第1話 花屋の朝
一月も半ばになれば、世の中は通常運転に戻る。
平日の驚台の朝は、そうではない時と比べて驚く程に人通りが少ない。日中になればもう少し賑やかになるが、「朝方」にギリギリ入るようなこの時間は、駅に向かう人も、駅から出てくる人もまばらである。
にも関わらず、駅前の交差点にはティッシュ配りに立つ人の姿が絶えない。受け取る人も大していないようなそんな場所で、この人たちは一体何を広めるためにそこにいるのか。
そんな駅前を通り過ぎ、踏切を渡って反対側へ向かう。
雑居ビルの階段を最上階まであがり、一葉が安っぽいドアを開けると、中は既に暖まっていた。
花屋で働き始めて既に二週間程。暖房のスイッチを入れてから稼働するまでに、時間を要することは知っている。加えて、入り込む隙間風のせいで、事務所内が暖まるまでにはさらに時間がかかることも心得ている。
すっかり暖かくなっている中の様子に、先に来ていたその人物が随分早い時間から来ていたのだろうことがうかがえた。
一葉が中に入ると、応接スペースで新聞を広げていた怜が、ふっと顔を上げた。
「―――ああ、一葉くん。おはよう」
「おはようございます」
ローテーブルの上にあるのは、湯気の揺れるコーヒー。足を組んで新聞を読む様子は、見た目にもくつろいでいる。
いつも一葉より早い万年青はまだ来ていないようだ。他の二人も、やって来るのはたいてい、もう少し日が高くなった頃になる。
花屋はまだ、朝の気配にしんとしている。
「早いですね」
ダウンジャケットを脱ぎながら、そんなことが口をついて出た。
時刻は八時半過ぎ。ようやく昇った朝日が、眩しく花屋を照らしている。
「一葉くんこそ、早いね。いつもこんな時間に来てるの?」
「いえ、俺はたまたま早く目が覚めたので。怜さんは、仕事の依頼ですか?」
怜でいいよ、と言われたのは花屋で働き始めてすぐの頃だ。「社長」と呼んだところに、そう言われた。
いいのか、それで―――と一応思いはしたが、本人にそう呼べと言われているところ、断る理由も特にない。そのため、一葉は怜のことを「怜さん」と呼んでいる。
怜が花屋に来るのは朝の遅い時間であることが多い。昼を過ぎることはザラだし、一日通して顔を出さないこともよくある。
ふらっとやって来て、ふらっといなくなる。二週間経って、それがどうやらこの花屋の社長の習性であるらしいことが分かってきた。
早いですねと言ったのは、単純に時間的な意味でのものよりも、こんな時間にここにいることに驚いたという、そっちの理由からくるものの方が大きかった。
一葉が聞いたことへの正確な意図を読み取ったのだろう、怜は思わずといった様子で苦笑する。
「うちに来てまだ二週間くらいだっけ。そんな一葉くんに言われるようじゃ、社長としてダメだね」
「別にいいんじゃないですか? それで上手く回ってるなら」
言ったのは当然、社長がいなくても花屋が上手く回ってるなら、という意味である。それにもやはり怜は、そうだね、と苦く笑った。
実際、花屋はそれで問題無く回っているようだ。時折入る大口の依頼を除けば、花屋の仕事は基本が細々とした小さなものばかりだった。
例えば、「庭に植える花(実質的には、庭を手入れして花を植えられるようにすること)」「床の間に飾る花(こちらは、代わりに花を活けること)」というような、言ってしまえばその場限りの、一個人への対応のみで済むものばかり。
扱っている花は「用途の花」―――、最初の日にそう聞いていたが、その括りは随分幅が広いようだ。
そして、そうやって入る依頼のほとんどが、手が空いた時に駅前で配られるチラシを見て入ったもので、頻度としてもせいぜい週に一、二件と、そう多くはない。それゆえに、怜がいなくとも音弥や菫だけで何とかなる場合がほとんどのようだった。
では怜が何もしていないのかと言うと、それは別にそういうわけでもなく、やはり花屋の大部分を支えているのは社長である怜であることに変わりはない。
花屋の儲けを支えているのは、怜がどこかから持ってくる大口の依頼で、その依頼が入れば数百万の大きな金があっちからこっちへ動く。
それをどういう風に持ってきているのか、一葉には分からない。―――というより、そもそもそれらの依頼自体、実際に目にしたものではなく、資料上のものをさらっただけだからだ。
この二週間、一葉の基本的な仕事といえば、掃除や片付けなど、花屋の雑務全般となっていた。
花屋のこれまでの仕事について知れたのは、適当にファイルに突っ込まれただけの過去の案件の資料を整理したからである。
ばさり、と紙面を払って、怜が読んでいた新聞を畳む。それを横に置き、今度はこの地域の情報誌を手に取って読み始める。新聞と併せ、今朝郵便受けに投函されたものだろう。
どんなに遅く来ても、または翌日になっても、怜は新聞と情報誌にだけは必ず目を通す。むしろ、怜がこの花屋に来てしていることといえば、それらのチェックか、万年青が買ってきた茶菓子を頬張ることくらいだ。
「あ、日本ピアノコンクール、枳殻夫妻が特別審査員をすることになったんだね」
情報誌を開いていた怜が、感心したように言った。
今日は確か燃えるごみの日だったはずだ。この辺りはごみの回収時間が極めて遅い。昼を過ぎても、平気で収集場所に置かれたままになっている。
万年青が来てからでもいいが、先に出しておこうと思い、ごみ箱のあるパーテーションの向こうに一葉が行きかけた時だった。
「日本ピアノコンクール?」
「日本でも五本の指に入る、権威と伝統のある音楽コンクールだよ。今活躍してるピアニストのほんどが、過去このコンクールで優勝か上位入賞を果たしてる。毎年驚台で開かれてるんだ」
「へえ、そうなんですね」
そんな大きなコンクールをこの街でやっているとは、知らなかった。
「その枳殻夫妻っていうのも、有名な人たちなんですか?」
「あれ、一葉くん知らない? 枳殻夫妻」
「いえ、特に」
「夫婦揃って世界的にも有名な音楽家でね。ああ、驚台に結構大きな音楽大学があるのは知ってる? ずっと海外で活動してたんだけど、ちょっと前から、二人揃ってそこで客員教授をしてるんだ」
驚台の音楽大学といえば、その道を目指す人々にとっては、東大や京大のような場所だと聞いている。
「しかも、二人ともこの街の出身だから、古くからここにいる人間であの二人を知らない人はいない」
「そんなに有名な人たちなんですね」
「ま、驚台が誇る人たちだからね。あの夫妻のことは知っておいた方がいいよ」
怜がそう言ったところで、ガチャリとドアが開いた。入ってきたのは万年青だ。
「おや、お二人とも早いですね」
「万年青さん、おはようございます」
足を組んでもたれていたソファから体を起こして、怜がコーヒーの揺れるマグカップを軽く持ち上げる。
「豆が切れてたので、その辺のものを適当に使っちゃいました。すみません」
「ああ、それはすみません、補充が遅れまして。今ちょうど買ってきたところなんです」
掲げられた万年青の手には、瓦屋珈琲で買ったと思われる袋が下げられている。駅前にあるコーヒー専門店だ。
瓦屋珈琲は昔ながらの純喫茶を併設している店だが、他にはそうそうない程、幅広い種類の豆を扱っているらしい。花屋で出される珈琲のほとんどは、その瓦屋珈琲で購入したものなのだと聞いた。
万年青は申し訳なさそうに言いながら応接スペースを横切っていくが、時刻はまだ九時前だ。花屋の稼働がだいたい十時頃であることを考えると、十分に早い。
厚いコートにマフラーをきっちりと巻いたまま、まだ皮手袋も外していない万年青に、「俺がやりますよ」と後ろを追いかけたところで、「そうだ、一葉くん」と怜に呼び止められた。
「急で悪いんだけど、一葉くんに頼みたい仕事があるから、あとで一緒に来てもらってもいいかな」
瓦屋珈琲は、驚台にある知る人ぞ知る珈琲の名店です。
小さなお店ながら世界中の珈琲豆を扱っており、マスターが直接現地に足を運んで選んだこだわりの豆を販売しています。
常連には少しサービスをしてくれたり、新しい豆の入荷予定を教えてくれるなど、客の好みに合わせた丁寧な対応にも定評があります。




