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【BL】ハルキゲニアのふたり  作者: 平手武蔵
春夏秋『冬』
8/16

Ep.8 side 玄弥

 地響きのような歓声が遠のき、目の前の現実だけが鮮明になる。冬の国立競技場、冷たい空気が肺を満たす。吐く息は白い。相手は漆黒のジャージ、オールブラックス。そのフロントローに対して、日本代表チームの右プロップである俺は今、まさにがっぷり四つに組もうとしていた。

 額と額が触れ合わんばかりの距離。相手の息遣い、獣のような眼光――言葉にならない、ピリピリとした圧力が肌を刺す。

 前回、悪夢として何度も見た、あの屈辱的な敗戦とは違う。今の俺の心には、恐怖よりも、むしろ血が沸騰するような静かな闘志が燃え盛っていた。そうだ、俺は変わったんだ。あの過去を断ち切ったのだから。


「クラウチ!」


 フィールドに、レフェリーの鋭い声が響く。両チームのフォワード八人が、一斉に低く腰を落とし、肩をぶつけ合うための前傾姿勢を取る。俺は、相手の左プロップの顔を真正面から睨み据えた。一瞬の油断も、迷いもない。体の奥底から、沸々と湧き上がるものがあった。


「バインド!」


 右腕を相手の背中に回し、左手で相手のジャージを固く掴む。指先に、鍛え上げられた筋肉の硬さと、ジャージのザラついた感触が伝わる。全身の筋肉が緊張し、爆発寸前のエネルギーが体内で渦巻いているのを感じた。この一瞬に、すべてを懸ける。


「セット!」


 その声と同時に、世界が轟音と共に衝突した。超重量の肉塊同士が激突する異次元の衝撃。まさに地鳴りのような衝突音が、国立競技場に響き渡った。


 ◇


 試合開始前、ロッカールームの喧騒の中で、俺は一人、壁に寄りかかり集中力を高めていた。代表ジャージの重み、そして、これから始まる戦いの意味を噛み締める。


「ゲンちゃん」


 ふいに声をかけられ顔を上げると、吾妻さんが立っていた。その表情は、いつものおどけた感じではなく、どこか真剣な眼差しをしていた。


「……調子は、どうだ?」

「絶好調っす」


 短く答える俺の顔を、吾妻さんはじっと見つめた。だが、それ以上は何も聞いてこない。ただ、俺の肩を力強く、一度だけポンと叩いた。それが、彼なりの激励であり、信頼の証だと分かった。俺は奥歯を強く噛み締める。そうだ、俺にはもう、ラグビーしかないのだから。


 キックオフの笛が鳴り響き、試合は序盤から想像を絶する激しさとなった。オールブラックスの猛攻は、まさに嵐。フィジカル、スピード、スキル、全てが世界最高レベル。日本代表は組織的なディフェンスで必死に食い下がるが、何度もゴールラインを脅かされる。

 トライを奪われ、点差が少しずつ開いていく。苦しい時間帯が続いた。正直、心が折れそうになる瞬間も何度もあった。だが、その度に内なる声が俺を突き動かした。


 ここで倒れるわけにはいかない……!


 タックルに、モールに、ラックに、文字通り身を挺して飛び込んでいった。痛みなど感じない。ただ、目の前の相手を止めることだけに集中する。

 世界最強のオールブラックスを相手に、日本は一歩も引かず、まさに死闘と呼ぶにふさわしい攻防を繰り広げていた。誰もが固唾をのんで見守る中、時計の針は無情にも進んでいく。

 そして、試合終了間際、それでもなお一点ビハインドという、まさに絶体絶命の状況。敵陣ゴール、五メートル前でのマイボールスクラム。これが、本当に最後のワンプレーになるだろう。

 オールブラックスを相手に、ここまで食い下がれたこと自体が奇跡に近い。だが、仲間たちの目には諦めの色など微塵もなかった。今日、何度も組んできたスクラム。だが、この一本の重みは、これまでのものとは比較にならない。俺の体には、疲労を忘れさせるほどの、最後の力がみなぎっていた。


「クラウチ!」

「バインド!」

「セット!」


 まるで爆発が起きたかのような、凄まじいスクラムの衝突音だった。瞬間、「うおおぉ……」という重低音のどよめきが、観客席から地鳴りのように噴き出した。

 両チームの意地と意地がぶつかり合う。俺は歯を食いしばり、全身全霊で相手を押し込んだ。安定したボールがナンバーエイトの吾妻さんの足元へ。

 吾妻さんがボールをピックし、ブラインドサイドへ一瞬走り出すフェイク。相手ディフェンスが一瞬そちらへ引きつけられる。

 その瞬間、スクラムハーフが素早くボールを拾い上げる。インサイドへ切り返してくる俺の胸元へ、この試合の全てを託すかのような、完璧なタイミングでパスを通した。


「行っけぇ! ゲン!!」


 吾妻さんの叫び声が聞こえた気がした。目の前には、わずかなギャップ。俺は、その一点を目指して、頭を低く下げ、全力で突進した。相手フランカーがタックルに来るが、低い姿勢と体重でそれを弾き飛ばす。もう一人、フルバックが立ちはだかるが、それも構わず突き進む。


 そして――


 泥と芝生の匂い。重くのしかかる相手選手の体。だが、その下には、確かにトライラインの感触があった。笛が鳴り、レフェリーが右手を高く掲げる。逆転のトライ。そして、それが決勝点となった。

 試合終了のホイッスルと共に、スタジアムが割れんばかりの、いや、それ以上の、地殻変動でも起きたかのような轟音と歓声に包まれた。信じられない。俺たちは、あのオールブラックスに勝ったんだ。しかも、俺のトライで。


 やった! やったんだ!


 思わず両拳を突き上げ、天を仰いだ。全身の細胞が歓喜に打ち震えている。これまでの苦しみも、葛藤も、今この瞬間、全てが報われた気がした。喉が張り裂けんばかりに叫び、仲間たちと肩を組み、飛び跳ねた。熱いものが込み上げてきて、視界が滲む。


 これが、勝利の味か……これが、俺たちが掴み取った奇跡だ!


 最高の気分だった。これ以上ない、人生で最高の瞬間だ。俺は間違っていなかった。この道を選んで、全てを捧げて、本当に良かったんだ。やはり、俺にはラグビーしかない。この確かな手応え、この充実感。これさえあれば、他には何もいらない。チームメイトと抱き合い、勝利の余韻に浸る。


「やったぞゲン! やったなァ!」


 吾妻さんが俺に抱きついてきて、何度も叫んでいる。その目は潤み、顔はくしゃくしゃだった。


「お前をあそこで走らせて正解だった! まさか本当に決めるとはな! やっぱ日本の走れるプロップは伊達じゃねえ!」


 彼ほどのベテランですら、これほど感情を爆発させるなんて、それほどまでに今日の勝利は特別で、奇跡的だったのだ。

 グラウンドを一周し、観客の声援に応える。スタンドを見渡すと、無数の日の丸の旗と、桜のジャージを着たファンたちの笑顔が見えた。


 その時だった。


 ふと、ある一点に目が釘付けになった。スタンドの中段、少し端の方。若い男女が二人、こちらを見て手を振っている。男の方は、どこか見覚えのある……いや、見間違えるはずがない。


 ――春樹。


 色素の薄い髪、細い体つき。数年でずいぶんと背が伸び、大人びてはいたが、あれは間違いなく春樹だった。そして、その隣には、親しげに彼と笑い合っている、小柄な、快活そうな女の子がいた。春樹のクラスメイトだろうか。二人は、まるで恋人同士のように楽しげに、そして親密に見えた。


 あいつ、あんな風に笑うんだ。あんなに、屈託なく。


 瞬間、ドクン、と心臓が喉元までせり上がってくるような衝撃が走った。全身の血が逆流し、頭の芯が痺れるような感覚。さっきまでの大歓声が、まるで分厚い壁に遮られたかのように、ふっと遠のいていく。周囲の景色が歪み、スローモーションのように見える。呼吸が浅くなり、指先が冷たくなっていくのを感じた。

 

 頭の中から削除したはずの記憶。

 心の奥底に封じ込めたはずの感情。

 とめどなく溢れ出してくる。

 鋭く、冷たい何かが、胸を貫いた気がした。


 俺にはラグビーしかない、そう確信したはずだった。全てを捨てて、この道を選んだはずだった。なのに、この胸の奥を焼け付くような痛みは何なんだ。春樹の笑顔が、隣の女の子に向けられている。その光景が、まるで鋭利な刃物のように、俺の心を抉ってくる。


 なんだ、これは。何なんだ、この感覚は。

 嫉妬? 焦燥? ……もっとどうしようもない、どす黒い何かか?


 俺は、勝利の熱狂も、周囲の喧騒も忘れ、ただ呆然と、スタンドの二人を見つめていた。混乱する頭の中で、必死に何かを掴もうとするが、思考はまとまらない。ただ、あの二人の笑顔だけが、やけに鮮明に焼き付いていた。

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