋を駆け抜ける悪寒に似た、凶兆じみたものが強まる。
屋上にたどり着けば、間違いなく宿敵はそこにいるだろう。
「——」
イドラに恐怖はない。冷たい闇の中で、心細さを感じることもない。
振り返ればすぐそばにソニアがいる。それだけのことが、意志を強く保たせてくれている。
出会った時、ソニアはあの集落の岩室で、ひどく怯えた瞳をしていた。
手足まで鎖につながれて。不死憑きと蔑まれ、厄介扱いされ、暗い場所に閉じ込められ——ソニアは未来に絶望し、その夜に自ら殺してほしいとまで懇願した。
故郷の村を出る前に、母に言われた言葉をイドラは覚えている。
——もしも旅先で、どうしようもなく困ってる人がいて、助けたいと思った時には必ず助けること。
ソニアのことを助けたいと、その時、イドラは強く思ったのだ。
しかし気がつけば——
(僕の方こそ。ソニアに……何度も、助けられた)
あの渓谷で。あの聖堂で。この世界で。旅の中の、何気ない場面で。
いつもソニアに助けられ、励まされてきた。
あの出会いによって救われたのは、恩人を失い、叶わない贖罪のためにさまよっていたこの身の方だった。
不死殺しと不死憑き。これが必然の出会いだったとするのなら、神を宿したあの男との決着も必然なのだろう。
上っては折り返し、上っては折り返し、いくつもの踊り場を過ぎていく。ようやくビルの中ほどに達しただろうか。
果てはまだ遠く。空を目指すように、ふたりは階段を上っていく。
いつの間にか、どちらからともなく——あるいは互いに自分から、その手をつなぐ。
互いを離すまいときつくにぎり合うのではなく、存在を確認するような、体温を確かめ合うような、そんな軽い手つなぎ。
ふたりにはそれで十分だった。淀みない足取りで、言葉もないまま階を行く。
(……着いた)
やがて暗夜の果てに、重々しい両開きの扉がその輪郭を浮かばせる。
ここを開けて一歩踏み出せば、最後の決戦が始まるだろう。
扉の前で手を離す。イドラたちは顔を見合わせ、うなずき合った。
話すことはなにもない。語るべきことは、手から伝わる体温を通じて交わし合っていた。
同胞に、仲間に、恩師に希望を託された。『片月』の一員として——だけでなく。
不死殺しのイドラとして。
地底より続く、レツェリとの因縁を今夜断つ。
「————っ」
扉を開け放つ。すると、空気を裂くような突風がイドラたちの全身を叩いた。
風の中で目を開ける。
「あれは……」
標高が高まり、渦を巻く暗雲が間近に見えている。その直下——
広々とした屋上スペースの中心で、真っ白くつるりとしたモノが、宙に浮いている。
「——なんだ?」
光沢と輝きを帯びる、球体に近い形状をした、人ひとりより少し大きい程度のなにか。
それはイドラがこれまでの生涯で見てきたあらゆるものに類似せず、しかし同時に、あらゆるものに似ているような感覚も覚える。
「やはり来たか。むざむざ寿命を減らすこともなかろうに——駆け落ちでもしておくのが貴様らにとっての最善だったぞ。人生とは結局のところ、終末からの逃避でしかないのだからな」
現れたイドラたちに、特に驚きもせず。吹き荒れる風に黒衣の裾をはためかせながら、レツェリはその白いモノのすぐそばに立っていた。
「……レツェリ。お前は一体、今度はなにをしようとしているんだ。この白い……卵のようなものはなんなんだ」
「答える義理などない——が、そうだな。冥途の土産という言葉もある。卵と形容したのはあながち間違いではないが、コレは言うなればその殻だ」
「殻?」
「外殻。中身として注ぐのはこの世界と、そして我々のいた地底世界。私が望むのは、ふたつの世界の融合だよ」
「なんだと?」
現実地底と地底世界の融合。その意味を、イドラはすぐに理解できない。
そもそもそんなことが可能なのかさえ。
だが——レツェリは今や、この星そのものを管理・運営するための力をその眼に収めている。
「嵌合と言ってもいいかもしれないが、滑らかに噛み合うようなものではないだろうなァ。しかし地底世界はその呼び名通り、座標的には地下にある。ならば断絶を排し、地表と地底を極限まで近づければ、それは成るはずだ」
「地表と地底を近づける……この異様な空はそのせいか!?」
「いかにも。貴様らの邪魔が入らなければ、夜明けには作業も終わっていただろう。地上でも地底でもない、ふたつが混ざり合う新世界。それがこの外殻の内側に収まり、そこで生まれた生命は例外なく不死を実現する」
風を浴びるように両手を広げ、レツェリは滔々と語る。
不死。実現される道理がイドラにはまだわからずとも、レツェリの最終的な目的が行き付く先はやはり同じのようだった。
レツェリはまだ、不死の願望に向かっている。
この男こそ不死憑きだ。万物が流転するこの世界で、ただひとり、停滞をなにより強く望んでいる。不死という野望に取り憑かれ、妄執が絶えず意志を覆っている。