第百四十五話 『神憑き』
旧オフィス街の一角。林立するビルに四方を囲われるような、灰色の迷路じみたその場所で、イドラは固唾を呑んだ。
手には赤い天恵、コンペンセイター。周囲には同じチーム『片月』の仲間、カナヒトとセリカがそれぞれ12号・灼熱月輪と73号・烈日秋霜を構えている。
三者とも、一目でわかる満身創痍。
何頭ものアンゴルモア、そして『星の意志』との激戦を経たのだ。全身は傷だらけで、特にカナヒトの傷は重く、イドラも方舟特製のアンプルを打ったとはいえ、コンペンセイターの二度の『補整』による反動で疲労は甚大だ。
そんな彼らの視線の先に、ソレは立っていた。
「方途は定まった。ヒトは、いよいよ悲劇のない理想郷を迎えるだろう。だが、その前に……集る蠅を潰すとしよう」
朝陽を背に。黒い外套を翻し。赤い左眼を輝かせ。
まばゆい後光、そして凍てつくような神聖さをまとう。
レツェリ——
確かに先ほどまでの彼は間違いなくレツェリだった。レツェリはチーム『片月』の奮闘の隙を突き、『星の意志』を殺し、その原初の心臓を簒奪し、『偽神計画』によって秘密裏に作られた薬剤を用い、その天恵の眼に大いなる意志を封じ込めた。
今、神の力を取り込んだのだ。
しかし、ならば、ソレは現在もレツェリなのだろうか?
「レツェリ……!!」
空の彼方が赤く焼けている。炎のような朝焼けの色。
イドラは天恵の柄をにぎりしめた。レツェリがなにをしたのか、その行為を十全に理解できてはいない。
だが、レツェリが『星の意志』の力を奪ったということは、異様な佇まいだけでわかる。神々しさに満ちた背後の輝きは、まさに『星の意志』のそれだ。
目の前にいるのは、本当にレツェリなのか?
ソレはまだ人間なのか? それとも神と呼ぶべき、この星を支配する機構の具現なのか?
イドラに結論は出せない。だがどちらであっても、この際関係がなかった。
ソレは確固たる殺意を以って、イドラたちに視線を投げかけたのだから。
「散れ、みんな!」
そう言ってその場から飛び退いたイドラの服の裾が、はらりと切断される。
空間が断たれたのだ。イドラの反応があとわずかでも遅れていれば、脚を一本もぎ取られていたことだろう。
万物停滞——レツェリの恐るべき天恵は、その内に『星の意志』を宿せど、性能になんら変化はなかった。
なにしろ、すべてのギフトは不壊の性質を持つ。
そして不壊とは。砕けず割れず傷つかないということは、究極的には、一切の変化を拒むということだ。
「一か所に留まっちゃだめだ! あいつの眼は、視たものを切断する!」
「か、簡単に言うけどさぁ——視線を躱すなんてやっぱり無茶だよぉ!」
「イドラ、お前はあいつを知ってるんだろ? なにか弱点はないのか?」
「弱点は……」
レツェリのギフトは、まさしく最強の天恵だった。
万物を断つ眼。葬送協会が誇るエクソシストの中でも、まさしく指折りの実力者だったミロウを圧倒した時点で、その戦力は規格外だ。
しかしあの地底世界の聖堂で、イドラとソニアは、確かにその眼球に突破口を見つけていた。だからこそ一度は打倒できたのだ。
「……遮られることだ! あの眼は、あくまで直接的に見える範囲の空間にだけ作用する。間になにかが挟まれば、あいつはその向こうにあるものに干渉できない。ワダツミで上から水を降らせるだけでも有効だった」
「なるほどな。透明だろうがなんだろうが、視線を塞ぐものがあればいいわけか。芹香、そのコピーギフトで炎を撒けるか?」
「長時間は厳しいかもしれないけど——うん、やってみる! 紅炎っ……!」
旧友の火、その模造。セリカの振り抜いた赤い西洋剣の刀身から、烈火の炎がごうと噴き出る。
渦を巻く炎はレツェリではなくその手前に広がり、地上を走るカーテンと化して魔の視線を遮った。
「くだらん小細工だ。これでは貴様らも近づけまい。それとも、尻尾を巻いて逃げ帰るつもりか?」
立ち上る天恵の炎を前に、レツェリは感慨もなくつぶやく。
結局のところ、レツェリを打倒しようとするならば、イドラたちは接近戦を試みる必要がある。レツェリはただ炎が落ち着くのを待ち、それから改めてその眼球で敵を断てばよい。
その炎上する壁が、突如切り裂かれた。
「——」
レツェリが天恵の能力を発動したのではない。そこから現れたのは、日本刀のコピーギフトを構えたカナヒトだ。
レツェリの表情にかすかな驚きが宿る。狩人たちに逃げ出すつもりなど毛頭ない。
目くらましの炎は逃げるためでも時間を稼ぐためでもなく、死の視線を遮りながら、その手前まで迫るための盾だった。
「お前のことはよく知らねぇが。『星の意志』と同じ存在になったなら、斬らないわけにもいかねえなぁ!!」
「同じではない。私は人類を次の段階へと押し進める。悲劇の決して訪れない、理想郷を到来させるのだ」
「理想郷? はッ——柳の爺さんが一番嫌いそうな言葉だな、そいつは!」
自ら炎を裂いて現れたカナヒト。その猛攻を後ろへ下がってやり過ごすレツェリだが、その左右からイドラとセリカが回り込んでいる。
カナヒトが気を引き、側方から奇襲。チーム『片月』の十八番の連携だ。
「レツェリ! お前の目論見はここまでだ!」
「イドラ……! かつての能力を喪失した貴様の天恵など、脅威にもならん!」
レツェリはさらに大きく後退し、距離を取る。そうして攻撃を避けつつ、敵を視界に収め、万物停滞による必殺にして不可視のカウンターを放つつもりなのだ。
「てやぁ——!」
「合わせろ芹香! 伝熱ッ!」
追いすがるセリカとカナヒト。赤い剣と、白く熱を帯びた太刀が後光をまとうその黒衣へと迫る。さらにはイドラも身を沈め、全身のバネを使って下方から斬り上げんとする。
逃げ場などない包囲斬撃。
地底の聖堂でイドラが暴いたように、レツェリの眼の能力は発動までわずかなタイムラグがある。
三者の斬撃が届くまでに発動できるのは、せいぜい一度。その一度でイドラとカナヒト、それにセリカも殺しきるのは位置関係からして不可能だ。
掛け値なしのチェックメイト。仮に誰かひとりが死のうとも残る二人がレツェリを殺しきる。
そのはずだった。
「鈍いなァ」
レツェリは自分から前へ出て、死地に悠々と踏み入れる。三方向の敵に対し、イドラに向かって踏み出した形。
驚いたのはイドラだ。突如眼前に現れたレツェリに、しかし攻撃を中断するようなわけもない。
——自分から近づいてくるのなら、むしろ好都合!
イドラは当惑を踏み越え、逆手に構えたコンペンセイターで渾身の斬り上げを放つ。
そのイドラの腕を、レツェリは易々と手刀ではたき落とした。
「——っ!?」
再びの驚愕がイドラを打ち据える。
レツェリはさらにもう一歩、鋭く踏み込むことでイドラとゼロ距離の間合いに入り——そのまま、肩から背中にかけてを使う強烈な体当たりでイドラを突き飛ばした。
(なんだ……この体捌きは……!?)
力強くもテクニカルな運足。
その動きはイドラにとってまったくの無知であったが、それがなんらかの究められた武術の一端であることは明らかだった。
先の手刀に始まり、流れるような足運びに、背中を使う特徴的な技。
だが。レツェリにそのような武術の心得はない。そのはずだ。
地底世界でそんな様子はまったくなかった。加えて言えば、ランスポ大陸中を旅していたイドラでさえ、先のような動きは見たことがない。
そもそも——
地底世界において。あまねく人々に天恵が与えられる状況下において、素手での格闘術が発展する余地などたかが知れている。
「動きが鈍い。どうやら、威勢がいいのは口だけらしいな」
レツェリがそう言いながら視線を向けていたのは、カナヒトの方だった。
「く——!」
そう。チェックメイトが瓦解したのは、包囲を形成するはずのカナヒトが一手遅れたためだ。
『星の意志』に負わされた深手。内臓まで達したその傷により、わずかに、ほんのわずかにだけカナヒトの踏み込みが遅れていた——
その羽毛よりも軽い瑕疵、些細な緩みをレツェリは突いた。カナヒトのカバーが間に合わないと判断し、イドラの方向に逃れることで、セリカの射程圏内からも逃れたのだ。
包囲を脱するレツェリへ、まさしくどこまでも追いすがる猟犬の形相で、カナヒトが刀を構える。
「——だめだ、カナヒト!」
「膝をついて感涙しろ。最強の天恵に殺されるのだからな」
先のレツェリには、イドラに万物停滞を叩きこむ時間的猶予があった。手刀の前か後に、イドラの方を見て、その空間を断つことはできたはずなのだ。
ではなぜそれをしなかったのか——
温存したのだ。タイムラグを考慮し、より早く処理すべき対象を優先した。
その眼は既に、『片月』のリーダーを捉えている。
「がッ、ぁ——」
赤い天恵が起動する。
音もなく、カナヒトの胴がごそりと抉れる。
『星の意志』に負わされた傷口ごと、脇腹の肉がブロック状に切り取られて地面に落ちる。