第百十六話 『悪魔祓い』
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カノンの死を見届けた二人は、彼女の言っていた、隣接する建物の地下研究所に訪れていた。
地下のため窓はなく、規模も小さくはあるが、その造りは方舟と似通っている。ただし電気設備が通っていないため、中は暗闇の迷路同然だった。施設には予備電源があるはずだったが、二十七年もの時間が経過し、それも尽きたようだ。
松明の用意をするべきだった、とベルチャーナが後悔した時には、レツェリが懐中電灯の明かりを灯していた。
「……なんです、それ?」
ピカッと輝く発光素子が、松明などより各段に強い光で迷路を照らす。
「電池式の懐中電灯だ。ミンクツで買った」
「…………なんです、それ?」
同じ問いを繰り返すベルチャーナに、レツェリはわざとらしく顔をしかめた。
「もう少し物を知りたまえよ、ベルチャーナ君」
「元司教が適応しすぎなんですよぉ」
ともあれ確保された明かりを頼りに廊下を進み、いくつかの部屋を散策する。
その中で内心、ベルチャーナは先ほどの出来事を思い返していた。
失敗した偽神計画。人でもアンゴルモアでもなくなった女。
殺してくれ、と軽々しく注文したカノンの首を、レツェリは同じように気兼ねなく刎ねた。
(顔色ひとつ変えず、誰かを殺せる。この男はやっぱり……異常者だ)
厚い金属らしきものでできた、金庫のような硬い箱に手を伸ばす、黒衣の背を見て思う。
レツェリは危険だ。
「ケイカノンの言っていたアンプルはこの中か? 保存状態がどうとか言っていたが……」
中を開く。そこには、白く輝くような氷の結晶が敷き詰められ、その上に緩衝材のようなものを挟んだ形で、数本のアンプルが並べられていた。
ベルチャーナは、冷気が自分のところにまで届くのを感じた。
電気設備は死んでいる。そもそも、その箱——よくよく見れば携行するためか前面には取っ手がある——には電源プラグも付いていない。
だというのに、二十七年もの間放置されていたはずの箱には、真新しく見える氷が敷き詰められている。
「この氷の輝き、これは——聖封印か!」
「え……!?」
この秘密は、カノンもおそらく知らなかったことだろう。さしものレツェリも驚愕の声を上げ、ベルチャーナも息を呑む。
地底世界における512年前。第一次外乱排除作戦のため、地底世界に派遣されたエージェント・羽生利一——英雄ハブリが、ロパディン渓谷の奥地にて原初のイモータルに行った措置。それが聖封印だ。
聖封印はアイスロータス、つまりは32号・凝華連氷のコピーギフトで行われた。
結果としては、それは一時的にヴェートラルの行動を阻害したが、イモータルの宿す不死を覆せたわけではない。現実世界におけるコピーギフトの抽出を乱されていた問題については解決には至らず、のちに浦島零が二人目のエージェントとして55号・ワダツミを携え現地入りした。ただそれでも、地底世界の人々がヴェートラルの聖封印によって救われたのは事実だ。
「ええと、それって——アイスロータスと同じものが、この世界にもあるってこと? ですか? あ、もしかして、方舟のコピーギフトっていうやつ」
「いや……アイスロータス自体が、誰にでも扱える天恵だった。あれこそがコピーギフトだ。だが、あれは英雄ハブリの死後、デーグラムの聖堂で保管されている。偽神計画が実行された二十七年前ならば私もそれを確認済みだ。となるとやはり二本存在する——いや」
箱を開けたまま、レツェリは勘案する。
「アンゴルモアが現れたのは、資料によれば64年前。コピーギフトの抽出が可能になったのはその後……しかし512年前の英雄ハブリがコピーギフトを有していたとすれば。この世界と我々の世界は、時間の流れが違うのやもしれん」
「……頭がこんがらがってきたよぉ。結局、どういうことなんですか?」
ため息をつくレツェリ。
偽神計画が実行されていたのは、この世界の時間で二十七年前だ。そして、外乱排除作戦で羽生が地底世界にダイブしたのが十六年前。
つまり、地底世界に凝華連氷が持ち込まれる前に、アンプルの保管のためにその特殊な製氷能力が利用されていたのだ。原初のイモータルを封じたものに比べれば、ごくごく小規模な聖封印。
もっともそれはそれで、凝華連氷の製造番号が32号であるというのは年代的な矛盾が生じる。これは凝華連氷が偽神計画という極秘の計画に使用されたために、外乱の存在によってコピーギフトの抽出が阻害され、戦闘班に貸与されるコピーギフトの数が足りなくなり始めるまで、製造を秘匿されていたためだった。
「アンプルの保存状態は良好らしい。過ぎたプレゼントだ、ありがたく持ち帰らせてもらおう」
「その薬剤——クイーンの女王核と一体化するためのものですよね。それで偽神計画を完遂するつもりですか?」
「半分、と言ったところだな」
「……アーコロジー。アンゴルモア統率能力で、楽園を築くつもりですか?」
「それは違う。制約下の楽園なぞ、檻の中と同じだろうよ」
「じゃあ……なんで、その薬剤を持ち帰るの」
「さてな。トビニシマルオに渡せば、壁の補修にでもうまく使うやもしれんぞ?」
「真面目に答えて!」
「答える必要がどこにある?」
にらみ付けるベルチャーナを、レツェリは冷淡に見据える。
コピーギフトを使用したポータブルフリーザーのドアは閉められたが、それでも部屋の空気はしんと冷え、緊張感が満ちていく。
ベルチャーナは、エントランスの白骨死体を思い出す。カノンのいた広間にたどり着くまでも、ちらほら同じような死の痕跡があった。
ああしたものが、地域のあちこちにあるのだろう。
地獄。幼少期、イモータルに村を襲われたベルチャーナも、同じような光景を視た。
エクソシストでありながら信心などない身だが、人らしい道徳心は備えている。あのような地獄は、あってはならない。
そして——レツェリが今、手にしようとしているものは、その地獄を形成した元凶だ。
「人を守る気がないのなら——人を滅ぼすつもりなの? レツェリ元司教!」
「私に言わせれば、安穏とした人々すべてが、自ら滅びたがっているようにしか見えんがな。そこへいくとこの世はまだいい。方舟は、まさしく滅びの運命に抗う意志を持っている。すべての者がそうあるべきで、仮にアンゴルモアがおらずとも、人は同じ意志を持つべきだ」
「はぐらかさないで! レツェリ元司教……やっぱりあなたは見過ごせない。放っておけば、きっと色んな人を脅かす!」
「だとしたら、どうだと言うのかね」
低い声で真意を問う。レツェリの眼窩にあるのは、ほとんど万物を断つに等しい天恵だ。
道中のアンゴルモアが切り刻まれる様を見て、ベルチャーナもそれがわかっている。
だとしても——
悪魔が相手であっても、引けない一線がある。
(勝算は、わたしにもあるはず!)
ベルチャーナは右手の薬指に意識を集中する。
その細い指には、黄金色の指輪がはめられている。かつては彼女の故郷に降り積もる雪のような、銀の色を湛えていたそのヒーリングリングだったものは、今や世界の移動に伴う順化で大きく性質を変じさせている。
レツェリの手の内は割れている。
対し、ベルチャーナはその新たな天恵の力を、まだ誰にも見せていない。
「レツェリ元司教……楽園が檻と同じなら、あなたには似合いだよ。——来て、黄金連環!」
「単独で私を止めようとは、甘い見通しで行動をするなよベルチャーナァ。来い、その甚だしいほどの思い上がりを正してやろう……!」
明かりが床に落ち、二者の影を壁面に写す。
既に生物の消え去った滅びの地。人知れず、地底からの来訪者たちが衝突する。
その始まりとして、重なる鎖の音が鳴り響いた。