第13話 音弥の花
コンクールが始まると、さすがにロビーにいる人は誰もいなくなった。
客席の扉は二重構造だ。中の演奏が外に漏れ聞こえてくることはない。たまに出入りする人はいるが、それでも中の音は聞こえない。
ギリギリまで待って、一葉は客席に入ることにした。
やっぱり、ダメだったか―――。
もしかしたら、と音弥がロビーに現れるのを待ったが、その姿を見つけることはできなかった。
内側の扉を開けたところで、拍手が聞こえた。
壇上では、たった今演奏を終えた奏者が舞台中央のピアノから離れ、客席に深くお辞儀をしているところだった。その奏者が舞台袖に引いていく間も拍手は鳴り続けている。
一葉は中に入って客席の階段を一段降り、最後列の席を通路から二、三席中に入った。一つ息をついて、そこに座る。
会場中を見渡すが、当たり前だが音弥の姿はどこにも無い。
もはや色を持たない程の金髪と左右いくつも開いたピアスは、どこにあっても目立つ。客席の照明は落とされているとはいえ、そう易々と見落とすとも思えない。
もう一度短く息をついて、一葉は周りの様子をうかがった。
今は何番目の演奏者だ。
始まって二十分程が経っているが、一人の演奏時間がだいたいどれくらいのものなのか分からない。
客席はほぼ満席だが、最後列のこの辺りはわりと空いている。近くにそんな会話をしているような人もいないので、うかがい知ることもできない。
会場に次の奏者を迎える拍手が鳴った。その奏者が壇上を中央に進むのに合わせて、「エントリーナンバー四番、―――」と放送が入る。ああ、奈菜子ちゃんはこの次か―――と思ったところで。
「一葉くん」
視界の隅に映っていた階段を一段降り、足が隣に入ってきたのが見えた。その足はそのまま一葉の隣で止まり、跳ね上がっていた客席の椅子を倒してそこに腰を下ろす。
「―――怜さん」
ピアノの前に座った四番目の奏者が、演奏の前に精神を統一するように呼吸している。会場にはしんとした時間が流れていた。
最後列とはいえ、声は自然小さなものになる。
壇上でその奏者がゆっくりと鍵盤に手を置くのを眺めながら、怜は腕と足を組んだ。
「奈菜子ちゃんの出番はこの次か」
「―――そうですね」
返事にいちいち間が入ってしまうのは、どういう顔で返せばいいか、一瞬考えてしまうからだ。
出場者の家族なのか、親にピアノを習わされている関係なのか、二つ前の席にはきちっとした服を着た小さな兄弟が並んで座っているのが見えていた。
幼い兄弟に、知り合いでもなんでもない相手の演奏を黙って聞き続けることはまだ難しいだろう。演奏が始まる中、二人で何やら小突き合っているのが見える。
「枳殻さん、会った?」
話を変えた怜の顔が審査員席の方に向けられるのを見て、一葉もそちらに目を向ける。
前と後ろ、中央を横断する通路を挟んで、ホールの客席は大きく二つに分かれている。その通路のすぐ後ろ一列目の真ん中が審査員席になっていた。壇上が一番見やすい場所だ。恐らく、演奏も一番よく聞こえる場所なのだろう。
「はい、始まる前に」
依頼を受けた怜がそれを知らないわけがない。そのことに、今さらながらに気付いた。
演奏はもう始まっている。滑り出した軽やかなリズムを聞きながら、一葉は返した。
「―――吉野さんのご家族だったんですね」
ああ、と頷いた怜の目は、遠くの奏者に向けられたままだ。
「そういえば、言ってなかったね。仕事の無い水曜の昼過ぎだけ、奥さんがお見舞いに行ってるらしいよ」
「そうみたいですね。聞きました」
小突き合う前の兄弟を、隣に座った母親らしき女性が叱っている。一旦は頷き静かになるが、母親が目を前に戻したところで、弟の方が再び兄を小突くのが見えた。
喧嘩をしているというのではない。じゃれているという様子だ。
それを見ているうちに、演奏はクライマックスに入り、四番目の奏者が最後の一音を踏んだ。会場が再び拍手に包まれる。
聞いていなかったくせに、母親に顔を向けられて兄弟も一緒に拍手を送っているさまがおかしかった。
隣の怜は、ただ前を向いているだけで、組んだ腕を解いて拍手を送るようなことはしない。
その怜が、さてと、と言って腕と足を解いたのは、四番目の奏者が壇上から消え、拍手が終わった頃だ。
「奈菜子ちゃんだな」
怜が座り直すのと同じように、審査員席の方でも幾人かが姿勢を前のめりに変えたのが分かった。それは、注目している奏者の前に、居住まいを正したようにも見える。
遅くとも、このタイミングまでに来ていないと、依頼の花は渡せない。
再びざっと辺りを見回すが、やはり見えるところに音弥の姿は見つけられない。
会場は暗い。この客席のどこかに音弥がいるかどうかは、分からない状態だった。
「大丈夫だよ」
「―――え?」
怜は相変わらず前を向いたままだ。その横顔は静かで、自分の言葉を全く疑っていないという様子だった。
「花は届く」
何を。音弥がここに来ているかどうかも分からないのに。
「―――音弥さん、来てるんですか?」
「さあ、どうだろうね。でも、音弥はあれで、そんなに無責任なやつじゃないから」
多分、大丈夫だと思うよ。
言って、口元に笑みを浮かべる。
ざわざわとしていた会場が急に静まり返った。同時に「次は、エントリーナンバー五番、小田桐奈菜子さん。曲は―――」というアナウンスが流れる。
壇上に登場した奈菜子が中央に向かうのに合わせて、大きな拍手が起こった。
深く礼をした奈菜子が鍵盤に向かい、会場は再び静寂に包まれる。
「―――楽しみだね」
呟かれた怜の言葉に合わせて、奈菜子の演奏が始まった。
そして―――……、その、終了後―――。
怜の言葉通り、依頼の花は届けられた。
それまでと比にならない程の大きな拍手が鳴り続け、会場中スタンディングオベーションになる中、客席の階段を下りていく一人の姿が見えた。
明るい髪色に左右いくつも開いたピアス。顔を見なくても後ろ姿だけで分かる。
日本でも屈指だというコンクールの場にはあまりにも不釣り合いな恰好をしたその男は、拍手喝采の中を堂々と下りていき、壇上のピアニストに花を差し出した。
大きな花束などではない。太陽のような大輪の一輪花だ。
音弥は、その一輪花を真っ直ぐに奈菜子に差し出した。
それぞれにいろんなものを抱えながら、それでも花を手配する。
【4th Flower】を経て、一葉はそこに何を見るのか。
そして、最後の花へと続きます。




