第百三十二話 『混迷する状況』
ところどころ補修の目立つ黒いジャケットを羽織り、ベルチャーナは熱っぽい目でイドラを見る。その視線にもイドラは怪訝さを感じたが、なにより乱入したベルチャーナに対し、ソニアが警戒心を露わにしているのに疑問を抱いた。
(この状況——)
ソニアと目が合うと、イドラは彼女が言いたいことを理解した。
暗闇に阻まれていた視界。ソニアの悲鳴。突如現れたベルチャーナ。すべての点が線でつながる。
(——暗闇に乗じて、ベルチャーナがソニアを襲った)
状況を把握し、ソニアにうなずきを返す。
ベルチャーナは北部の折、レツェリと行動をともにしているようだった。敵だとは思いたくないが、事情を問いたださねばわだかまりが残るのも確かだ。
「ソニアちゃんのこと、見たね。へえ……目と目で通じ合うってわけ? すごい、以心伝心っ! あは、妬けちゃうなあ」
「ベルチャーナ、どういうつもりだ。僕たちの助勢に来たのか?」
「違うってわかってるくせに。ベルちゃんはただ……」
「——っ、後ろだ!」
「おっとと」
ベルチャーナの背後から、その体躯を貫かんと漆黒の槍先が迫る。あわや串刺しというところで、ベルチャーナはくるんと身を翻しながら跳躍し、軽業じみた動きで回避した。
「ありがとね? わざわざ警告してくれるなんてさ、ふふっ」
「ね、ねえイドラ、誰なのこの子? 知り合い?」
「こいつぁ確か……北部のときに見た顔だな。ソニアを狙ったのか? だったら俺たちの敵だな」
「うぅん、方舟の王冠狩りにはベルちゃん興味ないんだよねぇ。別にかかってくるならいいんだけどさ。でも、そんな暇あるかな?」
ベルチャーナが槍の射程距離から離れたのを見ると、クイーンは次に近くにいたカナヒトに狙いを定め、鋭い突きを放つ。カナヒトはそれを灼熱月輪で打ち払い、舌打ちをした。
「見境のないやつだ……! どうせなら向こう狙え向こう!」
「おい奏人ォ、なにがあった! なんじゃあその女は!」
「知らん! だがおそらく敵対関係だ!」
乱戦の様相を呈しかけている『片月』を見かね、タカモトが問うも、あちらも助力の余裕はない。
ベルチャーナは慌てふためく狩人たちを前に、面白おかしいとばかりに小さく笑う。
「話の途中だったね、イドラちゃん。ベルちゃんはただ——イドラちゃんを助けたいの」
「助ける?」
——どう見ても、反対のことをしているじゃないか。
そんな感想が表情に出ていたのか、イドラの反応に、ベルチャーナはまたもくすくすと笑った。
「相変わらずわかりやすいね、あはは! でもね、気付くべきだよ。その鈍感さはイドラちゃんを滅ぼしちゃう。ねえ? ソニアちゃん」
「え? わ、わたし……ですか?」
「そうだよ。あなた以外に誰がいるのさ」
ベルチャーナから笑みが消える。ソニアと話す時のベルチャーナは明らかに、怒りにも似た、なにかほの暗い感情が隠しきれていなかった。
「隣にいるのが当たり前、みたいな顔しちゃってさ。知ってるんだよ、わたしは。ソニアちゃん……弱くなってるよね?」
「——っ、それは」
「不死憑きの力が薄れて、前ほどの力が出せなくなってる。それなのにこうして武器を持って、イドラちゃんの隣で戦おうとする。それっておかしくない? ソニアちゃん自身のことも、イドラちゃんのことも危険に晒してるんじゃないかな?」
「馬鹿なことを言うな、ベルチャーナ。ソニアは誰よりも頼りになる仲間だ」
「イドラさん……」
端的に、しかしはっきりと口にする。
確信を伴うイドラの断言に、ベルチャーナはぎり、と歯ぎしりの音を小さく鳴らした。
「今はそうかもね。まだ、残滓が残ってる。イモータルの残滓が。でもいずれそれが消えれば、ソニアちゃんは……はっきり言って役立たずだよ」
「なんだと? ベルチャーナ、いい加減にしないと僕も怒るぞ」
「いいよ、怒っても。もちろん役立たずっていうのは戦闘だけの話だよ、わたしもソニアちゃんの素直でかわいいところは好きだし。でも——身の丈は弁えないとね?」
怒りではない。ソニアを見つめるベルチャーナの目に浮かぶのは、純然たる敵意だ。凍土のようにどこまでも冷たい敵意。
だが、無二の隣人を蔑まれたイドラこそ、怒りを抱かずにはいられなかった。
「身の丈がどうとか、そんなことをベルチャーナが決めるな。仮にソニアの力量に問題が生じたとして、それは僕たちの問題だ」
イドラとしては、『僕たち』というのは換言すれば『片月』全員のことを指しているつもりだった。ソニアは今やイドラと同じく方舟の一員であり、戦闘班のチーム『片月』のメンバーなのだから、ソニアが戦闘についていけなくなれば、それはメンバーの全員で相談すべきことだ。
実際イドラも、ソニアが通常の人間に近づいている——それも急速に——のには気付いている。北部の作戦ではそれが要所要所で表れていた。
しかしベルチャーナは、イドラが言う『僕たち』を別の意味で捉えたらしい。途端に表情が消え、冷酷そのものの目を向けてくる。
「割って入る隙はない、って言いたいの? ふぅん。でもこれはイドラちゃんと、ソニアちゃん自身のためだから。蚊帳の外に置こうとするなら、無理やりにでも破っちゃうよぉ」
ベルチャーナが姿勢を低くする。
——来る。
イドラがそう思った次の瞬間、ベルチャーナは爆発を背に受けたかのような初速で駆け出し、瞬く間に間合いを詰めた。
「くっ……!」
「あは。びっくりした?」
咄嗟にコンペンセイターを構えようとするが、無造作に振るわれた手刀がイドラの腕を弾く。手で払うような、何気ない所作であったはずのそれを受けただけで、じんとした痺れが腕全体に広がる。
コンペンセイターを取り落とすまいと、手先に意識を集中する。それを読んでか、追撃は足を狙ってきた。
すくい上げるような足払い。イドラは後退して対処する。
「——!?」
足払いはフェイントだった。冗談じみた軌道の変化で、その足が地を踏みしめる。関節の柔らかさに驚愕する暇もなく、踏み込みと同時に放たれた掌底がイドラの胸を打った。
「がっ……!」
「イドラさん!」
体が浮き、後方へ吹き飛ばされる。あの細腕のどこにそんな力があるのか——鈍痛を味わいながらイドラは問いかけたくなった。
事実筋力だけならイドラの方が上だ。葬送協会のエクソシストとしてベルチャーナは鍛錬を積んできているが、イドラとて過酷な旅に鍛えられている。ならば男女の差で、単純な力だけならイドラの方に分がある。
しかし、運動能力自体はベルチャーナの方が上だと、イドラは骨身に沁みてわかった。
いわゆる運動神経。戦闘におけるセンス。そうしたものが、ベルチャーナはずば抜けている。先の掌底も、ただ腕のみを使うのではなく、踏み込みに伴う適切な体重移動により全身の力を使って打ち込んでいるのだ。
「ごめんねー、イドラちゃん。でも本気になってもらわないと、意味がないから——っと」
「——伝熱」
さらにイドラへ近づこうとするベルチャーナへ、白く熱された刃が振るわれる。
カナヒトの灼熱月輪。その、彼の手に渡る以前から幾多のアンゴルモアを滅してきた傑作コピーギフトの脅威を感じ取ってか、ベルチャーナは大きく飛びのいた。
「あっぶなー! 今、完全に首狙ってたよね? 怪物相手が専門じゃないのっ?」
「確かに人を斬ったことはねえな。だが、アンゴルモアを殺す俺たちの邪魔をするってんなら、お前だってアンゴルモアみたいなモンだ」
「は? なにその理屈、意味わかんないんだけど!」
「ちょ——ちょっとカナヒト。殺すのはやめてくれ、今はこんなだが、ベルチャーナは仲間だ」
「あぁ? なんじゃそりゃ。ったく、面倒なことを……しょうがねえな」
カナヒトは殺人になにも感じないような冷血漢ではない。が、第一義を過つような愚か者でもない。
仲間たちの死に意味を与える。生に意義を与える。
それだけがカナヒトの目的だ。その障害となるものはなんであれ斬り捨てる。迷いなき意志で以って。
「はぁ、わたしが相手したいのはイドラちゃんとソニアちゃんだけなんだけど。アンゴルモアとだけ戦ってればいいのにー……こうなったら、鎖を使うしかないかなぁ?」
カナヒトを前にしてもベルチャーナは余裕の表情だ。
クイーンもいまだ健在で、そちらはセリカとソニアがなんとか抑えてくれている。だが二人のコピーギフトはどちらも攻撃寄りの性能だ。防戦を強いられれば、いつか致命的な隙を晒すだろう。
助力に向かうには、イドラたちは一刻も早くベルチャーナを倒さなければならない。
——できるのか?
迷わないと決めたはずの頭に、逡巡が生まれる。
ベルチャーナの実力は相当なものだ。先のやり取りでそれはわかりきっている。
いかにカナヒトがいても、殺さないように加減しつつ、速やかにベルチャーナを無力化するのは不可能に思えた。
『——聞こえるかい? 悪い知らせだ』
混迷する状況下。そこへさらに、苦々しい声で、ウラシマからの無線が届く。
『観測班より通達があった。どうやら星の意志と思しき反応が、進路を曲げ始めたらしい。このままでは他のアンゴルモアの群れと合流する』
「なんだって……!?」