第百三十三話 『信頼の証』
まっすぐに北上していた『星の意志』が、進む方向をズラしたのだ。これがどういう意味か、『片月』及び『鳴箭』の面々には明白だった。
先ほど、このクイーン二体を前に撤退した場合、起こるかもしれないと危惧していたことだ。
他のアンゴルモアの群れとの合流。それに伴う、戦場で奮闘する各チームへの負担の増加。
『どのチームにも余力はない……! そちらもイレギュラーに見舞われているのは理解している。なるべく迅速に対処して、星の意志へ向かってほしい!』
「そんな——」
二体のクイーンに、乱入したベルチャーナ、そして道を逸れる星の意志。
『片月』と『鳴箭』の七人のみで、このすべてに対処する?
できるはずがない——などとは言えなかった。できるはずがなくとも、やるしかないのだから。
誰もが最善を尽くしている。方舟本部の観測班とオペレーター、ヤナギをはじめとする臨時司令部の面々、そして『寒厳』『巻雲』『逆風』『無色』の各チームも、今まさにアンゴルモアを相手に奮戦している。
ウラシマが言った通り、誰ひとり余力などないのだ。
「やるしかないのお。準備はできとるか? 二人とも」
「ばっちりですよ、リーダー。ボクら、ここががんばり時みたいですし」
「心底嫌ですけどぉ。でも、先輩ももういないんだから——やってみせます」
『鳴箭』の三者が、互いに距離を取って広がった。単一ではなく、複数の敵を相手にする際の陣形。
「『片月』——! クイーンはわしらが引き受ける! お前たちは『星の意志』に向かえ!」
「タカモト? そんなのいくらなんでも無茶なんじゃ……」
「わしのコピーギフトなら、防御に徹すれば粘り勝つ見込みは十分ある。蓄積したダメージもあるからの。じゃが、この戦法はどうやっても時間がかかる!」
ゆえに、本来の目標である『星の意志』を片月に託そうと言うのだ。
カナヒトは意志を継ぐようにうなずいた。
「承知した。死ぬなよ、デカブツ」
「おうとも! 簡単にあの世へ落ちては、夢のやつにもどやされてしまうからのお!」
「はっ、違いない」
交わす言葉はそれだけで十分。カナヒトはチームに集合の指示を出し、クイーンからまとまって離れようとする。
だが、イドラたちの離脱を阻む者がその場には独りいた。
浅葱色の髪を翻し、エクソシストが立ちはだかる。
「ベルチャーナ……!」
「逃がさないよ。方舟の人たちがどっか行くのはいいんだけどさ、イドラちゃんたちは置いてってもらわないと」
「まあ、そうなるよなぁ。だがあいにく、イドラとソニアももう『方舟の人たち』だ。お前らの因縁は知らんが、人類存亡の瀬戸際なんでな。ガキの癇癪に構ってられん」
「癇癪……へえ。言ってくれるね、リーダーさん。あは、ムカついてきちゃった」
凍てついた瞳の睥睨が周囲さえ凍らせる。無論錯覚だが、確かにイドラは血の気が引くような感覚を味わった。
「聞いてくれ、ベルチャーナ! ソニアの力量がどうとか以前に、今日『星の意志』を倒すことができれば、そもそも争い自体が——」
「ううん、聞かないよ。決めたから——わたしはもう、イドラちゃんたちの敵に回るって!」
再び、ベルチャーナが地を蹴って強襲する。
そこまで固執する理由が、イドラにはとんとわからなかった。ソニアに対しての隠しきれない敵意のわけも。
だが、誰がそれを吹き込んだのかはわかる。
(レツェリ……! お前の差し金か!!)
向かってくる少女の影に、仇敵の姿を幻視する。
あの男はソニアを不死憑きにした張本人だ。ならば、不死の力が日増しに薄れていることも予見できていよう。それを元に、ベルチャーナの感情を煽り立てた。
もっとも本来のベルチャーナは明朗かつ篤実で、人当たりのいい少女だ。レツェリに煽られたとて、簡単に他者に敵意をむき出しにはしない。
そんな彼女がこうも激情に駆られる、その源泉はなんなのか? そこだけがどうしてもわからない。
「どーすんのさリーダー、あの子やる気だよ!」
「向かってくる以上はやるしかないだろうが。いいな、イドラ! 斬るぞ!」
「なっ、殺すってことか!? 頼む、それだけは……友人なんだよ、ベルチャーナは!」
「この期に及んでまだそんなことを——なんでお前は友人に襲われてるんだよ! おかしいだろうがっ!」
「僕だって訊きたいよ……!」
おかしいだろうと指摘されれば、ぐうの音も出ない。
それでもベルチャーナを殺すことだけは避けたかった。どんなすれ違いがあったとしても、同じ時間を過ごした仲間だ。それにもしイドラがベルチャーナを殺したと知れば、ミロウも深く悲しむだろう。
しかし相手が襲ってくる以上、迎撃は必須。加えて星の意志が進路を変更した以上、悠長にしている時間はない。
「させません……!」
目前にまで距離を詰めるベルチャーナと、灼熱月輪を手に迎え撃とうとするカナヒト。
そこへ、ソニアが割り込んだ。
「ソニアちゃん? ……まさかとは思うけど」
「そのまさかです。ベルチャーナさんの相手は、わたしがします。——皆さんは、『星の意志』の方に向かってください」
半身で振り返って、ソニアは言う。つまるところクイーンを『鳴箭』が引き受けたように、ベルチャーナを自身が引き受けようと言うのだ。
確かにそうすれば、残った三人で『星の意志』へ向かうことはできる。
できるが、しかし。
「ソニアひとりを残して行けるか! だったら僕も——」
「だめです、イドラさん。これ以上人数を減らすわけにはいきません」
「——っ」
本隊を構成する人数が減れば、それだけ星の意志への勝率は落ちる。
文明の存亡を懸けた一戦。そうなればもちろん、真に優先すべきはそちらなのだ。個人の執着も命運も、連綿と続く人類史という大河の中では、流れゆく小石に過ぎない。
「だとしても! 僕は、ソニアが大切だ!」
ならば、流転する大河に逆らってでも、イドラはソニアの味方でありたいと思う。
もとよりこの身は地底の生まれだ。星の命運よりも大事なものが、すぐ隣にある。
土壇場でこそ、追い詰められてこそ人の本性は出るという。イドラの本心からの願いは、積み重ねられた幾多の死に報いることでも、今日まで続いてきた人類の歩みを途絶えさせないことでもなく。ただ、身近にいる誰かを守ることだった。
ソニアは小さく息を呑んで、それからふっと、つぼみがほころぶように笑った。
「ありがとうございます。その言葉だけで、わたしはなんだってしてみせます。でも——ごめんなさい。本心を言えば、これはわたしのわがままなんです」
「わがまま? 僕がいれば邪魔になるのか?」
「証明したいんです。わたしが……役立たずじゃないって」
前へと向き直り、藍色の柄巻に覆われたワダツミの柄を強くにぎる。
眼差しの先には、もはや敵意を通り越し、殺意をありありと放つ浅葱色の髪の祓魔師。
「隣にいられて当然だなんて、わたし、ちっとも思ってません。ベルチャーナさんを倒して証明してみせます。イモータルの力に頼らない、わたし自身の実力を」
「ソニア……」
「信じて、くれますか?」
その小さな背にイドラは強い決意を見た。
北部の作戦以降、ウラシマにも協力してもらいながら、ソニアが連日訓練室に籠っていたのをイドラは知っている。ソニアはずっと、強くなろうと努力の限りを尽くしてきた。
すべてはイドラの隣に居続けるために。力不足を補おうとしてきたのだ。
そして今、殻を破ろうとしている。
ここで信頼を返さずして、なにが隣人か。
「——信じる。ここはソニアに任せて、僕たちは先に行く」
「はいっ!」
不安はある。最悪の結果になれば、やはり自分も残っておくべきだったと、イドラは後悔することになるだろう。
しかし、選択を尊重するべきだと感じた。それが信頼の証だ。
ソニアとベルチャーナ、さらにチーム『鳴箭』とクイーン二体をその場に置いて、イドラたちは先を急ぐ。
「まったくひやひやしたぜ。お前まであそこに残ってたら、俺と芹香だけで大ボスとご対面だ」
「う……悪かったよ」
「リーダーは俺だぞ? ちゃんとわかってんのかよ」
叱るようなことを言いながらも、カナヒトの口調は笑い交じりで冗談めいている。
オペレーターから進路の指示をもらいつつ、三人は荒んだ夜の街を駆け抜ける。
もはや一刻の猶予もない。星の意志が他の群れと合流する前に、撃破する必要がある。
「でもリーダー、二人も三人もあんまり変わんなくない!?」
「言うな芹香。しょうがねえだろ、作戦規模が大きいほどにイレギュラーは起こるモンだ。残った手札で戦うしかない」
「僕たちが長時間『星の意志』を抑え込むことができれば、他のチームからの助力を期待できないか?」
イドラの質問は、通信機越しのウラシマが答えた。
『当面は難しいと思ってくれ。どの群れにもクイーンがいて、大勢のアンゴルモアに手を焼いている。掃討が完了して、さらにイドラ君たちのもとへたどり着くまで……そうだね、早くて四十分ほどはかかるだろう』
「四十分、か。待つことを優先して耐え凌ぐか、それとも三人で倒しきるか……」
「そこは状況を見て俺が指示を出す。が、おそらくは後者を目指す。俺たちのコピーギフトは長期戦に向いてねえ」
イドラのコンペンセイターはコピーギフトではなく真正のギフトだが、長時間の交戦に不向きなのは同じことだ。『補整』能力には代償を伴う。長時間の戦闘で深い手傷を負うたびに、負債は積み重なっていく。
何度目かの、完全な暗闇が辺りを覆う。また照明弾の効果が切れたのだ。
少しすれば再び光が打ちあがるだろう。
闇の中で空を見上げても、見えるものはなにもない。月も星も、ずっと厚い雲に隠されている。
——そういえば。
「先生。ソニアに無線をつないでもらえますか」
『構わないが、どうかしたの?』
「意味があるかはわかりませんが、一応伝えたいことがあって」
賽が投げられたのは二十七年も前。イドラが与えられる影響など、ごく限られたものなのかもしれない。
それとも、そうでないのなら。小石の一粒が大河に影響を及ぼすことも、現実には時にありえるのだろうか?
夜が明ける頃には、出目が見られることだろう。