第百十四話 『人でなしの女』
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翌日、いよいよレツェリは旧北部に向けて出立する。
ベルチャーナはもちろん同道するが、旧北部は二十七年前から人間の領域ではないし、加えて手前の北部地域も二か月前の第二次北部侵攻でアンゴルモアの巣と化した。そのため、流石に今回ばかりはアマネをついてこさせるわけにはいかず、トビニシとともに留守番になる。
「そろそろミンクツを出る——ベルチャーナ君はまだ奴らの庭に踏み込んだことはないのだったな。外へ出れば、またぞろ怪物どもの闊歩する危険地帯になる。無論、わざわざベルチャーナ君を守るつもりもない。せいぜい奮闘することだ」
「はいはい、わかってますよー。聖水の材料がここじゃ手に入らないのが、ちと厳しいですけど」
「なんだ、いきなり言い訳かね? フ、いい機会だ。元部下の腕前をチェックさせてもらうとしよう」
ベルチャーナは心底嫌そうな顔をしたが、レツェリはやはり一顧だにしなかった。
しかしいざアンゴルモアのテリトリーに踏み込んでみれば、ベルチャーナの出番はほとんどなかった。寄ってくる終末の死者は、レツェリが視線を向けるだけで両断される。
守るつもりはないと言ったが、攻撃こそ最大の防御とはよく言ったものだ。結果的に、ベルチャーナには身を守る必要性さえ生じない。
遭遇したアンゴルモアとの戦闘が一瞬で終わるのに加え、たた二人での行軍であるため、その行動は身軽だった。不要な戦闘は避け、崩れた建物の陰を通り台地を迂回し、最小限の接敵で北上する。
「——実のところ、後の展開を考えるとだ。アンゴルモアはなるべく殺しておいた方がよい気はしている」
「え? なんですか、いきなり」
「思うところがある。巣をつつき続ければ、いずれ女王蜂も外へ出てくるだろう。だが、いかに強力な天恵がこの眼窩にあろうと、所詮私は個人に過ぎん。露払いは方舟の面々に働かせるとしよう」
「いや、元司教がなにを企んでるかは知りませんけどぉ、そっちじゃなくって。突然話しかけないでほしいです。友達じゃないんですから」
「……雑談に興じることさえ嫌かね…………」
敵を避けるルートの選定はレツェリが担当した。祓魔師たるベルチャーナ顔負けの精確な判断力だったが、レツェリ自身旅の経験は豊富であるため、不思議ではない。
やがて二か月前の侵攻で崩れた防壁を越え、旧北部地域へとたどり着く。その先ほどまでとかけ離れた荒れ様は、二十七年という年月を如実に表していた。
砕けた地面の隙間から、伸び伸びと顔を出す草。建物の多くは崩れ、その上で植物に覆われ、灰の街並みは順調に緑に染められつつある。
その光景は、世界の縮図そのものだ。
文明が自然へと還る途中。星の意志により、地球の表面としてあるべき姿に戻るさなか。
もう百か二百年もすれば、街並みは完全に緑に溶け込んで、人類の足跡など傍目からわからないほどに薄まり、消えてしまうだろうか?
その時——この地上に、人類はただのひとりもいなくなっているのだろうか?
「黒神会の本部の場所は知ってるんですか?」
「トビニシマルオから聞いている。どの程度無事かは知らんがな」
ともあれ、繁茂する植物は、身を隠すには好都合だった。先ほどまでと同じように、なるべく死角を活かして目的地へ進む。
そして見えてきたのは、なんらかの施設が隣接した、ドーム状の建物だった。
「……あれは、なんだ? 黒い……樹木、か?」
「枝先のように、見えますねぇ。でもあの色——まるでアンゴルモア」
ドームの天井が既に砕けていて、そこから黒い枝先のようなものが覗いている。
ソレがなんなのか。確かめるには、中に入るほかあるまい。
「行くぞ」
建物に入る。エントランスにはカウンターがあって、その向かいにはいくつかのソファが並んでいる。シックな色合いで統一された備品や床材は、まるで胡乱な宗教の本部ではなく、洒落たベンチャー企業かどこかのよう——だった。
往時は、そうだったのだろう。
今では見る影もなく、ガラスは割れカウンターは砕かれソファは裂かれ、床には白骨化した死体がまばらに転がっていた。倒れ方からして、建物の外へ逃げようとしたところをアンゴルモアに殺されたのだろう。そばには黒く変色して久しい血痕も残っている。
(こんな、地獄みたいなのが……この地域一体に広がってるんだ)
凄惨な過去の展示物に、ベルチャーナは眉根が寄るのを止められなかった。
第一次北部侵攻——
二十七年前の悪夢。多くの人間が、あの一件で未来を奪われた。
トビニシの推察通り、その原因が黒神会と方舟による、合同計画の失敗によるものだったとすれば。その主導者は、間接的な人類の殺戮者だ。
白骨死体になど目もくれず先へ進むレツェリ。ベルチャーナは、後を追う。
奥へ、奥へ。ドームの中心に向け、いくつもの通路を渡る。
その最中、またいくつかの白骨が散らばり、さらには当時からずっと建物の中を巡回していたのか、数匹のハウンドとも遭遇した。もっとも、今さら脅威にもなるまいが。
そして、中心部の広間に出た。
宗教施設の意匠と研究所の趣が融合した、奇妙な空間。そこへ、天井の割れ目から、さらに曇天の切れ目より差し込むごくわずかな陽の明かりが差し込んで、中心にある樹木を照らしている。
「——なに、あれ。ううん……誰?」
そう、事前の見立て通り、それは黒い色をした巨大な樹木だった。巨大な幹から無数の枝を伸ばし、壁に触れるほど大きく広がっている。
その周辺には、まるでその樹に生命力を分け与えられているかのように、緑の草たちが生い茂る。また、天井の破片らしき建材も付近に散らばっていた。
「わぁ、驚いた。まさか人が来るなんて!」
「なんだ、貴様は?」
そして、太い幹と一体化するようにして、ひとりの女がそこにいた。
まるで磔刑に処されたかのような体勢。ただし、下半身はもう樹木と完全に溶けあっていて、肩から背中、腰も幹から剝がれないらしい。
しかしともすれば、そんな肉体の異常性よりも、顔かたちの方にこそその女の妙はあった。
妙——それも、玄妙。
面貌それだけで人の上に立つことを宿命付けられて生まれてきたような、輝きを放つ顔をしていた。
視線を引き付ける真っ白な髪に、透き通るような肌——そしてガラス玉じみた青い瞳。目だけではなく、眉や鼻、唇といった顔の部品すべての造形とその配置において、なんらかの細工、何者かの作為を思わせるほどに『美』を帯びている。恐ろしいくらいの美しさ。
過ぎた美貌は、恐怖をも喚起させるのだとベルチャーナは初めて知った。
「あら、ワタシの名前を知らないなんてね? ショックだわぁ。これだけ黒神会を大きくしたっていうのに、二、三十年も経てば世間はそんなものなのかしら。うーん、これぞ盛者必衰、万物流転ねえ」
「……ケイカノンか」
「えっ? それって、マルオちゃんが言ってた? そ、そんなわけないですよ。だってその『カノンサマ』は二十七年も前に死んだって、マルオちゃんが」
「逃げ出した奴は、ことの顛末を確認したわけではない。……偽神計画は本当に失敗だったのか? あれはおそらく、滅んだこの北部でただ独り生き残ってきたのだ。二十七年もの間、あの黒い樹木に取り込まれながら」
レツェリの声には、少なからず好奇の色がにじんでいた。異常なその女に——カノンに躊躇なく近づいていく。
恐れ知らずなその背に、しばし戸惑ったが、迷った末にベルチャーナもその後を追った。
カノンは二者をその青い瞳に映しながら、くすくすと笑う。超然的な容姿と雰囲気なのに、その笑い方にはどこか稚気のようなものが混じる。
「取り込まれながら、というのは語弊があるわ。ワタシが体内に取り込んだのよ、この黒い樹を——クイーンのアンゴルモアを」
「ふむ……女王核の移植というやつかね?」
「あら」
ころころと表情を変えるカノン。今度は、大きな目を丸くして、驚いたような顔をした。
「その方法は、計画の途中で変更されたものだわ。肝心なのは核の中身だもの。まず肉体を核に適応できるよう調整して、それから中身を注ぎ込む。そうすることで、体の中から無理なく——」
「このような愉快なオブジェになる?」
「——もう、いじわるな人ね。ええ、あなたの言う偽神計画——位相固定波動覚醒計画は失敗した。ちょっとした手違いで、核の中身を取り込む際、周囲の植物を巻き込む形になってしまったのよ。隣の研究所が見かけ上は植生プラントだったのが災いしたわ」
失敗だと言いながら、カノンに当時を悔やむような様子はない。
それもそのはずだ。彼女は、最も大切な、一番の目的だけはしっかりと果たしていたのだから。
「でも、樹木になってしまう直前だけ、アンゴルモア統率能力が機能したの。だから、同胞たちはしっかり次元上昇させられた。よかったわぁ。ワタシは見ての通り、取り残されてしまったのだけれど……」
「やはり、二十七年前の第一次北部侵攻は、貴様の手引きだったわけだ。身に宿したクイーンの力を使い、ミンクツの外からアンゴルモアを呼んだ……相当な広範囲に作用していたと見える」
「ちょ——それ、話が違うじゃん! 偽神計画は、そのクイーンの力でアーコロジーっていう平和な場所を造るためのものだったんでしょ? なのにそんな、あっさりアンゴルモアを呼び込むなんて……」
「仕方ないじゃない、イレギュラーでこんな風になっちゃったんだから。女王核の中身は生命と癒着する性質を持つ。みんなを次元上昇させるには、あの瞬間しかなかったの。うーん、そりゃあ方舟には悪いけれど——先に裏切ったのは向こうなんだし、お互い様よね?」
「裏切り?」
レツェリは興味深いとばかりに聞き返す。