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【BL】ハルキゲニアのふたり  作者: 平手武蔵
春夏『秋』冬
6/16

Ep.6 side 玄弥

 あの夢を見たのは、これで九回目だった。


「九」という数字は「苦」を連想させる。まるで、俺が今も抱える苦しみそのものを表すかのような数字だ。ラグビー日本代表選手として、オールブラックス戦での惨めな失敗。あの屈辱と後悔が、九度にもわたって悪夢として俺を責め立てる。逃れられない呪いのように、その数字が脳裏にこびりついていた。


 天下無双のニュージーランド代表チーム――通称オールブラックス。漆黒のジャージ。その胸元には、銀色のシダの葉(シルバーファーン)が輝く。

 テストマッチの独特な熱気と、スタジアムを埋め尽くす観客の声援が地鳴りのように響く。試合前、俺たちの目の前で繰り広げられるのは、彼らの伝統的なウォークライ「ハカ」だった。

 マオリ族の戦士の踊りに由来するというそれは、単なるダンスパフォーマンスではない。鍛え上げられた巨大な肉体が躍動し、大地を踏み鳴らし、天を突くような雄叫びを上げる。剥き出しの闘争心、圧倒的な威圧感。見開かれた目が、舌を突き出す仕草が、こちらの魂の奥底まで射抜いてくるようだ。


 キックオフを待つ間、心臓が喉から飛び出しそうだった。呼吸が浅くなり、手先が冷える。初めての代表キャップ、それも相手はオールブラックス。プロップとして、スクラムの最前線でこの怪物たちと渡り合わなければならない。重圧に押し潰されそうだ。


「おーい、ゲンちゃん。ガッチガチじゃねえか」


 ふいに、背後から太い腕が伸びてきて、俺の岩のように硬くなった肩を掴んだ。振り返ると、チームの精神的支柱でもあるナンバーエイトのベテラン、吾妻あずまさんがニヤリと笑っていた。


「リラーックス、リラックス。まあ、初めてだと無理かもしれんがな!」


 吾妻さんはおどけた調子で言いながら、俺の肩を力強くもみほぐしてくれた。その大きな手の温かさと、ベテランらしい余裕に、張り詰めていた神経がほんの少しだけ和らぐのを感じた。


「大丈夫だ。お前の力は本物だ。自信持っていけ」


 短く、しかし力強い言葉。俺は頷き返し、深く息を吸い込んだ。


 試合が始まると、現実は甘くなかった。最初のスクラム。組んだ瞬間に感じた、経験したことのない圧力。桁違いのパワーとテクニック。俺は完全に受け身になり、ヒットの瞬間に姿勢を崩された。必死に耐えようとしたが、相手プロップにいとも簡単に押し込まれ、スクラムは崩壊。ペナルティを取られた。


「ゲン! 頭上げろ!」


 吾妻さんの檄が飛ぶが、一度狂った歯車は元に戻らなかった。焦りがミスを呼び、ミスがさらに焦りを生む悪循環。タックルも甘くなり、ラインアウトのサポートも遅れる。そして、二度目のスクラムでも、俺は相手に圧倒され、チームに不利な状況を作ってしまった。

 前半も半ばを過ぎた頃、無情にも交代が告げられた。グラウンドを後にし、チームメイトやスタッフが待つベンチへと重い足取りで向かう。俺の背中に、観客のため息と、監督の厳しい視線が突き刺さる。

 ベンチに深く腰を下ろすと、どっと疲労感が押し寄せてきた。だが、それ以上に、胸を焼くような悔しさがこみ上げてくる。怒りと情けなさで、体が震える。ベンチの下で膝に置いた拳を強く、強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲む痛みだけが、妙に生々しかった。


 ……そこで、いつも目が覚める。汗びっしょりで跳ね起きると、まだ薄暗い部屋の中、自分の荒い息遣いだけが響いていた。九度目の悪夢。もう、この苦しみから解放されたい。心の底からそう思った。


 ◇


 代表合宿の合間の短いオフ。秋晴れの週末の午後だった。俺は彼女の真由美と、少し洒落たカフェのテラス席に座っていた。テーブルを挟んで向かい合っているのに、どこか距離を感じる。最近、ずっとこんな感じだ。心地よいはずの秋風が、妙に肌寒く感じられた。


「……玄弥、聞いてる?」


 真由美の声に、はっと我に返る。どうやら、ぼんやりと通りを眺めていたらしい。


「ああ、悪い……なんだっけ?」

「もう……。最近、ずっとそうだよね。心ここにあらず、っていうか」


 真由美はため息をつき、飲みかけのカフェラテを見つめたまま言った。その声には、諦めと、少しの寂しさが滲んでいるように聞こえた。

 分かっている。俺が悪いんだ。あの試合以来、俺はラグビーのことばかり考え、自分の不甲斐なさへの苛立ちを、無意識のうちに一番身近な真由美にぶつけてしまっていた。デート中も上の空だったり、彼女の言葉に素っ気なく返したり。優しくできなかった。


「……なあ、真由美」


 何か言わなければ、と思うのに、うまく言葉が出てこない。彼女が俺の態度に傷ついているのは明らかだった。そして、彼女の視線には、単なる不満だけでなく、もっと深い疑念のようなものが宿っている気もした。


「もしかして……他に誰か、いるの?」


 違う、とすぐに否定したかったが、脳裏に、ふと別の顔がよぎってしまい、言葉に詰まる。色素の薄い髪、華奢な体、潤んだ瞳……妖精のような春樹の笑顔。


「……いないよ。そんなわけないだろ」


 なんとか絞り出した声は、自分でも分かるほどぎこちなかった。真由美は、そんな俺の様子をじっと見つめていた。信じていない、というよりは、何かを確信したような、悲しい目だった。


 気まずい雰囲気のままカフェを出て、俺のマンションへ向かう。部屋に入っても、会話は途切れがちだった。体を重ねれば何かが変わる――そう思ったのだろうか。真由美の方から俺に寄り添い、キスを求めてきた。俺もそれに応えようとしたが、唇が触れ合った瞬間、彼女が顔をしかめて身を引いた。


「……痛い」


 彼女は小さく呟き、俺の顎のあたりに指を伸ばした。


「……髭。また剃ってない。……ねえ、前から言ってるじゃん。なんで剃ってくれないの?」


 その声は、責めているというより、呆れ果てたような響きを持っていた。


「あ……悪い」


 謝りながら、俺は無意識に自分の顎に手をやった。ザラリとした感触。どうして、最近、髭を剃るのを怠りがちだったんだろう。理由は分かっていた。

 あのひなまつりの日。忘れられない記憶。春樹にチクッとさせてしまったかもしれない、あの感触を……無意識のうちに、留めておきたかったのかもしれない。

 そんな俺の思考を読み取ったわけではないだろうが、真由美は深い溜息をついた。


「玄弥、私たち、もう無理なのかもしれないね」


 静かな、しかし、はっきりとした口調だった。窓の外は、もう夕暮れの色に染まり始めていた。


「無理って……なんでだよ」

「だって……玄弥は、もう私を見てないじゃない。体はここにあっても、心は全然違うところにある。……それに、その剃らない髭も、もしかして、誰か他の人のためだったりするんじゃないの?」


 核心に近い言葉に、俺は返す言葉を失う。


「……違う! そんなんじゃない!」


 俺は声を荒らげて否定した。だが、それは真由美への反論というより、自分自身に言い聞かせているようだった。


「じゃあ、何なの!? 最近のあなたの態度、全然優しくないし、私だけじゃない、ラグビーだってそうじゃない! あのオールブラックス戦の後から、全然精彩を欠いてるって、他のファンの子からも聞くよ? あの時のミスだって、完全に気持ちの問題でしょ? 代表としての自覚、本当にあるの?」

「うるさいっ! お前に俺の何がわかるんだ! 俺のプレーに口出しするな!」

「……ひどいよ、玄弥……私だって、ずっとあなたのプレーを見てきたんだから!」


 売り言葉に買い言葉。くだらない口論が続く。互いに相手を責め、傷つける言葉を投げつけ合う。普段は穏やかな彼女が見せる、激情。それほどまでに俺が彼女を追い詰めていた。そんな中だった。


 ブブッ――ブブッ――


 ローテーブルの上に置いてあった俺のスマホが、着信を告げて震えだした。光る画面が光り、そこに表示された名前に釘付けになってしまう。


 ――『春樹』だった。


 なぜ、今になって? 何年も連絡を取っていなかったのに。口論の最中だというのに、俺の意識は完全にスマホの画面に吸い寄せられていた。呼び出し音はすぐに鳴り止んだが、不在着信の通知が画面に残っている。


「……っ、何よ、それ! やっぱり、他に誰かいるんじゃない!」


 俺の上の空の様子に、真由美はさらに激昂した。俺のスマホを指さし、涙声で叫ぶ。彼女は、それが別の「女」からの連絡だと勘違いしているようだった。


「違う、これは……!」


 説明しようとしたが、もう遅かった。真由美はわなわなと震えながら、近くにあったクッションを俺に投げつけ、そして、ベッドの上の羽毛布団をぐしゃぐしゃに丸め、力任せに俺の顔に叩きつけた。


「もう知らない! 最低!」


 最後の言葉を吐き捨てると、真由美は部屋を飛び出していった。バタン、とドアが閉まる音が、やけに大きく部屋に響いた。

 一人残された部屋。夕日が差し込み、部屋の中をオレンジ色に染めている。床に落ちたスマホの画面には、不在着信の通知がはっきりと見えた。


『春樹』


 俺は、しばらく呆然としていた。自業自得だ。真由美を傷つけ、失った。


 ……そして、この原因を作った、遠い記憶。


 俺はゆっくりとスマホを拾い上げた。画面を点ける。この連絡先が、この記憶が、まだ俺の中に残っているからいけないんだ。こいつが、俺を惑わせる。現実から目を背けさせる……!

 俺は、震える指でスマホを操作した。連絡先を開き、『春樹』の名前を見つける。そして、迷いを振り払うように、「削除」のボタンを押した。確認のメッセージが表示される。


『本当に削除しますか?』


 ――はい。


 画面から、その名前が消えた。あっけないほど簡単に。

 これでいいんだ。過去は消した。もう、迷うことはない。


 なのに、どうしてだろう。涙は一滴も出ていないのに、胸の奥が締め付けられるように痛くて、まるで泣いているような感覚に襲われた。息が詰まる。この、どうしようもない喪失感。この感覚を、いっそ涙がすべて押し流してくれればいいのに。そう、心の底から願った。


 ◇


 翌日のグラウンド。朝から降り続いた雨は上がっていたが、空気は冷たく湿っていた。練習着に着替え、フィールドに向かう。


「おっす、ゲンちゃん。なんか今日、雰囲気違うな。鬼気迫るって感じか?」


 吾妻さんが、俺の顔を見て少し驚いたように言った。目の下に隈ができている自覚はあった。昨夜はほとんど眠れなかったからだ。

 俺は、ただ短く答えた。


「俺にはもう、これしかないですから」


 ラグビー。この泥臭い肉体で、ボールを追いかけ、相手とぶつかり合うこと。それだけが、今の俺に残されたすべてだ。他のものは、もういらない。捨てたんだ。


 スクラム練習が始まる。俺は、これまで以上の集中力で、相手にぶつかっていった。歯を食いしばり、全身全霊で押し込む。痛みも、苦しさも、今はどうでもよかった。ただ、目の前の相手を制圧することだけを考える。


 もう二度と、あの少年のことを思い出さないように。

 もう二度と、迷わないように。


 自分の心を殺すように、俺はただ、泥と汗にまみれてボールを追い続けた。冷たい秋の風が、火照った体を容赦なく冷やしていく。それでも、俺は走り続けた。これしか、俺にはないのだから。

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