55.舞踏会のあとで
(良い年して、なに普通に照れちゃってんですが…どこの純朴少年だよ。)
ことの成り行きを見守っていたシュヴァルツが、表情を崩さずに心の中で呆れる…を通り越して途方に暮れていた。
しかし、ちらりと隣を見ると、マリエッタが目を赤くして感極まった表情をしていた。その無垢な様子に胸を打たれる。
(くっ…可愛いマリエッタのためですからね!)
彼女の純真な気持ちを慮り、シュヴァルツは気を取り直した。真面目な顔をして一歩前に進み出る。
「フィニアス様、婚姻の書状には僕の方で調印を頂いてきます。後のことはお任せを。」
「……ああ、頼んだ。」
シュヴァルツに声を掛けられ、フィニアスは自分たちが今どこで何をしていたか思い出した。咳払いをして柄にもなく惚けた顔を整える。
「一応言っておくが、」
歩き出す直前、野次馬達に視線を向けるフィニアス。
その瞳は氷のように凍てつき、視線には射るような鋭さがあった。彼の威圧で会場の空気が重くなり、目に見えぬ重圧で皆の顔が強張る。
「俺の大切な妻に何かすれば容赦しない。即刻叩き潰してやる。」
「……っ」
(フィニアス様、皆様に何てことをっ……!!)
腕の中にいたエリーナはいたたまれなくなり、周囲の視線を遮るように両手で顔を覆った。そうする他逃げ場がない。
フィニアスは手加減なく殺意を込めてドスの効いた声で脅すと、周囲の戦慄した目を気にすることなく、今度こそ会場外へ向かって歩き出した。
彼が姿を消しても尚、会場の空気は重く冷え込んでいて、皆の顔から表情が抜け落ちていた。この状況で陰口を叩こうとする愚か者は、誰一人として現れなかった。
***
「湯浴みをして体を温めてくるといい。」
「ありがとうございます。」
邸に戻ってすぐ、冷え切った彼女の身体を心配してフィニアスが声を掛けてくれた。平然とした顔で頷いたが、実のところエリーナの身体は今暑くて仕方ない。
お姫様抱っこをされたまま公衆の面前で愛を誓われ、自分も愛を囁いたせいだ。あの時のことを思い出すだけで顔に熱が集まる。
それでも彼の心遣いを無下にしないよう、待っていたネルと共に湯浴み場へ急いだ。
その日のネルはいつもと違っており、やたら丁寧にエリーナの身体を磨いてきた。謎の香油まで塗りたぐられる。普段の倍以上の時間を要され、中々終わらない事態に気持ちが焦ってくる。
「ネル、身体はもう温まったから大丈夫よ。」
「いいえ。まだまだですよ!」
「でも、フィニアス様をお待たせしたままだわ。早く戻らないと…」
「待たせた方が喜びが大きいってものですよ。」
「???」
やんわりと急かしたが、ネルの返答はよく分からなかった。結局その後、普段はしない入念なマッサージまでされた挙句、なぜか薄化粧を施されることとなった。
(フィニアス様だってお疲れなのに申し訳ないわ…)
ようやく解放されたエリーナが、彼の待つ部屋へ急いだ。終わったら私室に来るよう言われていたのだ。
「フィニアス様、エリーナです。お待たせして申し訳ありません。」
ドアに向かって控えめに声を掛けると、中からゆっくりと扉が開いた。
「入れ。軽食を用意してある。」
ガウン姿のフィニアスがエリーナのことを部屋に招き入れた。
彼も湯浴みを終えたらしく、普段上げている長めの前髪は無造作に横に流されており、まだ少し濡れている。
いつだって完璧な彼が初めて見せた「隙」に、エリーナの胸がときめいた。
(どうしましょう…素敵過ぎて直視出来ないわ…)
勝手に頬が色づいていく。
「エリーナ?」
「ひゃっ」
すぐ間近で名前を呼ばれ、エリーナの声が裏返った。石鹸の良い香りが鼻を掠めて、バクバクと心臓が音を立て始める。
「そう警戒するな。……俺だって傷付く。」
フィニアスがぷいっと顔を逸らした。
彼の言葉の意味が分からず、エリーナの顔色が悪くなっていく。不安そうに瞳を揺らした。
「あの、私はまた何か不遜なことを…」
「何でもない。」
エリーナに向かって片手を上げた。もう片方の手で髪をかきあげ、ため息を吐く。勝手に考え過ぎていたことに、自己嫌悪が込み上げてきた。
彼女の澄んだ瞳に見つめられ、力づくで己の煩悩をねじ伏せる。
「ほら、料理が冷めるぞ。」
「……は、はいっ。」
顔を上げて室内に目を向けると、エリーナの部屋とほぼ同じ作りをしていた。
唯一違うのはソファーの数であった。この部屋には二人掛けが一つしか置かれていない。そこに座ったフィニアスが、ポンと自分の隣を叩いた。
彼の意図を理解したエリーナが、遠慮がちに隣に腰掛ける。すると、フィニアスがピタリと隙間を詰めて、密着しながら彼女の腰に腕を回して来た。
「好きなものを食べると良い。」
テーブルの上に並んだ料理を目で示しながら、顔を寄せてエリーナに声を掛ける。
(あ、あの、お顔がち、ちか、ちかく……)
極度の恥ずかしさで、ぐるぐると目を回し始めたエリーナ。
耳元でやたら良い声で囁いてくるせいで、何を言われているのかよく分からない。それでも何か反応しなければという一心で、こくこくと壊れた人形のように頷いていた。




