《第一巻 白羊編》【プロローグ 星が消えた夜に】 一話 『星弦の竪琴はもう響かない』
星が消えた夜だった。暗い森を這っているのか走っているのかも分からないほど必死で逃げていた。
息がうまく吐けない。心臓が痛いくらい暴れている。木の影がぐちゃぐちゃに揺れて、前がほとんど見えない。森が全部、敵みたいに思えた。
「……うっ」
ざく、ざくと、背後で乾いた足音が迫ってくる。獣じゃない。地面を踏み砕くような重い音がして、その振動が背中にまで響いた。
――あいつだ。まだ追ってくるのか。
「ラッサル、早く!」
リラが僕の手を強く引っ張る。
つまずきかけて、反射的に僕は彼女の手を掴み返した。離したら終わる気がして、指に力を込める。汗で滑りそうになるたび、リラはすばやく握り直した。
危ないときは、いつもリラが前に出る。僕は――後ろにいるだけだ。……それが、どうしようもなく悔しかった。
だめだ、逃げないと。そう思えば思うほど、足が重くなり、吸った息は喉でつかえた。
足元の石を掴んで、振り返りざまに投げた。当たるはずもない。それでも、何もしないまま終わるのが怖かった。
この道は、もう何度も走った。どこに隠れても見つかる。最初から、逃げ場なんてなかった。視界がかすみ、足が勝手に止まりそうになる。
「見えてきた……!」
リラの声が震えた。
前を見ると、地面が突然途切れていた。切り立った断崖がぱっくり裂け、その下は深い闇に沈んでいる。もう進めない。終わりだ。
……いやだ。死にたくない。わかっているのに、どこかで小さな願いがこぼれる。
リラが僕の前に出た。昔からずっと、こうやって僕を庇ってきた背中だった。
小さな背中が震えている。それを見た瞬間、足元がぐらついた。何か言わなきゃ……そう思うのに、喉が固まって声にならない。
一瞬、闇が微かに揺れた気がした。冷たい気配が、すぐそばを通り抜けた。――来る。そう感じた瞬間、闇の向こうで青く鋭い光が走った。
「……っ!」
その光に照らされ、奥で魔物が立ち上がった。
手にした槍が、空を裂くように突き出される。巨大な体が闇の中から浮かび上がり、瞳の中で、青い炎が激しく燃えている。足が地面を踏むたび、黒い焼き跡がじりじりと広がる。
リラの肩がわずかに跳ねた。それでも怯まず、張りつめた声が夜に響く。
「ラッサルだけは渡さない!」
刹那、光が弾けた。
リラの体がふわりと浮き、銀色の星屑がベールとなって彼女を包み込む。白藍の髪がほどけ、まるで夜空から零れ落ちた彗星の尾のように淡い光を放った。
「……お姉ちゃん……っ」
息が詰まる。リラだけが魔法を使えて、僕には何の力もない。分かってる。そんなの、とっくに……。
それでも、そのたびに胸がじんと痛む。何度見ても、この瞬間だけはどうしても耐えられない。
白銀のドレスをまとったリラが抱くのは、金色の弦楽器――星弦の竪琴。その周りで、小さな光が消えたはずの星座みたいに瞬いている。
「お願い、届いて――」
ポロン、とやわらかく弦が響いた。切ない音色が空へ広がっていく。音が揺れるたび、光がふわりと舞い上がった。
その光のひとつが、かすかに僕の手に触れる。胸の痛みがほんの少しだけ、和らいだ気がした。
「……その光。まだ残っていたか」
闇の奥で、天の理を呪うような濁った囁きが震えた。
魔物の槍が動いた瞬間、世界の時間が凍りついたかのように空気が冷える。
瞬きの間に影が滑り込み――絶対の漆黒を宿した刃が、リラの胸を容赦なく貫いた。一瞬だけ、リラと目が合う。
「お姉ちゃん!!」
リラの体が断崖の向こうへ傾いた。思わず手を伸ばす。でも指先は空をかくだけで、どうしても届かない。
「あっ……」
そのまま、リラの姿が闇の底へ消えていく。
呼吸が止まり、喉が締まった。足がすくんで、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
あいつが、僕を見た。終わりだ。そう悟った瞬間、急に怖さが消えた。なぜか、何も感じなくなった。
僕も、みんなのところに……。
その思いが浮かんだ刹那、世界が揺れた。烈火のような光が弾け、熱が頬をかすめていく。空気が跳ね上がり、ゆらめく炎が視界を裂いた。
「ラッサル――」
どこからか声が響く。
「だ、誰……?」
「お願い……生きて!」
その声は、リラのものじゃなかった。知らない声のはずなのに、なぜか知っているような気がした。
その瞬間、叫びは爆音に呑まれた。火柱が迫る。体が強張ったまま動かない。
もう……終わりだ。そんな思いが頭をよぎる一方で、どこかでかすかな声が呼んでいる気がする。
けれど、その声を掻き消すように、世界が熱と光に押しつぶされる。視界が揺れ、意識が闇へと沈んでいく。
一瞬、やさしい風の匂いがした。どこか懐かしい匂いだった。




