2 闇
どこかで聞いたことのある声だった。
その声がどこから聞こえてきたのか瞬時に判断出来なかった優姫は、左右を見回した。しかし震える視界には何も映らない。 ただいつも通りの景色が広がるだけだ。
「目を、閉じていろ」
再び降ってきた声。今度ははっきりと、その主を捉えることが出来た。声を発したのは、目の前に立つ黒マントの人間。
その声に、優姫は心に何か引っかかるものを感じた。しかしそれが何なのかは分からなかったし、今は悠長にそれを考える時間はなかった。
そして、男の黒マントがうごめくと同時に優姫は目を見開くことになる。
目の前に立つ黒マントの人間が、マントを払い取り出したのは――剣。まるで外国の映画に出てくるような細身の剣を、その人間は脇に携えていた鞘から引き抜いたのだ。
夜の闇の中で鈍く光るそれを見て、優姫の心臓は跳ね上がった。
終わりだ――そう思い、目を閉じた。同時に鈍い音が辺りに響いた。
「………………?」
しかし、終わりは訪れたりしなかった。覚悟していた、痛みもない。
優姫は、おそるおそる目を開けた。そして顔を上げる。
黒マントの男は、刃を振り下ろしたまま微動だにしない。その足元――つまりは優姫の足元ともいえるのだが――金色の大蛇の姿はない。そのかわりに、黒い灰のようなものが辺りに散乱している。
優姫は、足にまとわりつく灰を払おうとして、すっかり腰が抜けてしまっていることに気が付いた。足に力が入らないのだ。
「……立てないのか」
三度、黒マントの男は声を発した。
この時やっと優姫は、心に引っかかっていた靄のようなものが晴れていくのを感じた。
引っかかるもの――どこかで聞いたことがある声だということ。そして瞬時に、優姫はその声をいつ、どこで聞いたのかを思い出した。
思わず優姫は黒マントの男の姿を凝視した。
そんな、まさか。
でも、確かに――。
「あ、なた……その声は……」
何度も、何度も聞いた。
優姫が恋い焦がれる、その人の声。
夢の中に現れる理想の人の声。
「レオ……?」
優姫の声がうわずった。
それが先程までの恐怖の為なのか、それとも夢の中の彼の人に出会えたからなのかは定かではない。
驚きと同時に足が動く。なぜ今まで動かせなかったのか不思議なくらい、すんなりと優姫は立ち上がった。もしその光景を香苗が見れば間違いなく、現金な足ね、と言うことだろう。
そのまま優姫は手を伸ばし、一瞬怯んだ黒マントの男のフードを剥がした。
優姫の頭からは、先程まで感じていた恐怖などどこかに行ってしまったようだった。
はらり、と男のフードが落ちる。
現れた男の顔を見て、優姫は目が落ちる程に見開いた。鼓動が早まる。
艶のある黒髪。端正な顔立ち。瞳の深い緑色は、何と言い表せばいいのか。
しかし、ひとつだけ確信していた。目の前にいるこの人のことを、私は見たことがある、と。
「……信じられない」
呟いた優姫の顔に、男は真っ直ぐな視線を向ける。そう意識した途端に、顔がかあっと熱くなっていく。
そんな優姫をよそに、男はマントを翻し、剣を鞘に収める。その所作は、優姫の目には優雅に映った。
「あなた……もしかして――」
言葉が続かない。
聞きたいことは沢山あるはずなのに、言葉にならない。
ありえないことだ。
そう頭の片隅で冷静に考える自分がいた。しかし同時に、そんなありえない現実を優姫は受け入れようとしていた。
「――――レオ?」
意を決して、尋ねる。
火照る頬を押さえながらの優姫の問いに、男は答えずに目を細めた。しかしそのことがより一層、優姫に予感が正しいものであることを感じさせた。
夢に出てくる理想の青年。その彼が、現実に現れた。しかも、自分の窮地を救ってくれた、と。
「嘘、みたい――」
そこまで言いかけて、優姫は自分の頬をつねった。夢かもしれない、そんな不安がよぎったのだ。
しかし、それは杞憂に終わった。つねった場所がじんじんと痛む。少し強くやりすぎた、と優姫は後悔した。
一瞬、男が口角を上げる。
しかし、それは夢で見ていた笑顔とは違い、どこか儚げだった。男のそんな顔を見て、なぜか優姫の胸は痛んだ。
どうしてそんな顔をするの、そう尋ねようとした瞬間だった。
辺りは突如暗闇に包まれた。すぐ目の前にいたはずの青年の姿すら見えない、完全なる闇だった。
「な、何!?」
青年の輪郭はおろか、自分の体までも紛れてしまう程の暗闇。そこは光も、音も、生命すらも存在しない世界のように感じた。
何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。
無、といういまだ経験し得ない感覚に、優姫の恐怖が募った。
「や、やだ……っ、何なの!?」
声を上げても、両手を振り回しても、何に触れることはない。
「や……、いやあああっ!」
優姫は絶叫した。
そのまま、意識はさらに深い闇へと落ちていった。