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【BL】ハルキゲニアのふたり  作者: 平手武蔵
春夏秋『冬』
9/16

Ep.9 side 春樹

 スタジアムに足を踏み入れた瞬間、地鳴りのような歓声と、独特の熱気に包まれた。冬の日差しを受け、グラウンドの芝生は緑鮮やかに、静かに輝いていた。


 この場所に、あの人がいる。数年ぶりに見る、玄弥さんが。


 テレビで見るたびに、その鍛え上げられた肉体には目を奪われていた。画面越しでも分かる厚い胸板、太い腕、そして、プロップというポジションを支えるであろう、山のような大きな体。最後に会った小学生の頃の、柔らかそうだったお腹の記憶とはもう全然違う。今の玄弥さんの体は、まさに戦うために作り上げられた鋼のようだ。

 その圧倒的な存在感を前にして、僕は一体どうしたいんだろう。憧れと、ほんの少しの気後れ、そして言葉にならない期待が胸の中で混ざり合う。

 会いたい――その一心を抑えつけ、僕は佐々木さんと並んで席に着いた。


 試合開始前のセレモニー、オールブラックスのハカが始まる。画面越しで感じる以上の、すさまじい迫力。これが天下無双のニュージーランド代表チーム――通称オールブラックス。玄弥さんが戦う相手なのだ。

 そして、キックオフ。

 試合は、序盤から息もつけないほどの激しい攻防が続いた。最強の相手に、日本代表は一歩も引かない。

 その中で、ひときわ大きく、力強い玄弥さんの姿が目に飛び込んできた。スクラムの最前線で体を張り、ボールを持てば、あの大きな体で相手ディフェンスに果敢に挑んでいく。鍛え上げられた筋肉が躍動し、ぶつかり合うたびに、その衝撃がこちらまで伝わってくるようだ。


 そうだ、これが玄弥さんだ。僕がずっと憧れていた、強くて優しい背中。


 苦しい時間帯もあった。オールブラックスの猛攻に、何度もゴールラインを脅かされる。でも、その度に、玄弥さんをはじめとする選手たちが、泥まみれになりながらタックルを繰り返し、ピンチを防ぐ。その姿に、僕は何度も胸が熱くなった。

 そして、試合終了間際。一点を追いかける日本。敵陣ゴール前、最後のスクラム。スタジアム全体が固唾をのんで見守る中、ボールが出た瞬間、僕の目は玄弥さんに釘付けになった。


 ボールを受け、力強い突進で相手選手を薙ぎ倒し、ゴールラインを駆け抜ける――信じられない! 玄弥さん……玄弥さんの逆転のトライだ!


 スタジアムが揺れた。僕も佐々木さんも、周りの人たちと一緒になって叫び、手を叩き、飛び上がって喜んだ。


 玄弥さんが決めたんだ! あの玄弥さんが、この大舞台で、日本を勝利に導くトライを決めたんだ! どうしよう……胸がいっぱいで、涙が止まらない。


 試合終了のホイッスル。歴史的な勝利。グラウンドを一周する選手たち。その中に、誇らしげに手を振る玄弥さんの姿があった。

 僕たちの席からは少し遠かった。だけど、玄弥さんがこちらの方を見たような気がした。いや、もしかしたら、一瞬だけ、目が合ったのかもしれない。心臓が、大きく、強く、鳴った。


 ◇


 試合後の興奮と喧騒の中、僕たちはスタジアムの外へ向かう人の波に揉まれていた。


「すごかったね、春樹くん! 玄弥さん、本当にヒーローだったね!」

「うん……本当に、すごかった……」


 佐々木さんの声も弾んでいる。言葉にできないほどの感動と、まだどこか現実ではないようなフワフワとした気持ちが入り混じっていた。


「あ! あれ、玄弥さんじゃない!?」


 不意に、佐々木さんが僕の腕を掴んで指さした。見ると、少し離れた通路の出口あたり、関係者らしき数人に囲まれながらも、サインや握手を求めるファンたちに、笑顔で応えている玄弥さんの姿があった。

 でも、なんだか少し変だった。僕の心を掴んで離さない、あのくしゃっとした笑顔じゃない。玄弥さんは、あんな顔で笑わない。目の前じゃない、どこか遠くを見ている――そんな気がした。


 しばらくすると、ファンたちへの対応も一段落したのか、玄弥さんは関係者に軽く会釈し、チームメイトたちが待つ方へ移動しようとしていた。


「行ってみようよ!」


 佐々木さんに背中を押されるようにして、僕たちは人混みをかき分け、玄弥さんの近くへと進んだ。近づくにつれて、心臓の音がどんどん大きくなるのが分かる。


「玄弥せんしゅー!」


 佐々木さんが満面の笑みになり、大きく手を振った。ちょうどチームメイトと合流し、談笑し始めた玄弥さんは、佐々木さんの声に気づいて、こちらを向いた。僕と目が合う。その瞬間、大きな目が見開かれた。


 玄弥さんが何か言いかけた時だった。


 隣にいた、年上の選手――ナンバーエイトの確か吾妻さんだったかな――が、ニヤニヤしながら玄弥さんの肩を小突いた。


「へえー、ゲンちゃん。こんな可愛い子がお待ちかねとはな! もしかして新しい彼女か? やるじゃねえか!」


 吾妻さんの言葉は、明らかに佐々木さんを見て言っている。彼女だけが嬉しそうな表情だったから、僕のことは、玄弥さんの彼女と一緒に来た友人、くらいに思ったのかもしれない。他の選手たちも、興味深そうにこちらを見て笑っている。

 玄弥さんは顔を真っ赤にして、「ち、違いますよ、吾妻さん! その子は、春樹……こいつの《《彼女》》で、今日は一緒に応援に来てくれただけで!」と慌てて否定している。


 ――春樹。


 玄弥さんの口から、僕の名前がはっきりと発せられた。その瞬間、周りの喧騒も、吾妻さんたちのからかいの声も、何もかもが遠のいて、ただ、玄弥さんが僕の名前を呼んでくれたという事実だけが、胸の中で温かく、そして力強く響いた。

 覚えていてくれたんだ。僕のこと、忘れずにいてくれたんだ……! それだけで、胸がいっぱいになって、また涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。


 それからの玄弥さんの言葉は、あまりにもしどろもどろで、その場を取り繕おうとしているのが見え見えだった。吾妻さんは、その様子を面白そうに眺めている。


「ん? ゲンちゃん、なんだって? こっちの坊主の彼女……? ああ、犯罪って言われたくねえからか! めっちゃ分かる!」


 吾妻さんはわざとらしく大きな声を出し、さらに玄弥さんの肩をバンバンと叩く。


「いや、ですから、吾妻さん! そういうんじゃなくて! こいつは春樹って言って、昔、俺の近所に住んでた……その、弟みたいなやつで! で、隣にいるのは、その……春樹の、多分クラスメイトの、えーっと……」


 玄弥さんは必死に説明しようとするが、ますます墓穴を掘っているように見える。僕と佐々木さんを交互に見ながら、額には汗が滲んでいた。

 周りにいた他の選手たちも、そのやり取りをニヤニヤしながら見守っている。


「なんだよー、玄弥! はっきりしろよな!」

「弟みたいなやつの彼女って、ややこしい!」

「多分クラスメイトとか設定が雑すぎだろ!」


 そんな声が飛び交う。


「だ、だから! 俺の彼女じゃなくて! こいつの彼女! ずっとそう言ってるじゃないですか!」


 玄弥さんは、もう半ばヤケになったように叫ぶ。その必死な形相が、かえって周囲の笑いを誘っていた。

 吾妻さんは、ひとしきり玄弥をからかうと、満足したように「まあ、若いってのはいいこった!」と豪快に笑った。


「ゲン、あんまり可愛いファンを待たせるなよ。俺たちは先に戻って、祝勝会の準備でもしてるからな!」


 そう言うと、他の選手たちと一緒に、賑やかに通路の奥へと消えていった。最後にこちらを振り返り、ニヤリと笑った吾妻さんの顔がやけに印象に残った。

 そのやり取りと、去っていく選手たちの背中を見送っていた佐々木さんは、僕の顔を見てくすりと笑った。


「じゃあ、春樹くん、私、ちょっとこの後、用事があるから! 先に行ってるね! 玄弥さんにもよろしく!」


 佐々木さんは、あっという間に人混みの中に消えていった。その早業と気遣いに、僕はただ唖然とするしかなかった。

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