第百四十話 『堕落戦線』
『——これは? 生体反応だ——何者かが、そちらへ近づいて……方舟の人間じゃない! 総員、警戒を!』
「ご苦労だったなァ、方舟の諸君」
深い夜闇に、赤い天恵の左眼が浮かび上がる。
朝を前に。宿敵の姿を、イドラは見た。
「……レツェリ!」
「実のところ手詰まりでな——まさかギフトに対する防御手段を獲得するとは。私では突破は不可能だった」
「待ってたのか? 僕たちが、『星の意志』の防壁を突破するのを……!」
だとすれば、この男の狙いは——
漁夫の利のようなものだとイドラは勘案する。『星の意志』と戦い、疲弊したイドラたちをここで殲滅する。
だが、なんのために? 因縁のあるイドラはともかく、方舟と敵対する理由はなんだ?
この男の目的は。一体なんのために、この場に現れた?
「イドラか。貴様がこの場にいるのは少々当てが外れたがな。だが、警戒自体が私の杞憂だったらしい」
——読めない。
そのことがイドラには、この上なく恐ろしかった。
「みんな、あいつの眼は空間を切断する。視られたと思ったらすぐにその場から逃れるんだ」
「北部の時の男か。クイーンの群れを圧倒するギフト……厄介だが、狙いはなんだ?」
「わかんないけど、近づいてくるよ。う……視られたと思ったらって逃げるって、それで間に合うのかな……?」
レツェリは悠然と歩を進める。
交戦に備え、自然と身構えたイドラたちの間に緊張が走る。特にカナヒトは傷も深く、疲れと呼ぶには重すぎるほどの疲労が三者の肩にはのしかかっていたが、相手が襲ってくるのならば是非もない。
だが当のレツェリは、方舟の狩人たちには目もくれず、『星の意志』の前で足を止めた。
「——?」
首から上を失いながらもそこへ佇む、輝きを帯びた肢体。あるいは、死体。
赤い左眼が、その動かない人型をさらに刻んだ。首から上を失った死体が、さらに胸から上をも失う。やはり血は出ず、代わりに黄金色の光がこぼれた。
胸部の断面からむき出しになった丸い光。『星の意志』の死体が帯びる輝きの源泉とも言える、黄金の球体。
(あれは……クイーンの心臓部と同じものか?)
人型のアンゴルモアであるクイーンは、その心臓部に女王核を有していた。
そしてクイーンは人間同様、『星の意志』のデッドコピーだ。ならば『星の意志』もまた、その心臓部に女王核に該当するモノを有していてもおかしくはない。
否——起源を顧みれば、有していて当然なのだ。ヒトの胸で脈打つ心臓もまた、この輝く黄金の醜い模倣でしかないのだから。
「ふむ。想定通りだ」
その原初の心臓を、レツェリは無造作に抜き取った。
すると『星の意志』の死体は、すべての輝きを失い、壊れたマネキンのようにぐしゃりと
頽れる。
わからない。イドラにも、カナヒトにも、セリカにも、レツェリの狙いがわからない。
だからその眼窩に収まる凶悪な天恵を警戒し、不用意に動くこともできず。レツェリの不可解な行動を止められなかったことを責めるのは、いささか酷というものだろう。
「なにか……まずい!」
「——っ、待てイドラ、早まるな……!」
イドラたちを横目に、『星の意志』の女王核らしきものを抜き取ったレツェリ。
名状しがたい嫌な予感に、イドラは独断で駆け出す。
この男の狙いはわからない。だが、この男は無意味なことはしない。なにかをしようとしているのなら、止めなくてはならない!
しかしイドラがそう思った時には、レツェリはまるで点眼でもするように、上を向きながら|原初の心臓を掲げ——
逆の手で、自らの首筋に注射器を押し込んだ。
「さあ——最後の賭けだ。今、神なき荒野に踏み出そう」
薬液が男の中へ流れていく。それがなんなのかイドラに知るすべはなかったが、容器自体は見覚えがあった。
ヤナギから受け取ったプレフィルドシリンジ。コンペンセイターの代償を打ち消すための、残り二本の切り札。それとまったく同じ容器だ。
つまりは方舟の品。それをどこから入手したのか? 一体なんの薬なのか?
「どうなってるんだよ……! レツェリッ!」
すべての疑問を棚に上げ、イドラはコンペンセイターの刃を振り抜く。
その赤い刀身が届くよりも、一瞬早く。黄金の心臓がにぎり潰され——
その内側からこぼれた、きらきらと輝くなにかが、天の川のようにその赤い左眼へと滴り落ちた。
「ぐ、ぁ——っ、あああああああああああああァァァァァァ!!」
「なっ……これ、は——?」
おそらくは激しい痛みを覚えてか、レツェリが狂乱的な叫びを発する。
それと同時に、光が——
先ほどまで『星の意志』がまとっていたのと同種の、まばゆいばかりの光が放たれる。
レツェリの全身を覆い。光の柱が立ち上り。周囲のすべてを洗うような、空間を染め上げるような黄金の輝きが広がっていく。
それは少しばかり離れた者にとっては、奇妙にして玄妙な光のシャワーに過ぎない。
だが、凍える体を癒す暖かな篝火も、近づきすぎれば身を焦がされるのと同じく。間近にいたイドラにとって、その光は身を焼き尽くす裁きに等しかった。
神聖にして侵すべからず。
至高たる存在に触れようとした者への罰——処罰、懲罰、誅罰、天罰、神罰。
一瞬の輝き、通り過ぎる光が、罪人を焼く。
「——あっ?」
全身の皮膚が焼けただれる。
それだけではない。コンペンセイターを振り抜いていた腕は、肘から先が蒸発していた。断面は焦げて、骨の周りに溶けかかった肉がぐずぐずとこびりついている。
瞬きよりも短い間にイドラは片腕を失くし、顔面の半分が溶け、片足の指を三本失い、全身の皮膚を焦がされ、内臓まで焼かれ、数秒後の死が確定した。
「コン、ェン」
顎の骨がむき出しになっていて、唇も完全にただれて使い物にならなくなった。まともな発声はもはやできず、己の天恵の名を発することもできない。
それでもイドラは、なんとか意識のあるわずかな間に、地面に落ちたコンペンセイターを拾おうとする。ギフトは不壊、あの裁きの光を浴びてもなんら変わりはしない。
右腕を伸ばそうとする——しかし右手はなくなっていたので、イドラは仕方なく左手を伸ばし、なんとかそのナイフに触れる。刀身を直ににぎり込みながら、肉体の『補整』を念じた。
「ぅ……ああっ!!」
途端に意識が回復する。ひび割れた眼球のひび割れた景色、痛いんだか熱いんだかしびれるんだかわからない全身の感覚、永遠の眠りへと誘う強い眠気、そうしたものがまとめて正常値へと戻ってくる。
(生きてる——なんとか、生き延びた……!)
数秒後にあったはずの死は彼方へ追いやられたが、記憶からは消えてくれない。
即死しなかったのが奇跡とも思える死の瀬戸際だった。しかし落ち着く暇もなく、コンペンセイターの能力使用に伴う強烈な『代償』がイドラを襲う。
気絶寸前の体で、イドラは腰のケースから注射器を引き抜いた。幸い壊れてはいないらしい。残り二本のうち一本をイドラは首筋に打ち込む。そして薬液が注入されると、ようやく本調子へと——少なくとも感覚の上では——戻ってくる。
「イドラ、平気か!」
「今……ギフトのスキルで傷を治したんだよね? よかった、死んじゃったかと思った……!」
「カナヒト、セリカ……無事だったか」
あの身を焦がす光は、わずかでも距離を取っていればさして危害はなかったらしい。駆け寄ってくるカナヒトとセリカは、服の端が少し焦げているのと、皮膚の露わな頬や手にうっすらと赤い痕がある程度の変化しか認められなかった。
「多少の傷はあるがな、動けないほどじゃねえ。で、立てるか? どうやらまだ俺たちの仕事は終わらんらしい」
「そうだ、レツェリのやつは——」
レツェリの喉を裂くような絶叫も、周囲を染め上げるような光も既に止んでいる。
前方へ目を向けるイドラ。
そこに、確かにレツェリは立っていた。
天恵たる赤い左目と、黒い右目を見開きながら。その背に、神仏や聖人のみ持つような輝きを携えて。
「——っ、まさか……『星の意志』?」
イドラは知らない。レツェリが自らに注入した薬が、27年前、方舟が秘密裏に進めていた偽神計画の産物であることを。
人間をアンゴルモアのクイーンと同化させる計画——それを可能にすべく、人体を女王核と同調した状態にする薬。
レツェリは禁じられた計画を、クイーンではなく、親玉である『星の意志』で行ったのだ。
本当にそんなことができるのだろうか?
27年前、現総裁であるヤナギの妨害もあったとはいえ、黒神会の主導者であるケイカノンはクイーンの力の掌握に失敗している。暴走し膨張した女王核は樹木となり、ケイカノンを崩壊した旧北部へと縫い付けた。
人間の肉体はアンゴルモアを取り込むには脆すぎる。地底世界でレツェリが不死性の実現のために研究していた、不死憑きたちと同じことだ。イモータルにしろアンゴルモアにしろ、法外の怪物を人の器で抑えきることなどできはしない。
いわんや、その創造主たる『星の意志』を人の身で呑み込むなど、砂粒に大海のすべてを吸わせようとするようなものだ。天地が覆ろうともできはしない。
しかし——
だが、しかし。
地底の世界にただひとり、例外がいた。
ギフトは不壊、決して傷つかず、砕けることもありえない。
そしてその男のギフトは、ギフトでありながら、眼球という臓器の一種だった。
「ああ——視界のもやが晴れたような気分だ。空の闇も星の動きも、今なら、多くのことが理解できる」
神の力を、その天恵に注ぎ込んで。決して砕けぬ器を眼窩に、男は黒衣の裾をはためかせる。
二十七年の時を経て、『偽神計画』は、計画以上の成果を得て完遂された。人は終末の使者ではなく、それを放つ『星の意志』そのものを身に宿し、掌握したのだ。
地平線の向こうから、鮮烈な陽が昇り出す。
長い夜が明ける。荒涼とした街に朝が来る。
「方途は定まった。ヒトは、いよいよ悲劇のない理想郷を迎えるだろう。だが、その前に……」
黎明の暖かな光に照らされながら、レツェリは視線を巡らせ、神の宿る眼差しを向ける。
あらゆる法則が瓦解し、意味を為さなくなっていく。
星を覆う摂理は掻き消え、神は堕落した。
今日までこの天体を動かしてきた意志は、宇宙の闇から消え去った。
「……集る蠅を潰すとしよう」
「レツェリ……!!」
ならば、地上の文明が迎える朝は、これが最後になるのだろうか? 新たな神の築く理想郷が、明日の朝陽を迎え入れるのだろうか?
答えを知る者は未だおらず、神でさえも賽の目は操れない。ゆえにこそ人の意志は星のように強く輝く。
神を身に宿す男を前にしながら、イドラは確かな反逆の意志で、己の天恵を握りしめる。
遠い空から、朝焼けの赤色が迫ってきていた。
第二部二章 『堕落戦線』 了
最終章 『忘れじの記憶』 へ続く