第10話「最初の選択」
朝の鐘が鳴った。
寮の窓から差し込む光が、机の上の封書を照らしていた。宰相府の紋章が押された公示通知。昨日の夕刻に届いたものだ。
本日をもって、アネリーゼ・フォン・グランツとジークヴァルト・フォン・ケーニヒスベルクの婚約は、国王陛下の裁可により正式に解消される。
公示は本日の午前中、学園の掲示板と王城の広報板に同時に掲出される手筈だった。当事者双方の合意書、両家の署名、宰相府の審査、国王の裁可。四段階の全てが完了した。手紙を父に出してから約一ヶ月半。手続きとしては異例の速さだった。宰相ヘルムートが加速させたのだろう。
封書を引き出しにしまい、制服に袖を通した。鏡の前に立つ。いつもの自分がそこにいた。公爵令嬢アネリーゼ・フォン・グランツ。今日から、王太子の婚約者ではなくなる。
胸の中は静かだった。悲しみも、解放感も、まだ形を結んでいない。ただ、自分が選んだことの重さだけが確かにあった。
鞄を手に取り、寮を出た。
朝の学園は普段と変わらなかった。生徒たちが授業棟に向かい、中庭を横切り、友人と言葉を交わしている。公示はまだ掲出されていない。今はまだ、誰も知らない。
けれどあと数時間で、学園中が知ることになる。
教室には向かわなかった。午前の授業は公示の日に限り出席免除の配慮がなされていた。宰相府からの通達に、その旨が記されていた。
私は図書館に向かった。
朝の図書館は静かだった。
開館直後の時間帯は利用者が少ない。受付の奥から、書架の間を移動する足音が聞こえた。ルーカスが朝の棚整理をしているのだろう。
「ルーカスさん」
私は受付の向こうに声をかけた。しばらくして、ルーカスが書架の間から姿を現した。手に数冊の本を抱えている。
「おはようございます、グランツ様。今日はお早いですね」
「おはようございます。書庫の鍵をいただけますか」
ルーカスは本を受付の棚に置き、台帳を開いた。私の名前と時刻を記入し、引き出しから鍵を取り出して差し出した。いつもの手順だった。
「ありがとう」
鍵を受け取り、書庫に向かった。
書庫の扉を開けた。
紙と革と、わずかな埃の匂い。窓から差し込む朝の光が、棚と棚の間に細い筋を描いている。いつもの場所。作業机。椅子。この数ヶ月間、私がここで過ごした時間は、学園生活の中で最も長い時間だったかもしれない。
鞄を机に置いた。椅子には座らなかった。
棚の奥から、足音が聞こえた。規則正しい靴音。本を棚に戻す微かな音。
ルーカスが書架の間から現れた。手に数冊の本を抱えている。受付の業務を一区切りつけて、書庫の整理に来たのだろう。私を見て、足を止めた。
「少し、話してもいいかしら」
「はい」
ルーカスは本を棚の端に置き、姿勢を正した。私たちの間には作業机がある。いつもの距離。いつもの配置。けれど今日は、その距離が少し違って感じられた。
「今日、婚約解消の公示が出ます」
ルーカスの表情は変わらなかった。けれど、わずかに息を吸ったのが分かった。
「私はこの学園で、たくさんの人の本当にやりたいことを聞いてきたわ」
言葉が、自分の中から出てくるのを待った。用意していた台詞ではなかった。今この瞬間に、自分の中にあるものを探して、言葉にしようとしていた。
「クラウス様に問いかけた。セバスティアン様に道を示した。エルヴィラさんの答えを引き出した。殿下にも、本当にやりたいことを見つけてほしいと伝えた」
ルーカスは黙って聞いていた。
「でも、自分自身に同じ質問をしたことがなかった」
声が少し震えた。自分でも驚いた。前世のカウンセラーとして、何百人もの相談者の前で平静を保ってきた。けれど今、この書庫の中で、一人の司書補の前で、声が震えている。
「あなたの隣にいる時間が、一番静かで、一番考えがまとまる。それだけ伝えたかったの」
ルーカスの手が、棚の端に置いた本の上でわずかに動いた。
沈黙が落ちた。書庫の外で、学園の時計が時を刻む音がかすかに聞こえた。朝の光が少しずつ角度を変え、棚の影が移動していく。
「僕は司書補です」
ルーカスの声は静かだった。いつもと同じ、感情の色が薄い声。けれど、その薄さの中に、押し殺された何かがあった。
「公爵令嬢にそう言われても、僕には何もお返しできるものがありません」
「ルーカスさん」
「身分が違います。立場が違います。僕が何かを申し上げること自体が、あなたの名誉を傷つけかねない」
ルーカスの視線は棚に向いていた。私を見ていなかった。
その横顔を見て、私は理解した。ルーカスは私の言葉を拒絶しているのではない。受け入れたいのに、受け入れることが許されないと思っている。
彼の父は貴族の不当な商取引で命を落とした。貴族全般への警戒心がある。それでも私に対してだけは警戒が溶けていった。そのことへの苛立ちが、彼の中にあることも知っている。
けれど今、この瞬間に、私がそれを言葉にすることはできなかった。彼の過去に踏み込む権利は、まだ私にはない。
「何もお返ししなくていいわ」
ルーカスが顔を上げた。
「私はただ、ここにいる時間が好きだと言っただけ。それ以上のことは求めていない」
ルーカスは私を見た。長い沈黙があった。書庫の空気が、二人の間で静止しているようだった。
やがて、ルーカスは棚に置いた本の中から一冊を手に取った。
古い革装丁の本だった。背表紙の文字はかすれて読みにくい。サイズは手のひらより少し大きい程度。長く読み込まれた本特有の、柔らかい手触りが見て取れた。
「これは」
「僕がこの図書館で一番好きな本です」
ルーカスの声が変わった。いつもの事務的な声ではなく、もっと低く、もっと静かな声。
「お貸しします。返却期限はありません」
ルーカスが本を差し出した。両手で、丁寧に。
私は受け取った。手が震えていた。
本を開くと、最初のページに貸し出しカードが挟まれていた。図書館の蔵書に付属する、紙の記録カード。そこには借り手の名前と日付が記入されている。
ルーカス・ヘルダー。
同じ名前が、何行にもわたって並んでいた。日付は数年前から始まり、数ヶ月おきに記録されている。何年も、彼だけがこの本を借り続けていた。
「ルーカスさん」
「僕にお返しできるものは、これしかありません」
ルーカスは一歩下がった。姿勢を正し、わずかに頭を下げた。司書補から利用者への、規範通りの礼。けれどその目は、規範の中に収まらないものを湛えていた。
私は本を胸に抱いた。
革の表紙が温かかった。ルーカスの手の温度が残っているのか、それとも書庫の空気がそうさせているのか、分からなかった。
言葉にはならなかった。ありがとうとも、嬉しいとも、まだ言えなかった。ただ、この本の重さと温かさが確かにあった。
ルーカスは棚の奥に戻っていった。規則正しい靴音が遠ざかる。本を棚に戻す音が再開された。
私は椅子に座った。本を机の上に置いた。
手帳は開かなかった。今日は記録する日ではなかった。
窓の外から、学園の鐘が聞こえた。午前の授業の開始を告げる鐘。同じ頃、掲示板に公示が貼り出されているはずだった。
アネリーゼ・フォン・グランツとジークヴァルト・フォン・ケーニヒスベルクの婚約解消。
学園中がざわつくだろう。噂が飛び交い、憶測が生まれ、様々な視線が私に向けられるだろう。
けれど、この書庫の中は静かだった。
棚の奥で、ルーカスが本を整理する音が続いている。いつもと同じ音。いつもと同じ空間。けれど、机の上には一冊の本がある。数年分のルーカスの名前が刻まれた貸し出しカードを持つ、古い革装丁の本。
直接的な告白ではなかった。身分を越えた言葉は、彼の口からは出なかった。けれど、自分にとって最も大切なものを差し出すという行為が、どれほどの意味を持つのか、私には分かった。
恋だと断言する自信はまだなかった。けれど、この人の隣にいたいという感情は確かにあった。それは信頼よりも深く、友情とも違う。名前をつけるにはまだ早い。けれど、手を伸ばしたいと思った。自分の幸せに、初めて手を伸ばそうとしている。
私はずっと、誰かの幸せを設計する人だった。前世でも、この世界でも。クラウスの居場所、セバスティアンの道、エルヴィラの選択、殿下の目覚め。全て、他者のための設計だった。
けれど今日、この書庫で、私は自分自身のために一つの感情を受け入れようとしている。
本の表紙に指先で触れた。革の感触が、静かに手のひらに伝わった。
鐘の音が遠くで鳴り止んだ。書庫の外では公示を受けた学園がざわめいているだろう。けれどここは静かだった。ルーカスの靴音と、本が棚に収まる音だけが、規則正しく響いている。
私は本を鞄にしまった。大切に、手帳の隣に入れた。
椅子から立ち上がり、書庫を出る支度をした。午後には教室に戻らなければならない。公示後の周囲の反応にも対処が必要だ。マティルダとの打ち合わせもある。
けれど今はもう少しだけ、この書庫にいたかった。
窓から差し込む光が机の上を横切り、鞄の中の本の背表紙をかすかに照らしていた。
(完)
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