第百十三話 『パンタレイ』
あの、温かな居場所のなにもかもが消えてしまった寂寥感を、孤独と呼ぶのだろう。
空になった器に、当時のベルチャーナは怒りを注いだ。復讐心で心を満たし、一心不乱に訓練に打ち込んだ。その結果、ミロウと並ぶほどの優秀なエクソシストになれたのだ。
だが振り返ってみれば、その修練の過程はすべて、孤独を忘れ去るためだったのかもしれない。
そしてイモータルを葬送し続けると、やがてそれが本当に復讐として成立しているのかと疑問を抱き、真にイモータルを殺すことのできるイドラが現れ、嫉妬を覚えた。だがその嫉妬も、恋の火が燃えるための下地になった。
箱舟を目指す旅。ソサラの町の北西、広大なハンドク砂漠を行く夜——
藍色の夜空で輝く月明かりのもと、笑いかけてきたイドラの顔を、ことあるごとに思い出す。
(あの時、イドラちゃんはわたしのギフトを褒めてくれた。傷を治して、ほっとしたって言ってくれた……)
おそらくイドラ本人もさして意識していないような、ごく些細な出来事。
だとしても——ベルチャーナの心を射止めるには、十分すぎた。イモータルへの報復を誓い、なのに手にしたギフトは傷を癒すしか能のないハズレで、何度も世界の理不尽を嘆いたベルチャーナには。
たった一度、ほかでもない不死殺しの力を携えるイドラに、自らのギフトを肯定してくれただけで。ベルチャーナは、歩んできた道のすべてを認めてもらえたような気がしたのだ。
(……でも、今のギフトはどうなのかな。イドラちゃんが見たら……残念に思うのかな)
順化により、銀のリングは既にない。世界を越えて、天恵の性質は変化した。
実体なき地平の世界ならいざ知らず、この宇宙では、無条件に傷を消すような力は認められないのだ。あらゆる成果は、痛みを伴ってこそ得るべきものであるために。
「ベルチャーナさん? どうしたんですか、ぼうっとして」
「えッ、あ——ああ、うん、ごめん。えっと、アマネちゃんのことだよね……ベルちゃんも小さいころに家族を失くしてて。その経験から言うと、あの子にもなにか、支えになるものや出来事があるといいんだけどねぇ」
物思いに耽っていたせいでトビニシに不審に思われ、慌てて返答する。
孤独ではなく恋患いに罹ってしまい、今のベルチャーナはトミタの家にいた時からこういうことが何度かあった。
「支え、ですか。そうですね……その通りだと思います。支えと言うのなら、最たるものが信仰だとは思いますが。もうこの世に、信じられるような教えはありませんからねえ」
「あれ? マルオちゃんは、信仰はもうこりごりなんじゃないの?」
「その呼び方は、少々気恥ずかしいのですが……いえ、わたくし個人としてはもうなにかを信じるのは御免ですが、同時に、多くの人間にとって信仰が救いになるはずだとは今でも思ってますよ。黒神会は壊れるべくして壊れた集まりですが、教えに殉じた人たちはきっと幸福のまま死ねましたから」
「救い自体は本物だった、って? だったらマルオちゃんは、やっぱりあの頃に戻れたらって思うの?」
「難しい問題ですね。盲目的になることで得られる救いは、本当の救いではないと今では思います。しかし……それは引いた目線からの話であって、痛苦が和らぎさえするのなら、主観的には救いと呼んで差し支えないのかもしれません」
「つまり?」
トビニシの言葉になんだか興味を引かれ、ベルチャーナは先を促す。
黒神会の教え。アンゴルモアに殺されることで、『波動空間』に『次元上昇』する。こうして波動覚醒者になることで、高次元の中で永遠の幸福に浸ることができる。
そんなものは、まったくもって論拠を欠いた愚昧極まる世迷い言だ。
だが、信じる者は救われる。
本当にその教えを信じていた者は、終末の死者に裂かれ、千切られ、殺される瞬間にも、未来への希望を抱いていたに違いない。
信仰を棄てたトビニシが、そのことについてどう考えているのか、ベルチャーナは純粋に気になった。
「わからない、ですね」
「えっ」
だから、肩透かしのようなその答えには驚いた。
「二度と信仰の輝きに目を奪われるまいと、今はこうして思っていますが、もしここに花音様がいて、あの頃と同じ顔で微笑んで、同じ声でわたくしを呼んでくれるなら。わたくしは……もしかすると、抗えないかもしれません」
「ええー? なんだかどっちつかずだなぁ、それって」
ベルチャーナの正直な感想に、トビニシはいつものように力なく笑う。擦り切れたものを思わせる、諦めたような笑み。
「ええ、二十七年前に偽神計画から、黒神会から——なにより花音様から逃げ出して以来、わたくしは迷ってばかりです。しかし」
言葉を区切ると、劣化した教会の内装を眺めるように、軽く頭上を仰ぎながら続ける。
「人の多くは、迷える羊なんですよ。弱くて、迷ってばかりの。だから、迷いない誰かの、道先を示すような強い輝きに魅せられる」
人を導く者とは、本質的に輝いているものだ。夜空に浮かぶ星のように。闇を照らす篝火のように。
あのイドラもまた、導きに従って旅をした。輝きに魅せられたひとりなのだ。
だがトビニシは、そうした光のすべてを、人を騙す幻惑であると否定した。
「世に絶対の答えなどありません。それは、同じ川の流れに二度は身を置けないのと同じように、ごく当たり前の摂理です。そのことを強く意識していなければ、人は皆、自身の認識に安易に蓋をしてしまう」
——目を焼くような輝きに、自ら盲いることを選んでしまう。
トビニシの言葉には含蓄があった。二十七年の歳月を経ただけの、人生の重みがあった。
「……そうわかっていながら、その『カノンサマ』が現れたらついてっちゃうの?」
「はは。やっぱり、一等弱い人間ですから。わたくしは」
開き直りにも似たその物言いに反し、表情に陰はない。
「すみません、わたくしのような落伍者が語りすぎました」
「ううん。マルオちゃんて、色々考えてるんだね。ベルちゃんは……あんまり深く考えないタイプだから」
だから、今、考えることが多くて苦悩している。いつも聡明で決断力のあるミロウがそばにいてくれたことが、どれだけ助けになっていたか、今さらにしてベルチャーナは思い知っていた。
「あなたとレツェリさんがどういう関係で、どういう経緯でここへ来たのか、深くは訊きません。ただ、心配くらいはさせてください。まあ、レツェリさんは、それさえ不要だと言い捨てそうですけれど……」
「……確かに」
苦笑を浮かべる。
レツェリは遠からず、北へ出向くつもりだろう。ベルチャーナもそれについていかなければならない。
あの男に、ついていかなければ——
ついていかなければ、どうなるというのだろう?
決まっている。レツェリは、イドラの隣に立つ機会をくれると、確かに言った。
「——」
違う。そうじゃない。そうではない。
ベルチャーナは思い直す。自分は、あの危険な男を野放しにしないためにここにいる。監視役なのだ。
ああ、けれど、だけれど。この恋を叶えるには、イドラの隣にソニアがいてはダメなのだ。
背反する二律。その間で、心がくらくら揺れている。
「ベルチャーナさん?」
「——なに?」
また物思いに耽ろうとしていたところで、トビニシの呼びかけで現実に引き戻される。
「どうか、お忘れなく。目を奪うような絶対の答えとは——例外なく、欺瞞なのです」
それは一種の悲観主義だった。本当に神がいて、それがトビニシに救いの手を差し伸べたとしても彼は、『神はいないし、いたとしても自分なんぞを救いはしない』と決めつけ、手を払ってしまうだろう。
しかし、その悲観主義こそが、二十七年の間この男を守ってきた。精神を支え、自立させてきたのだ。
先導者に目を奪われ、心を奪われ、やがて命までも奪われてしまった、羊たちの群れとは違って。
「……う、うん」
その男の、威圧感とも違う奇妙な佇まいに、ベルチャーナはついうなずいたのだった。