第百二十八話 『独善者の告解』
「今さら気にしないでくれ。僕たちはもう、『片月』の一員だ」
「イドラさんの言う通りです。それに……その、なんだかヤナギさんのそれは感謝じゃなくて謝罪に聞こえます」
ソニアの思わぬ一言に、ヤナギはわずかに驚いた顔を見せた。だがすぐに、「そうだな」と言って納得したような表情を浮かべる。
「ソニア君に指摘された通りだ。儂は謝りたい——懺悔したい、と言うべきか」
「懺悔? ですか?」
「人類の復興。黄金期の再来。アンゴルモアによって人間の築いたすべてが壊された時より、儂はそのために邁進してきた。だが、周囲を顧みないその過程で、蔑ろにしてきたものが多々あった」
割れ窓に視線を投げかける。
外には、永遠を思わせるほど暗く深い、闇の世界だけが広がっている。
イドラはふと思い出したように、自分が方舟の総裁たるヤナギのことを深く知らないことに気が付いた。
険しい眼光の奥に狂おしいほどの情熱を湛える——
迷いない果断さで前へ進むこの老骨の後ろには、どのような道が拓かれてきたのだろう?
「誰かに謝りたいと思ってるのか? 後悔していると?」
「後悔などすまいよ。すべての選択が正しかったのだと、儂は未だに信じている。だが……ことここに至るまで気付かぬふりをしてきたが、浅ましくも、この身は存外に罪悪感など抱えていたらしい」
ヤナギは後悔を否定する。が、否定したのは後悔だけだ。
地底世界から来た若者二人に重責を押し付けている現状それ自体も、彼の言う『蔑ろにしてきたもの』に含まれているのだろう。
「……これを隠すことは、君たちにとってフェアではない」
「なに?」
「そう思ったが、しかしこんなものは建前で、儂はただすべてが決定付けられる前に……文明の行く末が決まる前に、自身の告解を聞いてほしいだけなのかもしれん。この世のあらゆる因果につながれぬ、ほかでもない君たちに」
なんの話をしているのか。イドラとソニアは、その老人の意図が汲めずに当惑する。
そこへ、ヤナギは淡々と告げた。
「二十七年前の第一次北部侵攻は、儂が起こした」
「……は?」
「え?」
イドラは、忙しく動く周囲の立てる、足音や話し声といった雑音が遠ざかっていく感覚に見舞われた。
そして、北部地域奪還作戦で見た、荒廃した景色を思い出す。
あれは第二次北部侵攻の結果だが——同じようなものが、防壁の向こうにも広がっている。それを起こしたのは、眼前の男だというのだ。
「起こしたって……アンゴルモアの侵攻を? 人為的に?」
「偽神計画、というものが当時あったのだ。君たちが来るずっと以前の話——当時の方舟の総裁と、黒神会というカルト宗教が秘密裏に手を組んだ。それがうまくことを運べば、人はアンゴルモアの脅威を忘れ、アーコロジーの揺り籠で安寧に浸れたのだ」
アーコロジー。方舟に来てすぐの時、そんな話をぽつりとしていたな、とイドラは朧げに思い出す。
「儂はそれが、許せなかった」
「え? ど、どうして……ですか?」
「ヤナギ。あんたはあくまで、地上すべてを取り戻したかったんだ」
「その通りだイドラ君。今さら偽神計画の詳細は語らんが……幼稚な夢だと思った。そしてなによりも、惰弱だと感じた。過去の繁栄を忘れ、そして未来の繁栄をも棄てた先に未来などない。あの計画が提示するのは、先細りした、つかの間の安寧だ」
「察するに、アンゴルモアから逃げるような計画だったんだな? この先、ずっと」
「逃げる、そうだな。まさしく逃避だ。臭い物に蓋、我らが民族の悪癖だとも。仮にあれが永遠を保証するものであったとしても、儂は否定しただろう」
偽神計画。またの名を位相固定波動覚醒計画。
クイーンの女王核を人間に取り込ませることで、アンゴルモア統率能力を備えた人間を生み出すことが、当時の方舟側の目的だった。それにより、アンゴルモアの寄り付かない平和な地域を手にする。
だがその聖域は、かつての人類が有した領土に比べれば、ウサギ小屋にも劣るようなごくごく小さな規模だ。そんな場所に閉じ込められ、外敵のことなど忘れ、許されたささやかな幸福をのみ享受する。
人類の最盛期を知る柳景一という男には、到底我慢ならなかった。
人に必要なのは狭苦しい楽園ではなく、開拓すべき広大なる荒野であると信じて疑わなかった。
「あの計画を実行させるわけにはいかなかった。そこで儂は、強引な手段に訴えかけた。計画が失敗するよう細工をしたのだ。その結果おそらくは、慶伊花音の暴走したアンゴルモア統率能力が周囲一帯のアンゴルモアを呼び寄せた」
ケイカノン、という人物の名はわからなかったが、イドラにもおおむねのあらすじは理解できた。
前総裁の企んだ計画を、ヤナギは阻止したのだ。自身の行いが善と言い切れるようなものではないと、重々理解したうえで。
「じゃあもしかして、前総裁は……」
「ああ。その時の第一次北部侵攻で亡くなった。生き残ったのは……わが身可愛さでいち早く逃げ出した儂だけだろう。偽神計画の関係者も、罪なきミンクツの住民も、等しくアンゴルモアに殺されたはずだ」
「で、でも! ヤナギさんの話を聞く限り、アンゴルモアの侵攻が起きたのは事故だったんですよね? 前総裁の計画を止めるまでがヤナギさんの思惑で、その結果北部侵攻が起きてしまったのは事故だった。なら……」
「だとしても、引き金を引いたのはこの儂だ」
この儂なのだよ。そう、噛み締めるように繰り返しつぶやく。
旧北部の壊滅がヤナギの意図したことでなかったとしても、潔白とは言えないだろう。
そもそも、偽神計画を止めること自体、ヤナギの独善だ。今となっては当時の住民に問うすべもないが、アーコロジーに引きこもるという前総裁の展望を、ともすれば人々は受け入れたかもしれないのだから。
うまくいかないと決まったわけではない。揺り籠は恒久に保たれ、いくばくかの自由こそ失ったものの、人類は平穏を取り戻すことができたのかもしれない。
その可能性を、画餅に過ぎないと切り捨てたのはヤナギだ。望むべきは単なる存続ではなく、今一度この大地にあまねく広がる繁栄であると決めつけて。
「そのことを知る人間は?」
「儂だけだ。当時からして秘中の秘……関係者すべてが死んだ以上、ほかにはおるまい」
カナヒトもウラシマも知らないようだった。
今、イドラたちの周りで、一世一代の作戦のために忙しく走り回る者たち。彼らも知らないのだ。ヤナギが犯した罪のことを。
「作戦前に余計な話を聞かせて悪かった。なにも、赦免を望もうとも思わない。ただ……知っておいてほしかっただけだ」
「いいのか、こんなこと話して。僕たちが誰かにばらせば、あんたは終わりだぞ」
「だが、今この場ではそうはすまいよ。君たちは優先順位を弁えんような無能ではない」
イドラは押し黙るしかない。
星の意志との決戦前にヤナギを失脚させることは、人類の命運を懸けた一戦に、必要不可欠な司令官を失うのに等しい。誰にとっても損害だ。
「……作戦が終わったあとなら、いくらでも話せる」
「その時は好きにすればよい。この作戦が終わり、なおかつ君が生きているのなら、きっと人類は勝利している。それは儂の大願だ——これが叶ったあとならば、どうなろうとも構わぬよ」
こけおどしなどではなく、本心からそう言っていると、イドラは老人の態度から理解できた。
二十七年前も今も、ヤナギは人類の復権のみを目指している。アンゴルモアを駆逐し、失われたすべてを取り戻そうとしている。
その弛まぬ意志が、一切の迷いを排し、この老躯を支えているのだ。善悪の彼岸すら越えさせて。
「なんでそうまでして、あんたは人類を復興させたいんだ」
「紡いできた歴史があるからだ。時に英雄が、時に名もなき人々が、連綿と紡いできた数百年の歴史……その重みに比べれば、どんな事実も羽毛と同じだ。それを、幼児が積み木を崩すような唐突さで無に帰す。そんなことはたとえ母なる星であろうとも許されはしない」
歴史。言ってしまえば、そのすべては過去だ。
だが、過去ばかり見るな、とはイドラにも言えなかった。地底の住民であるイドラは、ヤナギの言う歴史の重みなど量り知れない。人類の最盛期がどんなものか、その輝きの強さを外に広がる滅んだ街並みから想像することはできても、実際のところはわからない。
だから、ヤナギの拘泥を否定する権利など持ち合わせてはいなかった。
「……僕はこの世界の過去を知らないから、共感はできない。それに肯定も否定もできないけれど、言いたいことはわかった」
「構わんよ。理解が及んでくれるなら、それ以上のことはない」
長話をしている暇はない。ヤナギはここで話を打ち切り、一歩下がると、イドラとソニアの目を見る。それから一度、深々と頭を下げた。
「どうか、頼む。人類を救ってくれ」