第百三十四話 『剣理一刀 1/3』
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「信じる。ここはソニアに任せて、僕たちは先に行く」
「はいっ!」
仲間たちが遠のく足音を背中越しに聞きながら、ソニアはまなじりを決し、眼前の少女と向き合う。
「その様子。本気で思ってるんだ、ソニアちゃんひとりで、わたしを止められるって」
廃ビルの間を抜けてくる一陣の風が、浅葱色の髪を揺らす。
ベルチャーナは先のやり取りになにを思ったのか、視線だけで相手を凍り付かせてしまうような、ますます冷え込んだ瞳でソニアをにらむ。
見つめ合う少女たち。片や人間に戻りつつある不死憑き。片や地底世界にて、あの精密十指の異名を持つミロウに並ぶほどの筆頭エクソシスト。
(——怯えちゃだめだ。このひとを倒して、わたしは胸を張ってイドラさんの隣に立つ)
ベルチャーナから感じる圧力は、もはやイモータルやアンゴルモアを超えている。旅をともにする仲間としてではなく、対峙する相手として見たとき、こうも恐ろしく感じるものかとソニアは思う。
だが、怯えはしない。逃げもしない。
戦闘班としての使命を棄ててまで、イドラはソニアのために残ろうとしてくれた。それもソニアには、燃えてしまうくらいに胸が熱くなるほどうれしかったが、最後にはソニアひとりにベルチャーナの相手を任せた。
その信頼もまた、熱をくれる。凍土のような眼前の領域へ、恐れず踏み込んでいくための熱を。
「止めるんじゃありません。倒します。ベルチャーナさんを上回って、わたしが戦えるってことを証明します」
「……悪気がないのはわかってるけどさ。本当にイライラするよ、その思い上がり。ソニアちゃんはただの、どこにでもいる女の子じゃんか」
「——、ふっ」
「は? なんで笑うの?」
思ってもみないことを言われて、ソニアはつい笑ってしまった。
「その言葉。ちょっと前のわたしだったら、きっと感動して涙ぐんでました」
どこにでもいる女の子。
ああ、そうなれたらと、毎夜の苦痛の中で、岩室の闇の中で、何度想ったことか。
もはや肉体も精神も壊れるしかなかった極限の状況で、助け出してくれたのがイドラだった。
そう、あの日の夜、イドラもそんなようなことを言ってくれた。
少し変わった、でもどこにでもいる、なんてことないただの女の子——と。そう言って、自身を怪物だと蔑むソニアを優しく否定してくれた。
あの時にきっと、ソニアの心は救われたのだ。
「ふうん。だったら今のソニアちゃんのことも涙ぐませてあげるよ。痛みでね!」
ベルチャーナが腰を落とす。動き出す予兆。
ソニアは反射的に、ワダツミの切っ先を油断なくベルチャーナへ向ける。ベルチャーナが近づいてくれば、即座に斬り返す。そんな構え。
二者の間に急速な緊張感が満ちていく。片方が動けば、もう片方も動くことだろう。
だが、張り詰めた糸のような緊張は、思わぬ横槍によって吹き飛んだ。
「わっ?」
「きゃあっ!」
吹き飛んできた瓦礫と、砂塵を含む風が二人を襲う。
どうやら、クイーン二体を相手取る『鳴箭』の戦闘の余波のようだ。豪快にも近くの建物をひとつ倒壊させたらしい。
「……場所を変えた方がよさそうだね」
「はい……」
意見が一致し、わずかに空気が弛緩する。砂が髪に絡まり、ベルチャーナはうんざりした顔で先を歩きだした。
『ソニア、聞こえるか?』
「——!」
ワダツミは抜いたまま。『鳴箭』の戦闘に巻き込まれないよう、しばらく歩き続ける。
そんな中、ベルチャーナの背についていくソニアの耳に、ふとイドラの声が届く。左耳の通信機を介した無線だ。
『返事はしなくていい。気になったことをひとつ伝えておく』
ベルチャーナに悟られぬよう、ソニアは無言を貫き、なにもないかのように振舞う。
『服装が変わってて気付くのが遅れたけど、ベルチャーナはおそらく————』
一言一句を聞き逃すまいと、耳に神経を集中する。地底世界の生まれであるソニアは、無線機の使用には慣れていないが、耳元で話されているような感覚で嫌いではなかった。
(ありがとうございます、イドラさん)
助言と、力をくれる声そのものに感謝する。そして、無線が切れたタイミングとちょうどほぼ同時に、ベルチャーナが振り向いた。
「この辺りでいいかな?」
そこは区画の外縁で、劣化の特に激しい部分だった。雨風に長期間晒され、林立するビルの外壁には遠目からでもわかるヒビが入り、街路のへりも踏みしめればぱらぱらと砕けてしまう。
とはいえ、ビルが自壊して崩れるほどではないだろう。外見は劣化が目立つが、中身まで駄目になるほど脆い造りでもない。
ベルチャーナの緩くウェーブした髪と同じく青みがかった、長いまつ毛に飾られたその瞳には再び凍てついた温度が宿っている。邪魔の入らないこの場所で、ソニアの心を折るつもりだ。
少し前まで仲良く旅をしていたのに、どうしてここまで敵意を抱かれているのか?
ソニアは当たり前にそんな疑問を抱いていたが、まだ確信には至らないものの、『もしや』と思う動機はあった。
「ベルチャーナさん。もしかして——」
問いかけ終えるより先に、ベルチャーナの拳が迫っていた。
「——っ!!」
「ん、流石にいい反応するね」
ソニアは殴打を見切り、横へ跳んで回避する。不死憑きの名残は日々薄れ、体力や膂力には特に著しい衰えが見られていたが、静止視力・動体視力のような視覚機能はまだ常人よりはるかに優れていた。衰え方も一様ではないのだ。
「だけど、どこまで避けきれるかなぁ?」
ソニアの渾身の跳躍にもベルチャーナは易々と追いついていた。やはり、イモータル由来の力が損なわれたことで、ソニアの跳躍力が彼女自身の想像よりも小さかったのだろうか。
否。衰えようともソニアはまだ、方舟の戦闘班の中でも五指に入る程度の身体能力は有している。
だから異常なのはベルチャーナの方だ。
(この動き——)
距離を取ろうと何度後退しても、ベルチャーナはぴったりと付きまとう。距離を殺す理由は明白で、ソニアがワダツミを振るう余地をなくすためだ。
そして超接近戦に持ち込んで、凶器同然の拳や足を繰り出してくる。
(——速すぎる!)
的確な打撃。それも的確なタイミング、そして的確な角度。力のロスを限りなくゼロに近づける完璧な体重移動。優れた体幹と柔軟な関節に裏打ちされた、息もつかせぬ連続攻撃。
エクソシストの必修課程に対人訓練があるのは決して恋敵をはっ倒すためではなかったが、ベルチャーナの格闘技術は天性のセンスもあいまって相当なものだった。
プロボクサー——そんな職業は既に地上から消失したが——顔負けの動体視力により、なんとか直撃は避けていたソニアも、次第にさばききれなくなってくる。このままではジリ貧だと考え、一か八か手近な建物の窓に突っ込んだ。
「はあっ!」
曇った窓ガラスをワダツミで叩き割り、中へ転がり込む。
「追いかけっこ? あは。いいよ、付き合ったげる」
隣の窓を拳でへし割って追ってくるのを尻目に、ソニアはオフィスビルらしきその建物の廊下を抜け、階段を上って二階に向かう。
(逃げてばっかりじゃ駄目だ……戦わなきゃ!)
しかし二階は、どこかのオフィスがそのまま放棄されていて、ところ狭しとディスプレイの並んだ机や椅子が並べられており、とても刀を振り回して戦えるような場所ではなかった。
階下から近づく、冷気を帯びた重圧を背中に感じながら、さらにソニアは階段を駆け上がる。
三階は空室になっており、なにひとつ物はなく閑散としていた。
ちょうどいい。ここで迎え撃つとソニアは決め、広々とした空間の真ん中に陣取った。
(ベルチャーナさんの動きにも、少しは目が慣れた。今度は接近されたりしない……!)
階段から、次第に近づく足音。
「なんだ、追いかけっこはもう終わり?」
「氾濫! はぁ——!」
「ん……!」
ベルチャーナが現れると同時に、ワダツミのスキルを発動する。
刀身から水があふれ、水流となって放たれる。
「甘いね。そのギフトの力なら、果ての海でもう見たよ!」
だが、ベルチャーナにとって初見ではない。渦を巻く水の奔流を、ベルチャーナは天井近くまで跳躍して回避する。
「ふつうの水流操作がダメダメなのはわかってます……!」
仮に使い手がウラシマであれば、空中でもう一度軌道を変更し、ベルチャーナを捉えることもできただろう。
今のソニアではこれが限界。だが——
(——これで十分! 着地の時にはどうしたって隙ができるはず!)
実戦での垂直跳びなどは、大きな隙を晒す愚策中の愚策。習うまでもなく誰もが悟るセオリーだ。
よって、ソニアは着地点へ近づき、ベルチャーナが地に足を付けた瞬間を狙い、ワダツミを横薙ぎに振るう。
「なっ……!?」
白刃は虚しく空を切る。ベルチャーナの姿が消えている。
一体どこへ——
「きゃあっ!?」
胸に衝撃。蹴り上げられたと気付いたのは、さらに追撃の掌底を食らってからだった。
セオリーを覆す埒外の天稟。
ベルチャーナがいたのは、下。着地と同時に地面すれすれまで身を落とし、そのまま床に手をついて、ブレイクダンスの技芸のように片手倒立で蹴りを繰り出したのだ。
「これでわかったかな。ソニアちゃんじゃ力不足なんだよ、イドラちゃんの隣に立つパートナーとしてはね」
地面に四肢をついて激しく咳込むソニア。先の一撃で肺が傷ついたのか、わずかながら喀血があった。
その様を見下ろし、ベルチャーナは冷たく言い放つ。
「まだ、まだ……! 勝負はこれからですっ」
「……へえ。がんばるじゃん」
ソニアの中に、まだ熱は保たれている。母譲りの橙色の双眸に闘志を燃やし、ワダツミを手に立ち上がる。
それに眉をしかめたのはベルチャーナだ。
「でもムダだよ。追いかけっこも終わりにしたんだから、遊びはここまで」
ゆっくりと虚空に向けて右手をかざす。
意図の読めない行動。だが、その細い薬指には、黄金色の指輪がはめられている。
——ベルチャーナはおそらく、元々のギフトを失っている。
ソニアの脳裏に、無線越しの助言が蘇った。