プロローグ ―おわりとはじまり―
全ては、幻影だった
信じていたものも、なにもかも
俺は
こんなことを望んでいたのではない
◇◇◇
「今宵は、満月か」
そこは切り立った絶壁にそびえる塔――断壁の塔と呼ばれる場所。
包まれた静寂の中、塔の最上階の窓辺で、肘掛け椅子に腰掛けた少女が呟いた。
彼女は魔女と呼ばれていた。
外見は幼く愛らしいが、その姿が成長していくさまは、誰も見たことがない。
艶かな白髪が、宵闇に浮かぶ月の光に反射しながら夜風に揺れている。陶器の様に滑らかな白い指を耳に当てながら、少女は星の瞬きに耳を傾けていた。
星達の言葉を聞きながら、少女はそれに混じる不安定な気配に気付いた。押し殺されたその気配は、ごく普通の人間ならば到底気付くことはないだろう。
しかし光を感じることのない瞳を持つ少女は、感覚的にその気配を感じることが出来た。
感じるのは最小まで抑えられた殺気。
鼻につくのは血の匂い。
そして近付く足音とわずかに乱れた呼気。
「来たか」
少女は椅子に深く座り直し、その者が現れるのを待った。
「……お前が、フィレノーラか」
静寂を切り裂き突如現れたのは、漆黒の髪を夜風になびかせた青年だった。
椅子に腰掛けたまま、フィレノーラは顔を上げ、虚ろな瞳を開く。何も見えてはいないその瞳に映ったのは、青年が鞘から抜いた細身の長剣だ。
「ふん、若造が何をしに来た」
フィレノーラは鼻を鳴らしぼやいた。青年は、鈍く光る刃の切っ先を少女にむけたまま、呟く。
「……〈時空の魔女〉がこんな少女とは」
「これでもお前の何倍もの時を生きておるわ」
くく、と青年は不気味に笑った。黒いマントに包まれた肩が細かく揺れる。
少女は大きなため息をついた。
「〈獅子宮〉が堕ちたか……」
青年の肩の揺れが止まる。同時に胸元を押さえ、暗がりで存在感を持つ鮮やかな緑色の瞳で、少女を見やった。その手はマント越しに何かを握っている。
「……分かるのか」
「星が全てを語っておる。お前の持つ星も、名も、ここに来た理由も」
切っ先をつきつけられたまま、フィレノーラは臆することなく淡々と答える。
青年はまとっていた黒いマントを脱ぎ捨てた。同時に強くなった血の臭いに、フィレノーラは顔をしかめた。
その虚ろな瞳には、彼女に刃を向けたままの、月明かりに照らされた青年の姿が映っている。純白の衣服には金糸で装飾が施されていたが、見る影もない程に酷く汚れていた。胸元には、真ん中に宝石のはめ込まれた十字のネックレスが鈍く光っている。
「ならば、話は早い」
漆黒の髪を揺らして青年が微笑む。
「俺と契約をしろ。〈時空の魔女〉フィレノーラ」
フィレノーラはかぶりを振る。
「むざむざ、しがらみに囚われようとするか……レオ」
フィレノーラの首もとにあてられた刃の切っ先が、ぐらりと揺れる。
青年からは妖しい笑みが消えた。
「……その名を呼ぶな」
言葉には明らかに怒気が含まれていた。
同時にフィレノーラが感じたのは、青年の深い悲しみと憤り。星達の語った言葉を思い出して、彼女は嘆息した。
「お前のせいではない、レオ。全ては世の理、定められた宿業なのだ」
フィレノーラは顔を上げた。青年は、刃を彼女の首もとから離すことなく、淡々と言葉を紡ぐその魔女を見つめている。
フィレノーラは教えられていた。天を仰げばいつもそこにいる星達に、青年の過去を、そして未来を。
彼女は青年を哀れんだ。
「レオ……哀れな獅子よ。お前が何をしようと世の理は変えられぬ」
そう言うと、フィレノーラは腰まである白髪をなびかせ、すっくと立ち上がった。
月の光をまとい立ち上がった彼女の、独特な雰囲気に圧倒されるかのように、青年は刃を向けたまま後ずさった。
そんな青年に向けて、フィレノーラは白く細い手を伸ばした。
「私と契約することが、何を意味するかは知っていよう? 味わうのは苦しみと悠久の孤独だけぞ。……それでも」
「それでも……」
フィレノーラの高い声と、青年の低い声が重なった。
魔女の虚ろな眼は青年を見つめ、青年の鋭いまなざしは魔女を射抜く。
やがて青年が刃を下ろすと、フィレノーラの細い指が青年の胸に触れた。その指先に触れる温かいものが何であるか、彼女には分かっている。
「そこまでしてお前が望むものは、何だ?」
フィレノーラの指の先にあるのは深い傷。鋭利なもので突かれたかのようなその傷は、いずれ死に至らしめるほどのものであることが分かる。
ふふ、と青年が低く笑った。
「お前には……関係あるまい」
青年はフィレノーラの問には答えなかった。
しかし、彼女は全て悟ったかのように俯き目を伏せると、呟いた。
「……愚か者が」
同時にフィレノーラの手に力が込められる。その指先が胸元に埋まり、青年は呻き声を上げた。ズブズブと青年の体内へと侵食していく白く細い腕は、一定の位置で動きを止めた。
青年は喉から溢れる血を吐き出す。崩れ落ちそうになる体は、フィレノーラの細腕一本で支えられていた。
「時空の魔女の名において」
ぼたぼたと滴り落ちる鮮血が、石畳の床に敷かれた濃紺の絨毯に、染みを作り出してゆく。
酷く咳き込み、喉を鳴らす青年の体内に、自らの手を埋め込んだまま、フィレノーラは呪文を唱え始めた。
「獅子宮レオ、彼の者に力を」
無風の空間でフィレノーラの白髪が激しくうねる。
「時を越え、世界をも越えられる力を与えよ」
月に照らされた彼女は、まるで自身が光を放っているかのようにも見える。妖しく、そして神秘的な光は、瞬く間に二人のいる部屋を満たしていった。
そしてやがて、部屋を満たす光はついに溢れ出した。
気が付くと、青年は倒れていた。
部屋が、そして視界が白んだ後のことは、まるですっぽりと切り離してしまったかのように、記憶にない。少なくともこの場所で意識を失ってはいないことには気付いていた。
青年の倒れていた場所――それは丈の短い草原の広がる平野だった。〈時空の魔女〉が住まうという、断壁の塔ではない。
「フィレノーラ……?」
青年は〈時空の魔女〉の名を呼んだ。しかし、当然返事はない。
腕に力を込める。
その時気付いた。あんなにも感じていた体の痛みが跡形もなく消えていたことに。
「!?」
本来ならば、ありえないことだった。あんなにも深い傷が跡形もなく消えている。
そこにあったのは、大きな傷跡とどす黒く変色した服だった。
それは青年と〈時空の魔女〉フィレノーラとの契約が無事結ばれたことを意味していた。
青年は大きく嘆息し、目を閉じた。
そのまなこに浮かぶ光景。信じていたもの全てに裏切られたという虚無感。
柔らかな風が頬を撫でていく。
酷く、酷く穏やかな場所だった。青年の心中と裏腹に、その場所は平穏に満ち溢れていた。
「……ヴァルゴ」
青年は呟いた。
その小さな声は頬を撫でる風にさらわれ、空へと消えていく。
その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちたことは、誰も知らない。