第百四十三話 『神殺しの夜に』
(ここまでは想定通り。ほぼ確実に、あれにもクイーンにおける女王核に該当するものがあるはずだ)
懐には偽神計画の産物である薬剤を忍ばせてある。後は、『星の意志』を殺し、偽神計画と同じことをするだけ。
うまくいく保証などない。目算は誤りで、予想は裏切られ、計画は破綻するのかもしれない。
だが、たとえどれだけ困難であっても、人は死の超克を目指さねばならない。待ち受ける悲劇があるというのなら、それを回避しようとするべきなのだ。諦めて受容することも、目をそらすこともせずに。
百年以上にわたる妄執。その結果が、今まさに出ようとしている。
さしものレツェリでも、舌が乾くような緊張を覚えた。
(すべては神の思し召し。……そんなはずがない)
そんなものに縋るくらいなら、一天地六の賽の目に賭けた方が、まだマシというものだ。
神が賽を振らないのなら——
人こそが、それを行うべきだろう。
「起動しろ、万物停滞……!!」
意を決し、レツェリは建物の陰から身を離すと、その赤い天恵の能力を起動させた。
そしてその魔眼で以って、原初の人間を直視する。
視界の先。兵隊のように並ぶアンゴルモアに囲まれ佇む、黄金の髪の女。
そこへ仮想の『箱』を重ねれば、『星の意志』は絶命する——
そのはずだ。そうなれば、あとは女王核に該当するモノを奪い取る。
だからまずは、『箱』を——
「————?」
『箱』が展開されない。
否。正確には、『箱』とはレツェリが脳内で視界に被せて想像する立方体のことで、初めからそれ自体は現実に姿の現れるものではない。
だからより正しく言うのなら、頭の中で配置した『箱』に、能力が働いていない。
遷延能力が機能していない。
万物停滞が、その力を発揮していない。
「馬鹿な——!」
悲願が成就する瀬戸際だ。百歳を超えるレツェリでも、経験のない異常事態に焦りがにじむ。
何度も何度も、視界内に仮想の立方体を被せることを繰り返す。
本来、その立方体は万物停滞の能力が及ぶ空間を指定するもので、立方体との境界に存在する物は切断されるはずだった。そしてレツェリは先ほどから、『星の意志』の頭部に立方体を重ねている。
しかし『星の意志』はまるで意に介さない。切断どころか、傷のひとつさえないようだ。
「私の天恵が、最強のギフトが効いていないだと……」
『————』
「むっ!?」
その時『星の意志』の口元が小さく動いた。瞬間、彼女のそばで極小の天の窓が開かれる。
小門・展開——四門。
レツェリに向け、剣が二本、槍と六尺棒がそれぞれ一本ずつ放たれた。
迫る漆黒の武具に、レツェリは急いで建物の陰へと体を引き戻す。だが剣と槍は分厚いコンクリートの壁を割り砕き、残る六尺棒がレツェリの喉元へと飛来する。
「はぁッ!」
レツェリは上体をそらし、六尺棒が喉を貫くまでの距離を稼ぐ。そのままバク転の要領で床に両手をつくと、右脚で棒の腹を蹴り飛ばして軌道を変えた。
即座に床を転がり、穿たれた壁の穴を凝視する。
外套の裾が舞い、遅れて床に触れる。
……ひとまず追撃はないらしい。周囲にいたアンゴルモアたちも、追手として差し向けられてはいない。隊列はそのままだ。
レツェリは緊張を吐き出し、先ほどの驚愕について振り返った。
「『星の意志』は確かに、私の天恵を無効化していた」
試しにレツェリは、先ほど穿たれたのとは逆側の壁面へ、仮想の『箱』を展開してみる。すると豆腐でも斬るかのようにたやすく、コンクリートの壁がくりぬかれた。
以前の、地底世界にいた頃のレツェリであればできなかった静止物への適用。それも、自転する世界の法則へ合わせ、ギフトの『順化』によって可能になっている。
(私の万物停滞が使えなくなっているわけではない。ならばやはり、『星の意志』はなんらかの方法で私のギフトの効力を受け付けなくなっている……)
あるいは、ギフトへの耐性。
地底世界の産物である天恵の脅威に対し、ついに完全な適応を果たしたのだとしたら。
「……お手上げだな」
賭けは負けだ。
少なくとも、先ほどの結果を見るに、レツェリの天恵はどうやら完全に通じない。もしかすると、先日の北部でクイーンを鏖殺した件で、『星の意志』はその眼に対し個別の対策を施したのかもしれない。
どうあれ、レツェリにはもう、まるきり打つ手がなかった。
そして、最強たるこの眼球がなければ、レツェリなど肉体が多少若いだけの偏屈な老人だった。
(ここまで、うまくいきすぎていたくらいだったが……最後にこのようなしっぺ返しがあるとはな)
デーグラムの聖堂でイドラに敗れ、エンツェンド監獄に囚われたレツェリにとって、箱舟を使ってこの世界に来たこと自体が苦渋の選択であり賭けだった。
だが、イモータルの研究が手詰まりだったのも事実。魔物が持つ魔法器官からのアプローチも、数十年前に見込みはないと結論付けた。
ならば雲の上のまだ見ぬ地で、別の方法を模索をする。その思いでこの世界へ訪れたレツェリだったが、今日までの道行きはかなり順調であったと言える。
アマネと出会い、根城となる廃教会を訪れ。
トビニシを通じ、二十七年前の計画に触れ。
ケイカノンと会い、『偽神計画』の遺産を手にし。
そしてベルチャーナを誑かすことで、自身の天敵に対するための手駒とした。
すべてがうまく回っていたというのに、あと一歩のところで、『星の意志』はレツェリが持つ最強の手札を対策してきた。
「残る可能性は……方舟の猟犬がどうにかしてくれる、くらいだな。奴らも『星の意志』を殺すところまでは目的が同じのはずだ」
『星の意志』がギフトを無力化していても、彼らならなんらかの対策を講じるかもしれない。
計画の詰めが他力本願とは。らしくなさに、レツェリは思わず含み笑いを漏らす。
「——果報は寝て待て、だ。せいぜい期待して待つとしよう」
開き直りの心境で、壁にもたれかかる。
星でも眺めたいような気分だったが、あいにく夜空にはずっと厚い雲が被さってしまっているので、レツェリは天を見上げることさえしなかった。
*
「あれは……イドラか?」
方舟の戦闘班が『星の意志』と接敵したのは、それからしばらく経った頃だった。
『星の意志』の侵攻に合わせ、レツェリも認識されないよう一定の距離を置きながら追従している。そこは先ほどよりもさらに建物の密度が高く、道幅の狭い、まるで峡谷のように左右にオフィスビルが林立する道路だった。
道路の真ん中を、我が物顔で往く『星の意志』とその配下。
そこへ現れたのは戦闘班、チーム『片月』の三名だ。
その中にイドラが混じっているのを遠目に見て、レツェリは内心舌打ちした。
(ベルチャーナ君を焚きつけ、イドラの足止めに使う策は空振りか? いや……ソニアの姿が見えない。ソニアひとりに任せたというのか?)
——そんなはずはない。
そうレツェリは反射的に否定しかかるも、目前の事実がすべてだ。
レツェリの策では、ベルチャーナがソニアに固執すれば、イドラもソニアを助けるためその場に残るはずだった。
ソニアは、今やただの小娘とそう変わらないのだから。そんなか弱い存在を、歴戦のエクソシストの前に残しておけるはずがない。
(イドラであれば、間違いなくソニアを守ろうとするはずだが……なぜだ?)
わからない。しかし結果は受け入れねばならない。
イドラの足止めは失敗した。
先のデーグラムでの敗戦から、レツェリはイドラを警戒していた。
この赤い眼に匹敵する、青の短剣。傷を治し、不死身であるはずのイモータルを殺しながら、瞬間移動じみた能力まで使う。
不死殺し。
レツェリは、やつが自身にとって天敵にほかならないと認識していた。特にあの瞬間移動は、レツェリの展開する『箱』が境界を断裂させるまでのわずかなタイムラグの間に、その範囲から逃れ出てしまう。
「まったく、ここへ来てイレギュラーばかりだな」
そうつぶやくレツェリだが、表情に落胆の色はない。遠大な計画ほど往々にして予想外の出来事は付き物だと彼は知っていた。
イドラが現れたのは意外だったが、レツェリは彼らの戦闘の成り行きを見守った。
遠目からでも戦闘員たちの狼狽が伝わってくる。やはり、ギフトの対策がなされているようだ。
だが——方舟の狩人たちは奮闘の果てに、その防壁を打ち破る。
レツェリは口元を歪めた。
「どうやらまだツキは残っているらしい」
——では、始めよう。
レツェリはゆっくりと交戦地帯へ近づく。
そして、射程内に入った『星の意志』の首に『箱』を展開した。
ぼとり。
神に近しい存在が、呆気なくその生白い首を落とす。死んだ——とは言い切れない。
心臓部。クイーンで言うところの女王核が砕かれぬ限り、その輝きは損なわれない。
「ご苦労だったなァ、方舟の諸君」
「……レツェリ!」
動揺するイドラ。それと、方舟の狩人二名。
「待ってたのか? 僕たちが、『星の意志』の防壁を突破するのを……!」
「イドラか。貴様がこの場にいるのは少々当てが外れたがな。だが、警戒自体が私の杞憂だったらしい。
戦闘を見て、レツェリは気が付いていた。
イドラのギフト、マイナスナイフは既にない。青い負数の天恵は、『順化』によって赤く染め上げられてしまっている。
傷は治せるようだが、例の瞬間移動の力を使っていないことから、それは失われたと見ていいだろう。
つまり今やイドラはレツェリの天敵ではなく。
ベルチャーナを利用した策は空振ったが、もとより無用な警戒だったということだ。
張りつめる緊張感の中、レツェリは悠然と歩を進め、『星の意志』の胴体をその眼の能力で切断する。そして、露わになった黄金の球体——原初の心臓をつかみ上げた。
「ふむ。想定通りだ」
頽れる『星の意志』。その死体。
黄金の心臓にしかし、拍動はなく。そもそも血が流れ出ているわけでもない。
だがそれは確かに、ヒトの胸で脈打つモノの原型だった。