第百二十五話 『その日』
熱っぽくセリカに訴えかけていたソニアが、目を丸くする。そしてぎこちなく、隣に座るイドラの方を振り向いた。
「僕もソニアも、てっきり空元気かと」
「あー……そういうことね。心配してくれてたのはわかってたけど、そこまでとは思ってなかったなー」
合点がいったと肩をすくめ、苦笑するセリカ。
「そりゃ、作戦が終わってすぐはあたしもつらかったよ。戦闘班を抜けようかとも思った。でもやっぱりあたしは——ミンクツで生きるすべての人のために戦いたい。こんな世に、少しでも希望をもたらしたいの」
そう話すセリカに過度の気負いや虚勢はなかった。既に悲しみを乗り越え、トウヤの死を受け入れた上で、それでも戦場に戻ろうとしている。
空元気だと思ったイドラとソニアが間違っていたようだ。トウヤが死んだあの時、セリカが強く動揺していたのは確かだが、彼女は既に立ち直っている。
「セリカは強いな。ひとりで乗り越えてるなんて……すまん、見くびってたのかも」
「わ、わたしも、ごめんなさい。セリカさんが無理してるんじゃないかって、勝手に思ってしまって……」
さっきあれだけ勢いよくまくし立ててしまったからか、ソニアは顔を真っ赤にして萎縮する。今にも小さくなって見えなくなりそうなくらいの覇気のなさだった。
「いやいや、謝んないでよ。ありがとね、ふたりの気持ちはすっごくうれしい。それに、自分で立ち直ったわけじゃないしね……実は、戦闘班をやめるかもって相談をリーダーにしたら、引き留められちゃって」
「カナヒトに?」
こくん、とセリカはうなずく。
「『戦場から逃げて、灯也の死に意味を持たせなくていいのか』——ってさ。あはは、ほんっとひどいよねあの人。とんだ殺し文句だよ」
言葉とは裏腹に、穏やかな口調。
死の意味——それは、イドラ自身、聞き覚えのある台詞だった。ほかでもない、カナヒトに言われたことだ。
——俺たちがなにもしなけりゃあ、死んでいったやつらの、死の意味が消える。
だからこそカナヒトは、死者に意味を、その生に意義を手向けるために、戦地へ赴く。
「トウヤさんの死の、意味……。セリカさんは、それを言われて戦闘班に残ることを決心したんですか?」
「まあね。言い方はきつかったけど、リーダーには感謝してる。逃げ出したら、あたし……その先の人生、一生後悔すると思う。あの時、灯也のそばにいたのはあたしだから。戦場から逃げるのは、灯也を守れなかった責任から逃げることなんだって、リーダーのおかげで気付いたんだ」
「責任、か」
「そう、責任。——背負いたいもの。仲間だったんだから」
痛いほど、イドラにはその気持ちが理解できた。
灯也の死を不慮の事故で片付けることはできるのかもしれない。少なくとも各々が最善を尽くしていた以上、誰かに責任の所在を求めたり、戻れない過去を悔やむべきではないのかもしれない。
だが仲間とは、あらゆる責任を委ね合う間柄のことだ。それこそが命を預け合うということだ。
ゆえに彼らは、進んでその死を背負おうとする。
「わかります、わたしも……。『片月』に入って日の浅いわたしが言うのは、思い上がりかもしれませんが」
「ううん、そんなことないよ。ふたりが灯也を悼む気持ちは伝わってる。あいつも、向こうでうれしがってるんじゃないかな」
湿っぽい空気になっちゃったね、とセリカは小さく笑う。流れを変えるように、皿のものを一度口に運んでから、明るい口調で続けた。
「ただまあ、やっぱり後悔はあってさ。もう誰も失わないように、みんなを守れる力が欲しいって。そこでリーダーに、新しいコピーギフトの使用を勧められてて」
「新しいコピーギフト? あの双剣から、武器を換えるってことか?」
「そうそう。別に、今の61号——紅比翼が悪いってわけじゃないんだけどさ。少し前に抽出されたコピーギフトが、使い手のいない状態らしくて。出来もいいみたいだから、って」
ちょうど戦死者も何人か出た。地底世界でのイドラの活躍で、コピーギフトの抽出を阻害する外乱も数を減じ、今の方舟はコピーギフトをいくらか持て余している状況のようだった。
とはいえ、人員の補充は近いうちされるだろう。戦闘班の人間は長生きできないのが常だ。
「コピーとはいえ天恵が新しくもらえるっていうのは、わたしたちからすれば変わった感覚ですね……どんな武器になるんですか?」
「製造番号は確か、73号だったかな? 長物らしくて、あたしは扱った経験はないんだけどさ。単純かもだけど、届く距離が大きくなれば、守れる範囲も広がるわけだし。あと、リーダーに稽古もつけてもらいやすいから」
「長物……カナヒトさんの白い剣や、ワダツミみたいな感じなんでしょうか」
剣ではなく刀だったが、ソニアからすれば同じようなものだ。
それよりもイドラは、セリカがカナヒトからの稽古を既に考慮していることに驚いた。
(同じ長物同士なら、勝手を教えてもらいやすい、か)
変わろうとしている。成長しようとしている。
強くなるために、方法を考え、計画を立て、実行しようとしている。
その行動の根源がなんであるのか、顧みるまでもない。
(死の意味は……きっと、消えたりなんてしない)
セリカも、それからソニアも。悲しみを乗り越え、己と向き合っている。
カナヒトもまた、変わらぬ意志と眼差しで、トウヤの死を背負うだろう。
ならばイドラは? イドラだけ、足踏みを続けてよいものか。
——いいわけがない。例の『観測班の見解』によれば、決戦の日は近いのだ。
もしマイナスナイフがあれば——この世界に来てからイドラがそう思ったのは、一度や二度ではない。世界の壁を越えたことで、青い負数の短剣は『順化』し、赤い刀身を携えた補整器となった。
それによって失われた力はあるが、だが同時に新たに得たものもあるはずなのだ。
自分はまだ、コンペンセイターを十全に扱えてはいない。イドラはそう認識していた。
(ヤナギにもらったアンプルはあるが……)
普段腰に着けているナイフケースの隣に、三本のシリンジを収めたケースをもうひとつ着けるようにしている。
代償の肩代わり。これもまた、イドラ自身の成長とは言い難いが、新たな力だ。
しかし、これはあくまで、活力を代償として捧げた際の保険に過ぎない。
(……仮にアンプルを使い切り、僕自身の体力も底をついたとき。なにを棄てるべきか——なにから棄てるべきか。前もって、考えておかないとな)
なにかを代償として、あらゆるものを『補整』する能力。そのコストは、なにも活力には限らない。
イドラにとって真に必要なのは、技量を高める訓練などではなく、躊躇なく自身の一部を喪失する思い切りなのかもしれなかった。
*
その後は再び雑談に花を咲かせ、十分羽を伸ばせた一行は店を出て方舟に戻った。
それからはまた、昨日までのような——観測班の副主任であるスズウミが言うところの、『嵐の前触れ』のような日々が続いた。
なにかが起きそうで起きない日々。アンゴルモアの出現は依然乏しく、時折いくつかのチームが出撃することはあったものの、大事はなく、またイドラたち『片月』の出番もなかった。
その間、ソニアはウラシマと、セリカはカナヒトと訓練漬けだ。セリカは無事、紅比翼に代わる新たなコピーギフトを貸与されたようだった。
イドラの方も、体が鈍らないよう時折訓練室を使いながらも、コンペンセイターの能力についてひとり考察する。
合間を見てソニアと食堂に行ったり、たまに廊下でスズウミとバッタリ鉢合わせたり。そんな時間が、大通りのカフェに赴いたあの日から、五日ほど続き——
ついにその日がやってきた。