第百十五話 『退屈なエンドロールに別れを告げて』
「さっきの、『ちょっとした手違い』の原因よ。柳景一——方舟の副総裁……いえ、総裁の松田もあの時に殺されてたから、今はあの男が総裁なのかしら? なんにしろ、あいつに横やりを入れられたの。まったく、どういうつもりなのかしら! 今思い出しても腹が立つわぁ」
「ヤナギ……ああ、顔は知らんが話に聞いたことはある」
頬を膨らませ、カノンはぷりぷり怒ってみせる。その様にも、平然とうなずくレツェリにも、内心でベルチャーナは困惑していた。
(当然のことみたいに流してるけど……この女、信者を『アセンション』させるために、地域丸々をアンゴルモアに襲わせたってことでしょ? そんなの——)
——イカれてる。
それとも、もしかすると、それは彼女の善意でさえあるのだろうか?
黒神会の信者でない人間たちも、アンゴルモアに襲わせてやることで、同じく次元上昇させてやる、という。
アンゴルモアに殺されることで誘われる、永遠の幸福に満ちた波動空間。そんな——なんの証拠もない、論理に欠けた、荒唐無稽で、馬鹿馬鹿しい虚妄!
だが誤解を恐れずに言うならば、あまねく信仰とはそういうものだ。存在の証明ができないものを信じ込むという時点で、そこには論理を越えた確信がある。
「先ほど言っていた、肉体を核に適応させるよう調整するとは、具体的にどうする?」
「んー? へえ、計画に興味があるのね? どうしようかしら。ただで教えてあげるっていうのもねえ。ワタシたちの努力の結晶とも呼べるものだし」
「どうせ技術的な部分はすべて方舟の担当だろう。私と駆け引きをするつもりか?」
「あら、バレちゃった。実は、ひとつだけお願いがあるのよねえ。それを聞き入れてくれるなら、ワタシに話せることはなんでも話すわ」
「内容次第だなァ、それは」
「大丈夫、あなたならそう難しいことじゃないわ。そう、ほんのひと手間……。だから、先に約束さえしてくれればそれでいい」
「ふむ。それなら、構わん。約束しよう」
間を置かず、了承したレツェリ。
ベルチャーナは、『最悪話を聞いた後で反故にしてもいいと思ってる顔だ』と看破した。
「ありがとう、赤い目のひと。ふふ、じゃあ早速あなたの疑問に答えてあげる。肉体の調整は簡単よ。薬品ひとつ、体に打てばこと足りるわ」
「薬品? ……当然、開発は方舟か。簡単なのは貴様だけだろう」
「そうねえ、ふふふ。アンゴルモア研究部を北部に移して、医療部の人たちも何人か呼び寄せて……大変だったみたいね? 研究部の方々はきちんと次元上昇できたみたいだから、よかったわあ」
なにひとつよくはない。そう思いつつも、ベルチャーナは口を挟まなかった。
今はそれよりも、レツェリの方に集中する。
(偽神計画のことを聞き出して……どうするつもりなの?)
恐れに似た懸念がベルチャーナの胸中で湧き上がる。
底知れなさで言えば、カノンもこの男も変わらない。そして重要なことだが、身動きの取れないカノンと違って、レツェリには無事な二本の足がある。
自由——
今や、拘束は無に帰した。
「薬品アンプルなら、隣接する研究室——植物プラントに扮した施設の地下にまだあるかもしれないわ。もっとも、保存状態までは保証できないけれど。向こうはワタシもよく知らないし」
「方舟の施設なら、残存する資料にも目を通したい。のちほど立ち寄ってみよう」
「好きにすればいいわ。咎める者など、もういな……あっ、アンゴルモアがいたわね」
「問題ない」
「お強いのね? 素敵だわ。もっとも、ここまで来られる時点で普通じゃないけれど。てっきり最初は方舟の狩人たちが訪れたのかと思ったわ。でも、そうでもないみたいだし」
そこで、カノンはベルチャーナへと視線を移す。
どんな魔物を、そして死を忘却した怪物を前にしても怯まぬベルチャーナが、思わず身じろぎをしそうになる。
吸い込まれそうな青い瞳。それから白い髪と肌……それらは、なにも女王核の中身を取り入れたことによる影響ではない。彼女の、ケイカノンの天性のものだ。
アルビノが時として神聖視されるのは、歴史上珍しくもない。
「そちらの綺麗な髪のお嬢さんと併せて興味はあるけれど……今のワタシには、すべてが過ぎたこと。ごめんなさいね。今となってはぜんぶぜんぶ、映画の後のエンドロールみたいなものなの」
「エンド、ロール?」
「知らないのかしら。まあ——言ってしまえば余分なものよ。飛ばせるなら飛ばすし、劇場で観ていれば席を立つ。少なくともワタシはそうするわあ」
なにを言っているのかわからず、ベルチャーナは沈黙する。
反面、同じく映画もエンドロールも馴染みはなかろうが、含意を汲み取ることはできたのか、レツェリは「なるほど」と肩をすくめた。
「今は、席を立ちたくとも立てない状況か。まったく哀れだな」
「恥ずかしながら、そういうことになるわね。三十年ほどかしら? もうずっと、つまらない画をここで延々と見せられている……うんざりなのよねえ。だから、あなたたちが来てくれてとても楽しいわ。久しぶりですもの、人を見るなんて」
カノンの人生は二十七年前に終わっている。ここにいるのは、死体と同じだ。
無論、実際に死んではいない。だが、今の彼女が生きていると言い切れるかは怪しい。
思考はできる。話もできる。意味ありげに笑みを振りまくことも、ちょっとしたジョークで場を弛緩させることもできる。
しかしその体は、多くの不純物と癒着し、暴走した女王核によって生まれた樹木と固着して、身動きを取ることができない。自らアンゴルモアを招き入れ、崩壊したこの旧北部地域から——誰ひとりいない不毛の地から動けない。
もはや彼女は、人間でもなければ、アンゴルモアでもない。そして、自分の意志で動くこともできず、クイーン由来のアンゴルモア統率能力も核を取り込んだ一瞬のみを除き、二十七年の間使えた試しがない。
ただそこにあるだけの樹木と同じ。けれどやはり、それも主観的には正確ではない。
植物は痛みを感じるだろうか? 意識を持つだろうか?
カノンはこのなにもないドームで、二十七年、代わり映えしない景色を見つめている。
黒い樹木と化した体は老化せず、アンゴルモア同様、自然に死を迎えることはない。
つまるところ。外部からの干渉がなければ、彼女は星が終焉を迎えるその日まで、『退屈なエンドロール』を見続けるはめになるだろう。
「約束通り、願いを叶えてくれるのよね? 赤い目のあなた」
「言ってみろ。中々に有益な時間だった」
「それはなにより。じゃあ、殺してくれる? アンゴルモアを殺す手段があるのなら、きっとできるわよね?」
微笑み交じりに、食堂で焼き魚定食を頼むような気軽さで、カノンは死を懇願する。
その異常さにベルチャーナはぎょっとしたが、レツェリに驚いた様子はなかった。
「やはりか。その姿、一度トビニシマルオに見せてやりたかったが、仕方がないな。ククッ、さぞ驚いた顔をしただろうに」
「トビニシ——ああ、丸夫くん? 懐かしいなぁ、すっごく熱心にワタシを見つめてくる男の子。あの子は最後の方で逃げちゃったんだよねえ。そっか、あの子がここのことを教えたんだぁ……ふふっ、本当に懐かしい」
「どうする、やめておくか? 私としてはどちらでも構わん。が、ここに来ることはおそらくもうない」
人間味のない青い両眼が、赤い左眼の男を視る。
「やって。言ったでしょう? もううんざりなの」
「そうか。では、殺す」
レツェリは無感動に歩を進め、黒い幹に固定された女を見つめ返す。
その赤い目に映る視界に、ひとたび空想の箱を重ねれば、それだけでカノンの命脈は断たれるだろう。
だが、その前にひとつだけ、レツェリは問いを重ねた。
「ところで貴様、次元上昇がどうだとか、他人に信じ込ませるのはいいとしても、貴様自身は本当に信じていたのか?」
「……。ふふ」
無表情の口元が歪み、微笑みを浮かべる。神仏のそれに似て。
言外の返答を感じ取ったのか、レツェリは珍しくも驚いたように目を見開く。
「——、ハッ」
それから、呆れを込めて笑ってみせた。
万物停滞が起動する。
同じ川の流れに、幾度となく身を置くための鍵。生を受けた者すべてが起源的に約束を交わす完結を、永遠の停滞によって否定するための階。
果実が枝から落ちるように、カノンの生白い首が床に転がった。もはやその断面からは血液さえ噴き出ない。
かくして、ようやく。
女は劇場の席を立った。