第百三十六話 『剣理一刀 3/3』
「まさか……こんな奥の手を隠し持ってるなんてね。そっかぁ、この部屋に来て最初にあの水の能力を使ったのは……この使い方を隠すためだったんだ。まんまとハメられちゃった」
ベルチャーナは胸を抑えながら、感心したように言う。その息は荒く、今にも倒れ伏してしまいそうだ。
「喋らないでくださいっ、今なら手当てをすれば助かります!」
「ああもう、ほんとにわたしってばいいトコなし。あんなやつのこと信じたベルちゃんがバカだったよ。なんでもわかってます~みたいな顔しといて、ウソばっかりじゃんか」
深手の傷を受けているにもかかわらず、ベルチャーナはあっけらかんと笑ってみせる。
そのさまはどこか、憑き物が落ちたようでもあった。
「絶対の答えとは、例外なく欺瞞……か。マルオちゃんの言う通りだったなぁ。今度会ったら謝らないと……うん、でもその前に、まずはソニアちゃんだよね」
真面目な顔になって、ソニアの方を向く。
「ごめん、ソニアちゃん。わたしが間違ってた——ソニアちゃんは、弱くなんてなかったね」
「ベルチャーナさん……」
「力でも気持ちでも、ベルちゃんの負け。はぁ……ひとりで騙されて嫉妬して空回って、ほんとにバカだ。イドラちゃんやミロウちゃんに合わせる顔がないよ」
「……わたしひとりの力じゃないです。イドラさんが事前にベルチャーナさんのギフトが変化した可能性を伝えてくれていなければ、初見の一撃で終わっていたかもしれません。それになにより、さっきの技はウラシマさんが伝授してくれたものですから」
「今の技、すごい練度だったよ。こっちの世界に来てから覚えたんでしょ? すごくがんばったんだね、ソニアちゃん。人は誰だって意志さえあれば成長できるものなのに、わたしはどうしてイモータルの力にばかり目を向けてたんだろう」
己の狭窄していた視野を蔑むように、ベルチャーナは嗤う。
怪物に由来した力。それに頼った戦い方自体から、ソニアも完全に脱却できたわけではない。けれど先の水流居合を習得できたように、技術の研鑽を重ねていけば、やがては怪物の力など必要なくなるだろう。
百年をかけて編み出した技術を、当人の手引きがあったとはいえ、一週間程度で習得するには血のにじむような努力があったはず。同じく鍛錬の日々を過ごしてきたベルチャーナには、それを察することができた。自身が受けた一刀を裏打ちする、注いできた心血の存在を。
「ありがとうございます、ベルチャーナさん」
「……なんでお礼?」
「ベルチャーナさんに負けを認めさせたなんて、すごいことですから。わたしもこれから、胸を張って過ごせます」
これみよがしに上体をそらし、薄い胸を張るソニア。
「ふっ、あはは。そっか。完敗だなぁ」
ベルチャーナはそれを見て吹き出す。ソニアも顔をほころばせ、二人して笑い合う。
そうしていれば二人は仲のいい姉妹か、どこかの和やかな村で静かに暮らす、ありふれた友人同士のようでもあった。
しかし実のところ、『どこにでもいる少女』などこの場にはひとりもいないのだ。
もし地底世界にイモータルがいなければ——つまり、外乱を生じさせることで『星の意志』が方舟のコピーギフト抽出を妨害しなければ——
ソニアもベルチャーナも、生まれた場所で家族とともに、平穏でかけがえない日々を過ごせていたのかもしれない。
だが現実にイフはない。ソニアは不死憑きになり、ベルチャーナはエクソシストになった。その過程で二人は、それまで享受できていた、そしてこれから享受するはずだった多くのものを失った。
けれど——失うばかりではないはずなのだ。
少なくとも、ソニアはそう信じる。
正常な肉体ではなくなり、親と引き離され、差別的な境遇に晒され、毎夜苦しみに叫ぶほどの日々だったけれど。その道の先でこそ、大切な人と出会い、泥濘の底から救い出され——
今日、この瞬間を迎えることもできたのだから。
「さて、と。そろそろ休憩は終わりにしないと」
ベルチャーナは床に手をつくと、おもむろに立ち上がった。急な動きをすれば傷口からまた多量の血が噴き出しかねないのだ。
「ベルチャーナさん……? そのギフト、もう治癒はできないんですよね? 早く方舟の人に診てもらわないと」
ソニアがそう声を掛けるも、ベルチャーナは一歩、また一歩と後ずさる。わだかまりも解消され、これで元通り仲間同士に戻れるとばかり思っていたソニアだったが、ベルチャーナの行動はソニアと距離を取るようでもある。
「そう、浅ましいわたしの天恵はすっかり変わっちゃった。力を得た気になってたけど……イドラちゃんはたぶん、傷を治せる方がいいって言ってくれるんだろうなぁ」
もしかすると表情を隠したかったのかもしれない。ベルチャーナはくるりと反転し、ソニアに背を向けると、そのまま目の前の窓へとゆっくりと歩き出す。
「迷惑、かけちゃったから。これから少しでも取り戻さないと」
「まさか、飛び降りるつもりですか!? そんなことしたら——」
「大丈夫。せめてもの罪滅ぼししないとさ……ミロウちゃんにも、きっと怒られちゃうもんね」
カーテンを開けるような気楽さで窓を叩き割る。それから身を乗り出し、ちらりと眼下を見た。
ここは三階だ。ふつうに落ちればただでは済まない。ましてや、彼女は手負いなのだ。
「じゃあね、ソニアちゃん。羨んでるから、元気でね」
「ベルチャーナさんっ!」
躊躇なくベルチャーナは身を投げた。急いでソニアは窓枠へ飛び付き、身を乗り出して下を確認する。
するとベルチャーナは健在で、壁面からギフトの鎖を出して瞬間的な足場を構築し、器用に壁を下って街路を駆けていた。負傷を思わせない速度。
そしてその先では、戦闘班がアンゴルモアと交戦している。
まさかまた乱入して場を荒らすつもりもあるまい。ベルチャーナの恋はもう終わった。恋心を、その当人に伝えることさえなく。
進んで甘言に縋った彼女へ下った罰があるのだとすれば、これがそうなのだろう。
だがベルチャーナも、今やソニアの一刀で目を覚ました。不死の怪物に由来する力に頼らずとも、イドラの隣に立つ資格があるのだと、ソニアは自身の成長を以って証明した。
だからベルチャーナがしようとしているのは、償いだった。勘違い、盲信、曲解……そうしたものの償いとして、手負いの身を押して、少しでもアンゴルモアを倒すことで方舟の役に立とうとしているのだ。
否——方舟というよりは、イドラの役に立ちたいのだろうが。結果的には同じことだ。
そんなベルチャーナのことが気がかりでないと言えば嘘になるが、しかし。ソニアがすべきことは——
「——今は……」
照明弾の切れ目。割れ窓の外が大いなる黒に塗りつぶされ、ベルチャーナの姿は戦場の闇へと溶けて消える。
再び夜に明かりが灯るまでの間に、ソニアはするべきことの判断を下した。
「イドラさんたちのところへ向かわないと——!」
こうしている間にも、イドラとカナヒトとセリカは、『星の意志』と戦っているはず。
すぐにでも助けに行かなくては。
逸る気持ちを抑えつつ、ベルチャーナのように窓から躍り出るわけにもいかず、ソニアは階段へと急いだ。
ビルを出る。イドラたちの向かった方角は覚えており、無線で位置を確認するまでもない。
体に残る不死の残滓を使いつぶすように、ソニアは戦闘の疲労を引きずった四肢に力を込め、風のように走り出す——走り出そうと、した。
その瞬間、前方。
今まさに進もうとしていた方向の先、いくつもの建物を挟んだ向こうから、黄金の輝きが立ち上る。
照明弾の光など易々と呑み込んでしまう、夜明けの先駆けのような、あるいはこの地上にたった今生まれ落ちた新星のような。そんな謎めいてかつ神聖で巨大な輝き。
そこから放たれる光の奔流は、さしずめ神の威光だろうか?
形容しがたい光のシャワーを浴びながら、ソニアは戦慄に似た感情を覚える。
直感が、この現象が『星の意志』由来だと確信し。
論理が、イドラたちのもとでなにかが起きたのだと推測する。
「イドラさん……!」
今から向かって、間に合うことはないだろう。
そう頭の中ではわかっていながらも、ソニアは駆け出す。仮に無駄なのだとしても、衝動が手足を突き動かして止めさせない。
なにか最悪のことが起きるような。そんな一種の漠然とした予感。
大切な誰かの窮地に駆けつけようと、ソニアは死んだ街を走り抜ける。
夜明けは、すぐそこまで来ていた。