83. 割れた杯、壊れた心
ようやくザヒール中央軍司令部へたどり着いた頃には、空はもう夕焼けに染まっていた。
アレクは黄の匣をひとまず司令部の保管庫へ鍵をかけてしまい込む。この匣を今後どう扱うかは、また後で考えればいい。
今は――誰も彼も、疲れ切っていた。
「みんな、本当にご苦労だった」
アレクが仲間たちを見回す。
「全員が力を合わせてくれたおかげで、黄の匣を取り戻すことができた。明日の朝一番で、ザヒール皇帝とアージ大将に任務の報告をするつもりだ」
そう言って、小さく笑った。
「だから今日はもう帰って休め。この旅の間、みんな張りつめっぱなしだっただろ」
確かにそうだった。
サマンにいる間は、誰もが薄氷を踏む思いで過ごしていた。一瞬でも油断すれば、すべてが終わる。
そんな毎日だった。だが今は、ようやく見慣れた故郷へ帰ってきたのだ。
仲間たちは互いに手を打ち合わせ、この任務の成功をささやかに祝い合った。それから、それぞれの家路につく。
コーディアは、アレクが後片づけを終えるのを待って、一緒に中央軍司令部を出た。
門の外では、すでに軍服を脱いだテスラン・デヴィルが待っている。
「やっと帰ってきたか!」
テスランは笑顔で二人を迎えた
「お前たちがサマンにいる間、全然連絡が取れなくてさ。毎日気が気じゃなくて、仕事にも集中できなかったんだよ」
「それ、お前らしくないな、テスラン」
アレクも思わず笑う
「仕事はちゃんと仕事しろよ」
「だって、サマンって場所が不気味すぎるんだよ! 何か悪いことに巻き込まれてるんじゃないかって、ずっと心配だったんだからな」
悪いこと、か。
アレクは胸の内で苦笑した。
確かに、この旅には命がけの場面がいくつもあった。だが、それを詳しく話す気にはなれない。テスランまで不安にさせたくなかった。
三人はそのままアレクの家へ向かった。
テスランは慣れた足取りで台所へ入り、簡単な食事の支度を始める。
コーディアも、そんな光景を見慣れていた。
軍の孤児院を出てからというもの、テスランもコーディアも一人暮らしをしている。
幼い頃から二人の成長を見守ってきた「アレク兄ちゃん」は、時折こうして家へ呼んで、一緒に食事をするのが習慣だった。
アレクもまた、一人暮らしだったからだ。
そして、軍服を脱いだアレクは、司令部で見る厳格な彼とはまるで別人だった。
テスランもコーディアも、「ブレイ団長」ではなく「アレク」と呼ぶ。
ここにいる彼は、軍の頂点に立つ指揮官ではない。二人を大切に想う、兄のような存在だった。本当の家族みたいに。三人はそんな日々を、ずっと重ねてきた。
今日のような夕食の席でも、胸の内を語り合うことが何度もあった。
――けれど、今日のコーディアは違った。
夕食の間、ほとんど口を開かない。食事にも、ほとんど手をつけなかった。
テスランはアレクと話しながらも、何度もコーディアへ視線を向ける。
心ここにあらず。そんな様子だった。
食事が終わると、コーディアは静かにテーブルへ突っ伏した。 表情を見られぬよう、わざと壁側へと顔を背けていたからだ。
「コーディア、大丈夫か?」
アレクが心配そうに声をかける。
「うん……別に……なんでもない……」
蚊の鳴くような声だった。
テスランは食器を台所へ運ぶ。サマンで何かあったのか。そう思うものの、何を聞けばいいのか分からない。
水を一杯くんで、コーディアの前へ差し出した。
「少し水でも飲むか?」
コーディアはゆっくりと体を起こし、ゆっくりとコップを手に取る。だが、そのままじっと見つめるばかりで、一向に飲もうとしない。
テスランとアレクは、不安そうに目を合わせた。
やがてコーディアが、小さな小さな声で言った。
「……アレク兄ちゃん」
「うん?」
「聞きたいことが……あるの……」
「どうした?」
アレクは優しく問いかける
「何か悩みでもあるのか?」
コーディアは俯いたまま、ぽつりと口を開いた。
「私……お父さんとお母さんのこと、知りたいの」
突然の言葉に、テスランはきょとんとした。アレクを見る。その顔には、言いようのない複雑な色が浮かんでいた。
「お父さんとお母さん……」
コーディアは続ける
「二人は……昔……魔獣に殺されたんだよね?」
アレクは答えない。その顔が、ゆっくりと歪んでいく。
コーディアは返事を待たなかった。
「うん、分かってる。魔獣に殺されたんだよね。魔獣って、本当に残酷だよね……」
彼女はふとテスランを見た。
「ねえ、テスラン。魔獣って、本当に残酷なんだよ」
アレクは口を開いた。だが、声にならない。
テスランが何か言おうとした、その時。コーディアが遮った。
「魔獣がお父さんとお母さんを殺した。心なんてない、ただの化け物。あいつらのせいで、私はお父さんもお母さんも失った。あいつらが――」
「違う」
ようやく、アレクが声を絞り出した。
コーディアとテスランは、呆然とアレクを見つめた。アレクはその視線から逃げるように目を伏せる。
唇は震え、肩も小さく揺れていた。握り締めた拳には力が入り、爪が掌へ深く食い込んでいる。
数秒の沈黙のあと、彼はゆっくりと言った。
「コーディア……俺は、お前に嘘をつきたくない……」
その声は、何かが砕け散る音みたいだった。
「お前の母親は……魔獣に殺されたんじゃない」
一言一言を口にするたび、喉が裂けていくようだった。
「俺が……戦場で……命令を受けて……俺が、お前の母親を処刑した……」
「でも、俺は……俺は……」
アレクは目を閉じた。
いつもなら誰よりも堂々としていて、一言発すれば周囲を圧倒するあの男が、今は最後まで言葉を紡ぐことすらできない。
テスランは呆然と、二人を見比べる。
「……何を、言ってるんだ?」
「俺が……」
アレクは震える声で続けた。
「俺なんだ……コーディア……すまない……もっと早く話すべきだった……でも、俺は……」
「……どうして?」
コーディアが、夢の中で呟くみたいに言った。
その手からコップが滑り落ちる。テーブルへぶつかり、床へ転がり。
次の瞬間、甲高い音を立てて砕け散った。
アレクは何も言えなかった。
力なく、その場へ膝をつく。頭を、深く、深く垂れる。
テスランは、その姿に凍りついた。
こんなアレクを見たことがない。
決して崩れないと思っていた大きな山が、目の前で音を立てて崩壊していくようだった。
コーディアは、すっと立ち上がった。何も言わない。そのまま玄関へ向かう。
そして扉を開ける、その瞬間。ふいに振り返り、アレクを見つめた。
「……ずっと私が狩魔師になるのを止めてたのって、あなたが人殺しだという真実を、私に暴かれるのが怖かったから?」
その瞬間、アレクはまるで一本の刃が自身の心臓を深く突き刺したかのように感じた。
心の内で何かが砕け散っていく――それはまるで、床に転がるあの硝子の破片のようだった。
コーディアは扉を押し開け、そのまま外へ踏み出した。月明かりすらない夜の闇の中へ。
そして、その姿はあっという間に消えていった。
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