第百二十四話 『甘い菓子とおせっかい』
*
さらに翌日——
決戦間近という観測班の見解を知り、緊張感を持って過ごしていたイドラ。
そこへやってきたのは、隣室のソニアだった。今日は例のウラシマと行う秘密の訓練は休みらしい。
「お、お出かけしませんか!?」
自室のドアを開けると、顔を合わせるなり、意を決してという風にソニアは突然言った。
「……お出かけ? どこにだ?」
「えっと、職員の方から、スイーツのおいしいお店を聞いたので……!」
どうやら菓子を食べに行こうという誘いのようだ。
緊張感の欠片もない提案だった。決戦に備えようとした矢先に、そんなのほほんとした時間を過ごしてよいものか、とイドラは自問する。
だが、ソニアは件の見解を知らない。それにせっかくソニアが誘ってくれているのだし、期待に満ちた橙色の瞳を向けられると、無碍にはしたくなかった。
「いいよ、行こう」
「大丈夫ですか? 今日、ほかの予定とかは……。なんだかイドラさん、いつもより集中した雰囲気に見えます」
「鋭いな」
——それとも先生が言った通り、僕がわかりやすすぎるのか?
イドラは苦笑を浮かべながら、「大丈夫だ」と安心させるように告げる。
決戦を控えた事実が頭から離れることはないが、ずっと気を張っているのも精神衛生上よくないはずだ。
「スズウミも、三日後に試験があっても二日は遊ぶって言ってたしな……」
「だ、誰……? 試験?? なんの話ですか……?」
怪訝な反応をされた。
ともあれ外出の準備をしようとするイドラだったが、まだ話は終わっていないとばかりに服の裾をつまんで止められる。
「あ、あの、実は」
「——?」
若干口にしづらそうにしながらも、ソニアは言った。
「もう一人、呼びたい人がいるんです」
*
「いんや~、ごめんねホント。ふたりのデートに割って入っちゃってさ」
ミンクツで唯一コンクリート舗装された通りを並んで歩きながら、セリカは両手を合わせて謝った。
そこは、メインストリートと呼ばれる方舟の膝元にある一筋の大通り。道は舗装され、行き交う人々の身なりも清潔で、軒を連ねる店構えはどれも洗練されている。街灯も途切れず立ち並び、その通りだけはまるでミンクツというよりも、方舟の延長のようだった。
事実、この辺りを利用するのは方舟の職員が多い。あとは、この辺りに家を持つごくひとにぎりの裕福な住民くらいだ。
「デ、デートだなんて、そんなんじゃないですよっ。それに誘ったのはこちらですし」
「おおかた心配してくれてたんでしょ? この間の作戦以来、顔を合わせる機会もなかったから」
「あんなことがあったからな……。ゆっくり話す機会を設けようってソニアの提案は、僕も賛成だ」
ソニアの言う『もう一人』とは、セリカのことだった。
トウヤとの付き合いで言えば、イドラたちよりセリカの方がずっと長い。仲間を亡くしたショックでしばらく塞ぎこんでいたイドラだが、心に受けた傷の深さで言えば、セリカの方が深いはずなのだ。
「カナヒトさんも来てくれたらよかったんですけれど」
「あれ、もしかして声はかけてみたのか?」
「はい。でも、『めんどいからパス』って言われちゃって……」
「なんて協調性のなさだ……」
「あははっ、リーダーらしいよ」
あっけらかんとセリカは笑う。久しぶりに顔を合わせた『片月』の仲間は、既に元気を取り戻している——ように見えた。
イドラはちらとソニアに目配せする。視線に気づくと、ソニアはこくんと小さくうなずいた。
(ソニアも、空元気だと思ってるみたいだな……)
トウヤを亡くした時の、傍目からもわかるほどのセリカの強い動揺。あれはそのまま、セリカが抱いていたトウヤへの感情の裏返しだ。悲しみに暮れていないはずがなかった。
三人は目的地であるカフェに入り、席へ案内される。客はまばら。清潔さを誇るような白を基調とした内装で、落ち着いた雰囲気の店だった。
通りに面した窓からは、メインストリートを往く人々の姿を見ることができた。
この通りを歩くような人間は、毎日清潔な服に袖を通し、好きなものを食べ、安全な寝床で夢を見られるのだろう。一方でミンクツの中には、ろくに洗濯もできず、その日の食事にさえ困る者が多く、本当に数多く存在する。
だからといって相対的に恵まれた人間が悪いわけではない。それに、戦闘班は命を懸けているとはいえ、方舟に所属する時点でイドラもここでは『恵まれた側』だ。
だが——ミンクツの中にこうした格調高いカフェがあり、同時に、少し通りを離れればうらぶれたスラムのような場所もある。現存人類に残された、猫の額のようにごくわずかな領地の中でも、経済格差は存在する。
そのことを思うと、イドラはなんだかやりきれない気持ちを感じてしまうのだ。
「わぁっ、おいしそうです!」
やがて注文したものが届くと、イドラも窓の外から意識を戻す。
「……なんだ、この異常な盛り付けは」
スイーツに特段の興味もなかったので、深く考えずソニアたちと同じものを頼んだイドラだったが、給仕の女性によってテーブルに運ばれたのは巨大な積層状の物体だった。
貴重な小麦粉をふんだんに使い、いくつも積み上げられたパンケーキ。その上から濃厚な生クリームとシロップと溶かしバターをたっぷりかけ、さらに彩りと呼ぶには過剰なほど、数種の果物やジャム、バニラアイスにチョコレートまで添えられている。
食した者の血糖値を破壊する、暴力的なまでの甘味の塔。
その異様たる威容の前に硬直するイドラだったが、女性ふたりは臆することなく、恍惚の表情で悪魔のスイーツを口に運ぶ。
「ん~、おいしい! ここのパンケーキは相変わらずね」
「甘くてふわふわで……こんなの食べたことないですっ。セリカさんは前にも来たことあるんですか?」
「うん。まあ、この通り以外に行くようなところもないからさ。方舟に入ってから、自然とこの辺のお店には詳しくなっちゃった」
「なるほど……」
メインストリートの店々を利用することは、ミンクツの住民にとってひとつのステータスだ。そのため、ある種特権的な生活を送れる方舟の職員は、人々にとって羨望の的である。
もっともこの三者のような戦闘班に限っては、戦死の危険性も当然高いため、尊敬はされても羨望はされないこともあるが。
「確かにおいしい……けど、量が殺人的すぎないか? 既に胸やけ気味なんだが」
「なんでも、人類が隆盛を極めていた時期はこうしたスイーツが流行していたらしいよ。みんなパンケーキを重ねに重ねて、写真に収めては喜んで食らってたとか」
「本当か……?」
「その頃の人類はパンケーキに相当なお熱で、主食にパンケーキを食べたあとデザートでパンケーキを食べたとか」
「本当か…………??」
信じられない思いで、イドラは食べ進めてもちっとも減らない甘味タワーを見つめる。この時代では相当に贅を尽くした食べ物と言える。こんな甘いものを主食にしていたら、いよいよ体をおかしくするのではないかと思った。
もちろん実際には、主食として供されるパンケーキはなにもこのようなスイーツの形態を取っていたわけではないのだが——イドラたちに知る由はない。
「あはは、どうだろーね。でもこんなにおいしいんだから、ホントでもおかしくないよ!」
「わたしもそう思います。この世界の昔の人は、毎日こんなにおいしいものを食べてたんでしょうか……羨ましいですっ」
「だよね。ま、灯也は甘いものはキライだーって言って、中々いっしょに来てくれなかったんだけど」
「あ……」
突然トウヤの名前が話題に上り、イドラとソニアは顔を見合わせる。
時間が止まったような、形容しがたい微妙な空気が流れる。パンケーキの熱で溶けかかったバニラアイスのところをすくって口に運ぼうとしていたセリカは、「えっ」と意外そうな声を上げて静止した。
「な、なにこの空気。ちょっとふたりとも、突然どうしたの?」
「いや……どうしたって言っても、その」
「——セリカさんっ!」
これ以上は耐えられないとばかりに、ソニアはフォークを置きながら言う。
「もう平気なふりをしなくたっていいんです……! わたしたちは仲間なんですから、気を遣って本心を隠さないでください!」
「え? ちょ……なに? ソニアちゃん?」
「大丈夫ですセリカさん。わたしとイドラさんの前では、そんな風に気丈に振舞わなくたっていいんです。泣いたって、誰にも言いませんから——」
「ええ? 泣く? あたしが??」
なにがなんだかわからない、というようにセリカは眉をひそめる。それから助けを求めるようにイドラの方を見た。
そのどう見ても本気のものとしか思えない困惑に、イドラは状況を理解する。
「——わたしがトウヤさんと過ごした時間は短いですけれど、それでもセリカさんの悲しみのうち、ほんの少しは共有できると思います。だから……」
「あー、ソニア。たぶん、僕たちの杞憂だったみたいだ」
「…………えっ?」