第百二十一話 『イドラの失意』
ソファに背を預けながら、イドラはぼんやりと壁のモニターを見つめる。
薄暗い部屋。方舟の自室。
電気は点けられていなかった。
『だから——お前に教えてやるって言ってんだよ!』
壁掛けモニターの画面から発せられる光が、ぼんやりと室内を照らす。
イドラは見るともなしにそれを見つめる。
『ナタデココは発酵食品で、ココナッツジュースにナタ菌と呼ばれる菌を加えることで我々の知る形に凝固していくことをなぁ!』
「……っ」
みっともなく涙があふれた。
流れているアニメーションは、なにも悲しい場面ではない。なんでもないシーンのはずなのに、観ているだけで自然と涙ぐんでしまう。
トウヤがイドラのために遺してくれた、『魔法塊根ネガティヴ☆ナタデココ』第三期のディスク。それを再生することを楽しみにしていたはずなのに、今では、どうしても仲間を亡くした喪失感が蘇ってしまう。
——北部地域奪還作戦から一週間が経った。
方舟は戦闘班の人員を何人か失った。チーム『片月』の万彩灯也は、その尊い犠牲のひとりだ。
そして、しかし、作戦は成功した。
方舟は数名の犠牲という代償を支払ったものの、北部地域のアンゴルモアを一掃した。旧北部地域とを隔てる防壁の損壊状況も予想の範疇に収まり、既に修復のため物資と人員が送られている。
二か月前に奪われた地域を、人類は取り戻した。完全に元通りになるまではまだ時間がかかるだろうが、北部から流入した難民の問題は、これで解決の目途は立った——
作戦は、成功した。あの日ヤナギは、そう大々的に発表した。
「なにが……成功だ!」
——トウヤは死んだっていうのに!
悔しさとやるせなさが際限なく胸の奥から湧いて出る。イドラはやり場のないそれらの感情に駆られて拳をにぎった。
『——つまり、タピオカのお前は発酵を経ていない。いくらモチモチしていようが、所詮は芋の加工品に過ぎん!』
「僕が不甲斐ないばっかりに、トウヤは……っ」
トウヤを死なせた。ソニアのことも危険に晒した。
ウラシマに忠告を受けていながら、まったく活かせなかった。
どうすればよかったのだろう?
いくら考えても答えは出ない。コンペンセイターでは死は覆せないし、クイーンのアンゴルモアを倒すにはソニアとカナヒトの助力が不可欠だった。
せめて、コンペンセイターがマイナスナイフのままであれば、空間の膨張を利用した移動で不意を突くことができたかもしれないのに。
「……たらればだな」
思考が堂々巡りに陥っていることを自覚し、イドラはリモコンを操作してモニターの電源を落とした。
クイーンのアンゴルモアは、武器を使用し、個の力が弱いという欠点を完璧に克服した。
あれは進化のようなものだと見られていた。あるいは学習、適応といった類。
なんであれあの一件は、イドラが戸惑いを覚えるには十分すぎた。
(この世界の戦場に、僕とソニアはついていけるのか?)
チーム『片月』の一員として、終末の使者を屠る。そう決めたイドラだったが、はたしてその判断は正しかったのか。
不死殺しが相手取るべきなのは、あくまで不死の怪物のみで。不死憑きでなくなったソニアは、戦場に立たない方がよいのではないか?
激化する戦場で、イドラとソニアがアンゴルモアと戦い続けるというのは、土台無理な話なのでは——
頭を振って、弱気な考えを追い出す。それから、もう昼時なことに気が付き、食堂で昼食でも摂ろうかと部屋を出る。
「ひどい顔だな」
「……カナヒト?」
たまたま通りがかったのか、それともイドラが出るのを待っていたのか。ドアの前にはカナヒトが立っていて、わずかに驚く。
「しばらく任務がなかったとはいえ、お前は部屋にこもり過ぎだ。ソニアはソニアで近頃は訓練室の方に引きこもっちまってるようだが」
「ああ……みたいだな」
最近のソニアは毎日のように訓練室に通っているようだった。
おかげで、イドラが食堂に行くときに声をかけようとしても部屋におらず、ひとりで食事をすることが増えた。
「ま、ソニアのことはいい。あっちも心配だったが、零のやつがついてるみたいだからな。それよか、お前だ」
「僕?」
「ああ、イドラ、お前だ。腑抜けたツラしやがって。方舟に来たときの覇気はどうしたんだよ」
「——、しょうがないだろ。僕も、悩んでるんだよ」
直截的な物言いと瞳に、イドラはつい顔をそらした。
確かに、北部地域奪還作戦が終わってからのこの一週間、イドラはまるで気の抜けた風船玉だった。失意に浸かり、ほとんど自室に引きこもっていた。
カナヒトはそれを叱りに来たのだろう。
「悩む? 悔やんでるだけだろ、作戦のこと。済んだことでウジウジしやがって」
「な……なんだよその言い方は」
「悔やんでるのはお前だけじゃねえ。あの作戦に参加したやつらは、みんな悔しがってる。芹香も俺も、それにソニアも。あとほかのチームの連中もな」
「だから、僕に悔やむなってのか? そりゃあ僕はトウヤの付き合いも浅い。会ってから数週間も経ってない。でも、仲間だって思ってたんだよ! これからもっと、親しくできるって——それなのにあんな風に死んで、悲しくないわけないだろ!」
「そう思うなら、腐るなよ」
「なに?」
『片月』のリーダーとして、班員であるイドラを気にかけてくれている。イドラ自身、だからこそこうして部屋の前まで足を運んで来たのだとわかってはいるのだが、ささくれ立った心は感情を抑えさせてくれなかった。廊下のただなかで、カナヒトに向かって気持ちをぶつける。
そんなイドラに、カナヒトはただ力強く、端的に返した。
「俺たちがなにもしなけりゃあ、死んでいったやつらの、死の意味が消える」
変わらず、イドラをじっと見つめる瞳。その両の目には、幾多の死を溶かした悲壮さが満ちている。
「灯也は——みんなは、アンゴルモアと戦って死んだ。それなのに、お前は戦場から逃げるのか?
「それ、は……」
深く、胸に突き刺さる言葉。失意の中、弱気の虫が顔を出し、『アンゴルモアと戦うのはもう無理かもしれない』などと考え始めたイドラにとっては、これ以上なく手痛い一言。
カナヒトの指摘の内容は、同時に彼の思想の裏返しだ。カナヒトを支える理念の一端をイドラは理解した。
この男は、死者に意味を与えるために刀を振るうのだ。
散っていった、犠牲になった者たちのために——
支払われてきた代償が無駄にならないように。だから、カナヒトは迷わない。
しかしイドラが言い淀んでいると、カナヒトの方が、どこかばつが悪そうに視線をそらした。
「悪い、忘れてくれ、考えてみりゃあお前は元々この世界の人間じゃない。お前にはなんの責任もないし、ソニアといっしょに元の世界に帰るってんならそれもいい。こっちに肉体は残すことになるが、外乱排除作戦のと同じ要領でダイブすれば地底世界には行けるはずだ。そん時ゃ、俺も柳のジイさんに談判してやる」
だが、とカナヒトは続ける。
「ソニアは、今もがんばってるよ。感じなくてもいい責任を感じて、力不足を埋めようとしてやがる。それはきっと、灯也のことも少なからずあるだろうが……一番は、イドラ。お前のためだろ」
「……え?」
自分のため。イドラはそう言われて初めて——情けないことに本当に初めて、ソニアが躍起になって訓練する理由の大きな要素に気が付いた。
イドラに、コンペンセイターを使わせた。
そのことを、ずっと気にしているのだ。クイーンのアンゴルモアに片腕を落とされ、その『補整』をさせてしまったことを。
「さっきは悪かった。こっちの世界のことまで背負えとは言わん。ただ、あの子のことだけは、お前がしっかり見てやらなきゃいけないんじゃないのか」
イドラは先日のソニアの様子を思い出す。
片腕を失い、断面から夥しく血を流し、激痛から苦しげに表情をゆがませながらも、イドラがコンペンセイターを使うことを制止しようとする姿。
あのような苦痛を味わわせ、危険に見舞わせたことを、深くイドラは悔いた。
同様にソニアもまた、その出来事を自身の失態と悔いていた。
それを、今さらのようにイドラは気付いたのだった。
(……ソニア)
ソニアはもう、不死憑きなどではない。徐々に不死の残滓は抜けていく。
ふつうの人間に、どこにでもいる幸福な少女に、戻ることができる。
それなのにソニアは、なにも言わずイドラの旅に着いてきた。
雲の上を目指す。不死の怪物を狩り、ウラシマの遺言を果たす。
不死憑きでなくなったソニアが、そんな、自分とはなんら関係のない目的を掲げるイドラの旅に同道しなければならない理由など、どこにもないというのに。