1 平穏に迫る影
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「ふうん、それで?」
ざわめく教室の窓際、最後尾の席にすわるショートカットの女生徒が気のない返事をした。その一つ前の席の、髪を高く結わえた女生徒が反論する。
「だーかーらー……」
声を張り上げようとした少女の口を、呆れ顔で押さえたショートカットの少女が言う。
「はいはい、分かったわかった。夢に出てくる人がかっこいいってコトでしょ? 優姫」
分かればいいとでも言うように、結わえた髪を大きく上下に揺らしながら、相模優姫は頷いた。
それを見ながら呆れ顔でいるのは、優姫の親友でもある古館香苗だ。
「あー、香苗にも見せてあげたいよ、私の夢の彼。ホントにホントにかっこいいんだから!」
そう言い放つ優姫の目は輝いている。まるで恋する乙女の目だ、と内心思いながら香苗は嘆息した。
「もう聞き飽きたし」
うんざりといった様子で肩をすくめてみせる香苗。しかし、優姫はそんな香苗の様子を意に介することもなく、どこか遠くをうっとりと見つめている。
そんな目をしている時は、何を言っても無駄だということを香苗は分かっていた。そして優姫も、なんだかんだで結局最後まで話を聞いてくれる香苗の性格を知っていた。
幼稚園で知り合い、かれこれ十年。長い付き合いだ。
「その人の名前、レオっていうの。ねー、かっこよくない?」
その時ついた、香苗の大きなため息は、優姫の耳に届くことはなかった。
◆
「じゃ、今度はその夢のカレとちゅーでもしたら教えてよ」
古館、という表札がかかった家の前で、香苗はひらひらと手を振り、背中を向けた。親友の後ろ姿を見送って、優姫は踵を返す。鼻歌混じりに帰路につく姿は酷く陽気だ。彼女が陽気になるにもわけがあった。
「あー、今から寝るのが楽しみ」
軽やかにステップを踏むような足取りで、優姫は最近毎日のように見続けている夢を思い出していた。
風になびく漆黒の髪。
どこまでも澄んでいて、それでありながら強い意志を秘めていることを思わせる緑色の瞳。
すらりとした体躯を包む衣服は、まるで中世の騎士がまとっているような代物だった。
まるで、王子様――そう、彼女にとっては理想の男性像だった。
交わした言葉の内容など覚えてはいなかった。確かに会話はしている筈だった。しかし、その内容も目が覚めた途端に忘れてしまっていた。
それでも、優姫は満足していた。
あの顔でそっと微笑んでくれる、ただそれだけで、目が覚めたその日も頑張れた。もちろんそれは、今日一日を頑張って終えて、早く夢を見たいという不純な動機ではあったのだが。
優姫は、明らかに浮かれていた。だから、気が付かなかったのだ。
自分に近付く人影に。その異様な雰囲気に。
香苗の家が大通りに面しているのと対照的に、優姫の家は酷く人気のない場所に位置していた。
幼い頃から母親に帰り道は十分に気を付けるよう、口酸っぱく言われてきていた。その度に、心配性なんだから、と母親をたしなめていたものだ。
つまりのところ、優姫は油断していたのかもしれない。もう子供ではないのだから、と。
冬も間近なこの季節、傾いていた日はいつの間にか、とっぷりと暮れてしまっていた。
自らの軽やかな足取りとは程遠い足音に、優姫が気付いたのは、そんな時だった。 低い足音だった。ハイヒールのような鋭い音ではない。
足音は優姫と一定の距離を保っているように思えた。優姫が早足になれば、低い足音も早くなり、そのスピードを緩めてみれば、後からついてくる足音も遅くなった。 近付くこともなく、反対に遠ざかることもなく、足音は優姫を追っていた。
「…………っ」
優姫の心中は穏やかではなかった。心臓がまるで全力疾走をした後のように、早鐘を打っている。
危険だ。
確かに優姫の本能はそう告げていた。
やがて自宅が見えてきて、優姫はほっと胸をなで下ろした。ここまで来れば、家まで全力で駆け出すことも出来る。幸い、駆け足には自信があった。
「よし……」
心の中でカウントを始める優姫。
一瞬だけ後ろを盗み見る。後をつけてくる人間は、真っ黒な服に身を包んでいる。暗闇に包まれた中、すっぽりとフードまでかぶるその怪しい姿に、優姫は身震いした。
「走れっ……!」
カウントがゼロになった瞬間、優姫は地面を強く蹴った。砂利を踏みしめ、自宅までの二百メートル走に全力をふり注ぐ。 そのスピードは見事なものだった。
優姫は運動部に所属していなかったが、今、もしこの走りを陸上部の顧問が見れば、間違いなくその走りを買っていたことだろう。
「はぁっ、はぁっ」
蹴り上げた砂粒がふくらはぎに当たるのも気にせず、優姫は走り続けた。
あと少し、ただその言葉だけが優姫の脳内でリピートしている。
あと少し。
それはほんのわずかな気の緩みだった。間近に見える我が家に安心した優姫の緊張感が、たった一瞬だけ途切れたのだ。
ほんの一瞬の気の緩み。
しかしそれが優姫の命運を決めた。
「……あっ!」
何かに足をとられ、勢いよく前のめりに転ぶ優姫。乾いたアスファルトが優姫の足を傷付けた。
「……痛……っ」
痛む足元に視線を向けた瞬間、優姫は身震いした。
てっきり石か何かに躓いたのだと思っていたのだ。しかし、それはしっかりと優姫の足を絡めとっていた。
「ひっ……」
優姫の足に絡まっていたモノ、それは――大蛇とも呼べるほど、長く太い金色の蛇。見落とすような大きさではない。
「……っ……ぁ……」
優姫は、動くことはおろか、声すら出せずにいた。蛇に睨まれた蛙のごとく身は竦みあがり、冷や汗が背を伝うのを感じた。
そんな優姫の目の前で、じゃり、と地面を踏みしめる音がする。
決してその存在を忘れていたわけではない。それから逃げる為の全力疾走だった。――それなのに、動く事が出来ない。
いまだかつてない恐怖に包まれた優姫の瞳から、涙がこぼれた。
優姫は顔を上げた。そして、目の前に立つ人間を見た。
夜の闇に溶けるような黒いマント。フードにすっぽりと覆われたその顔を確認することは出来ない。
絶体絶命、万事休す。
優姫の脳裏に、死という言葉が浮かんだ。それと同時に、幼い頃から現在に至るまでの数々の思い出がよぎる。
――小さい頃は泣き虫だった。よく近所の男の子に泣かされて帰ってきたものだ。
小学に上がり初恋を経験。けれど、それは実ることはなくて。
そのまま恋愛の『れ』の字もないまま中学を卒業、高校生になった今も、彼氏はいない。実際、告白をされたことがあっても、理想通りじゃないから嫌だと言って断ってきた。
よく香苗に呆れられていたものだ。そんなんじゃ一生彼氏なんて出来ないよ、と。
平穏な記憶。
それがどうしてこんなことに――。
ガタガタと震える優姫の足首に巻き付く金の大蛇は、うねうねと這い上がり、やがて腿まで登ってきた。露出した肌に直接触れる蛇の感触が、さらに震えを助長する。
「目を、閉じていろ」
刹那、声がした。




