第12話 コンクール当日
結局、何もできないまま、コンクール当日を迎えてしまった。
アーティストのコンサートや大きな楽団の演奏会も行われているという、驚台の大ホール。
最大で五千人を収容できるというホールのロビーは、出場者やコンクール関係者、観覧の人々などでごった返している。
コンクール開始前の高揚した空気の中、一葉は一人、重いため息をついていた。
個人的な問題から逃げるために、依頼を利用した。
とにかく音弥に花を用意させる。この数日、ただその一念のみで、音弥に詰め寄り続けた。
策も何もあったものじゃない、馬鹿の一つ覚えのようなそんなやり方でも、そうしている間は他のことを考えなくてよかったからだ。
だが結局、こちらも中途半端だ。依頼主である奈菜子は覚悟を決めて花を依頼したに違いないのに、自分がそれを潰してしまった。
コンクールの開始まで、あと一時間程。奈菜子の出番は五番目。開始すぐの演奏だ。
その覚悟が無駄になるまで、すぐだ。
一葉は思わず舌打ちをしていた。
何が、大丈夫だよ、だ。力不足としか思えない仕事を丸投げしておいて、無責任にも程がある。
―――いや、違う。
自分の力不足を棚に上げておいて、それを命じた人間を責めるのはお門違いだ。八つ当たり以外の何ものでもない。
再びため息をついていると、ロビーの端で何台ものカメラとマイクを向けられている出場者が見えた。
優勝の有力候補なのかもしれない。その中に、奈菜子がいるのが見える。
他の候補者が笑顔で答える中、濃い青のドレスをまとった奈菜子は、いつもと変わらない無表情だ。その奈菜子と、取材陣の壁越しに目が合う。
はっきりと一葉の姿を捉えた強気の目は、それで全て察したように見えた。
だが、そこに陰りが表れることはない。
奈菜子はあくまで奈菜子のまま、目の前のカメラを見据えている。
それで、ああ―――、と一葉は気付いた。
どんな結果になっても動じない。それが奈菜子の「覚悟」なのだ。
対して、自分はどうか。
思っていた時、「―――あら、あなた」と後ろから声をかけられた。振り返ると、ちょうど近くの部屋に入ろうとしていた女性がこちらを向いて首を傾げている。
その女性を見て、入ろうとしているそこが審査員の控室であることが分かった。
「―――ああ、どうも」
先日も、病院で会った。枳殻夫妻の奥さんの方だった。
「こんなところでお会いするとは思っていなかったわ。どなたかの応援かしら」
病院で会う時より幾分かきっちりした格好で、奥さんが笑う。
「ああ、はい。ちょっと、知り合いが出てまして」
「そう、それは楽しみね。私はこのコンクールに審査員として関わっていて、それでね」
優しい笑顔で言う奥さんに、少しの間を空けて「―――あの、」と少し遠慮気味に尋ねる。
「吉野さん、あれから大丈夫ですか?」
先日の見舞いで荒れていた吉野さんのことが、ずっと気になっていた。あのあとまた見舞いに行ったが、面会謝絶になっていて会うことができなかったのだ。
尋ねた一葉に、しかし奥さんは「ああ、母ね」と表情を和らげた。
「母なら大丈夫よ。少し体調を崩していて念のため様子を見ていたのだけど、今はもう落ち着いたから。またお見舞いに来てくれると嬉しいわ」
「そうなんですね、よかったです」
息をついた一葉に「心配してくれてありがとう」と笑う。だが、言ってから目を伏せ、その笑顔を少し寂しそうなものに変えた。
「孫を失くしてから、母はずっと体を壊していてね。病は気からって言うでしょう? 私たちは違うって何度も言ってるんだけど、母はそのことでずっと自分を責めていてね。それで―――」
言いかけて、奥さんはそこで言葉を止めた。そして「あらやだ、私ったら」と顔を上げる。
「ごめんなさいね、こんな込み入った話をしてしまって。そんな話をされても困るわよね。忘れてちょうだい」
思わず話してしまったことを打ち消すように首を振る奥さんに、一葉は「いえ、気にしないでください」としか返せない。
失くした孫―――、きっと最初に見舞いに行った時にも手にしていた、あの写真の男の子だ。
そして、思いながら気付く。吉野さんにとって孫ということは、奥さんにとっては「子ども」だということだ。
そういえば、自分と同じくらいの子がいると言っていた。だが、もうしばらく「会っていない」と言っていなかったか。
それはどういうことだろう―――。
思っていたところで、「舞衣子――、」と後ろから声がかかった。審査員用控室から、眼鏡をかけた細身の男性が顔をのぞかせている。
気難しそうな男性だ。あえてそこに力を入れているわけではないのだろうが、眉間には刻まれたまま消えなくなってしまったようなシワが寄っている。
たしか、枳殻進三。枳殻夫妻の旦那さんの方だ。
「そろそろ事前会議だ」
「ええ、分かったわ。―――ごめんなさい、話が途中になってしまったけど、そろそろ行かなくちゃ。では、またね」
軽く頭を下げ、奥さんも控室の方に戻っていく。扉のところにいた旦那さんは厳格な顔をしたままそれを迎え入れ、こちらを向いた。
通り過ぎ間際に、「病院にいつもお見舞いに来てくれている子よ」というような説明を奥さんが入れたのが聞こえた。
再びこちらに視線を寄越した旦那さんに首だけ軽く下げると、小さな会釈が返ってきた。
そのまましばらくこちらを見ていた旦那さんは、やがて控室の中に入っていった。




