7
「森の外に、あんなに大きな街が……」
私は茫然と呟いた。目に映る光景が信じられない。
私はしばらく自分の頬をつねったりしてこれが夢でないことを確かめていたが――つねるたびにモーディに止められたけど――、街が目の前に迫ってきたところで、やっとこの喜ばしい現実を受け止めた。
「やった……。本当に街がある。普通の街だ……!」
日本の街とは違うけど、ヨーロッパの古い街のような建物が並んでいて、特別奇妙な感じはしない。雰囲気も明るく活気がある。
こんな街を作る技術があるなら、私が今心から欲しいと思っているものも売っているに違いない。
すなわち、替えの服や下着と、石鹸、それに果物や木の実以外の食べ物だ。
「文化がある! ここには文化があるのね!」
原始的な生活をしていた私にも文化的な生活が戻ってくるかも、と思いながらモーディに抱き着く。
「ブォ」
モーディは最初は照れている感じだったけど、感激するあまり私が抱き着き続けていたら、理性の堤防が決壊したみたいで、きつく抱きしめ返されたあげく、もふもふの頬をスリスリスリスリ擦り付けられた。
「モーディ、あの……」
あげくにペロペロ顔を舐められ続けたので、最終的に私が彼を止めることになった。
「早く街に入ろうよ」
私はモーディに地面に降ろしてもらうと、自分で歩いて街に入った。モーディはまだ嬉しそうにフンフンと鼻を鳴らしながら、私のすぐ側を歩く。
そして街を見渡すと、私はさらに嬉しい発見をすることになった。
「人間がいる……!」
街を歩く人の中には、私と同じ人間もいたのだ。人種は白人っぽい人もいれば、褐色の肌の人もいるし、服装も古い時代のヨーロッパのような、あるいはゲームの中の冒険者や旅人みたいな恰好をした人もいる。だけどみんな、人間だ。
とは言え、人間ではない住民もかなり多い。獣の耳やしっぽが生えた獣人が特に多いようだけど、両生類や魚類と人間のハーフみたいな生き物もいれば、モーディみたいに二足歩行のなんとも説明しがたい怪物もいる。
だけどみんな、ここで穏やかに暮らしているみたい。パッと見た感じ、どこでも争いや小競り合いは起きていないし、雰囲気が平和なのだ。
「見たことない生き物はいっぱいいるけど、みんな知的で穏やかそう」
人間は珍しくないようで私の存在も悪目立ちしていない。ズボンを穿いている女性はあまりいないらしく、そこはちょっとチラチラ見られたりしたけれど。
「わぁぁ……! 美味しそうなものもいっぱいあるね!」
私はよだれを垂らしそうになりながら、街の大通りに並ぶ屋台を眺めた。屋台はたくさんあって、パンやチーズ、干し肉、果物などの食材を売っているところもあれば、料理――煮込み料理や簡単な炒め物、揚げ物、サンドイッチやスイーツ――を売っているところもある。
料理に使われている穀物や野菜、肉、魚介類などは、パッと見た感じ地球にあるものと変わらない。西洋料理のようなものが多く、日本食は見当たらないけど、それでもいい。ちゃんとした料理が食べられるだけで十分だ。
(……待って。私、この料理食べられるの?)
ふと冷静になって考える。
(だって、お金がない)
そして絶望した。目の前に心から求めていた食べ物があるというのに、食べられないなんて。
「なんてこと……」
しかしがっくりと肩を落とす私の手を引いて、モーディはとあるお店に入って行った。
扉はモーディにとっては少し小さめなので、頭を下げて体を斜めにしながら入店する。
そこは小さな店だったけど、内装や調度品には高級感があり、きちんとしていた。
「何のお店?」
一見して商品は見当たらない。
私は戸惑ったが、モーディは慣れた様子で店の奥のカウンターに向かい、そこに立っていた初老の紳士に声をかけた。
彼は体や顔は普通の人間のおじいさんだが、頭には黒い猫耳がついている。
「kankinwo」
相変わらず渋い声だ。
そしてモーディは自分のポケットからきらりと光る何かを取り出し、それをカウンターに置いた。
「あ、それって……」
それは子供の拳くらいある金塊だった。
そう言えばこの世界が嫌になった私が悲しみに浸っていた時、モーディは私を元気にしようと色々なものを運んできた。そこには金塊や宝石もあったのだ。
あの森では、そういう価値のあるものも転がっているのかもしれない。
しかし店主の男性は、モーディが持って来た金塊を見て顔をしかめた。
そして首を横に振って金塊をモーディに返す。
「konnadekaimono、utijyakankindekinyo。mottoookinamisedenaito」
「……jya、kotti」
大きな金塊を返されたモーディは、それをポケットに仕舞うと、今度はもっと小さな金の粒を差し出した。
すると店主の男性は、今度は受け取ってくれた。そしてルーペでその金の粒を軽く調べ始める。
「もしかしてここ、換金所?」
私が思わず呟くと、猫耳の初老紳士はちらりとこちらを見た。
「doumo、ojyousan」
軽くほほ笑まれたので、何となく挨拶されたような気がする。だから私も言葉は返せないけど、会釈しておいた。
「kanojyo、kotobaha?」
店主は今度はモーディに向かって何か尋ねたが、モーディは首を横に振る。
すると店主は金の粒を一旦カウンターに置き、モーディに笑いかけた。
「antagajyoseiwoturetekurunante、odoroitayo」
うーん、相変わらず何を言ってるのかさっぱり分からない。
でも、店主の男性は以前からモーディとは親しくしていたのかもしれない。何だかそんな雰囲気を感じる。モーディはいつもこの店で金や宝石を換金していて、二人は顔見知りなのかも。
「koibitogadekitanara、naniyorida」
「……ブォ」
モーディは店主に言葉を返すことなく、鳴いて応えた。何だか照れているような、恥ずかしがっているような鳴き方だ。
何を言われたんだろう? と私が疑問に思っているうちに、店主の男性はお金を用意してくれていた。見たことない紙のお金が二十枚くらい。これでいくらなんだろう?
すると店を出たモーディは、そのお金で私にたくさんの物を買ってくれた。
まずは飲食店に行って、モーディが山盛りの果物を注文する一方、私はビーフシチューのようなものとパン、サラダを食べた。ビーフシチューはお肉がとろとろでほっぺたが落ちそうになるほど美味しかったし、パンも焼きたてで香ばしく、サラダも新鮮なものだった。
久しぶりのちゃんとした食事に私が感動していると、店を出た後もクッキーやドーナツ、チョコレートを買ってくれた。
たくさん買ってくれたので、食べられなかった分は森の洞窟に持って帰るつもりだ。
それに、私が服屋さんの前で「これ可愛い!」と服を指させば、それも買ってくれた。私が欲しそうにしたもの全て買ってくれるのだ。新しい下着や靴下も買ってもらった。
歯ブラシや石鹸、洗濯用の桶など、日用品も色々買ってもらったし、荷物は全部モーディが持ってくれた。
しかもこの街にはお風呂屋さんとオイルマッサージが合体したようなお店もあったので、そこも利用した。
さすがにモーディのお金を使いすぎてると思って遠慮したのだが、人間の女性がオイルマッサージされているイラストが描かれた看板を見た私が、「あれってマッサージ……?」と目をキラキラさせてしまったので、モーディに店に押し込まれてしまった。
私が喜ぶと、モーディも嬉しいみたい。
お風呂に入ってさっぱりした後、オイルマッサージで髪まで全身艶々になり、疲れも一気に取れて、私は晴れやかな顔で店から出た。服や下着も新しいものを身につけたのだ。
「モーディ、ありがとう! 何かもう……全部満足した! 全部!」
ちゃんとした食事でお腹も満たされ、スイーツで精神的にも満たされた。それに欲しいものはほとんど全て手に入ったし、体も清潔になった。
私がずっとニコニコしているので、モーディも満足気に目を細めている。
「モーディってすごく優しいし、強いし、何でも買ってくれるし、もしかしてスパダリってやつじゃない?」
森への帰り道、私は笑ってそう言った。スーパーダーリン、略してスパダリだ。
だけどそこで自分の発言にハッとする。
「待って、ダーリンって私……」
モーディのこと、自然にダーリンだなんて言ってしまった。
「モーディは人間じゃないのに」
でもこの街では、違う種族だけど恋人や夫婦っぽい雰囲気の二人を見かけることもある。種族が違ってもそういう関係になるのは珍しいことではないみたい。
「モーディがダーリン……」
自分の発言に戸惑う。私はモーディを異性として見ていたの?
分からないけど、モーディは私にとって、もはやただの怪物でなくなっているのは確かだ。モーディには知性があって、情があって、ちゃんとした人格がある。
それも優しくて頼りになって、時々可愛い、そんな素敵な人格が。
「モーディがダーリン……」
私はもう一度呟く。
今はまだ、自分の気持ちは分からない。モーディのことは好きだけど、恋をしているのかと聞かれるとたぶん否定する。
でも、このまま彼とずっと一緒にいたら、いつかモーディのことを本当に好きになる時がくるような気がした。
それくらい、モーディは素敵な人なのだ。
それから私はどうなったかと言うと、結局いつまで経っても日本へは帰れないままだった。
だから両親や友達のことは時々夢に見るし、寂しい気持ちになる時もある。
でも、この世界でも私は楽しくやれている。だってこの世界にも街があり、美味しい食事や可愛い服、便利な日用品、娯楽が揃っているからだ。
もちろん日本ほど便利ではないし、日本食が恋しくなることもあるけれど……。
しかし今、もし日本に帰れることになったとしても、私は迷うだろう。
それはここにモーディがいるからだ。モーディといると本当に落ち着くし、楽しいから。
彼は私に好意を持ってくれているようだけど、人間の恋人とは違って、キスをすることもそれ以上の行為を迫ってくることもない。
それが私には安心で、心地よかった。
ただ一緒にいて、笑い合って、時々ハグをしたり、くっつきあって眠ったりする。そんな穏やかな関係でいられるから。
そうそう、モーディと言えば、なんと私のために森の中に家を建ててくれた。モーディは自然が好きなようだけど、街へ行くたびに喜ぶ私を見て、私は人工物も好きなんだって分かってくれたみたい。
ある日ノコギリや釘、金槌などを買ってきたかと思ったら、木を切り倒して一人でコツコツ作り始めたのだ。
完成までは時間がかかったけど、小ぶりで素敵なログハウスが建った。家まで作れるなんて本当にスパダリだ。釘を口に咥えて丸太をかついでいる姿は本当に格好良かった。
日本の友達に話したら絶対におかしいと言われるだろうけど、私はモーディを真面目に愛し始めていた。
モフモフで可愛くて好きとかじゃなくて、普通に格好良いなと思うようになってきたのだ。
「これからも一緒にいようね」
私はそう言いながら、私の隣で大きなベッドに寝転んでいるモーディの鼻の頭にキスをする。
すると、モーディは照れたように低い声で笑った。
この渋い声も、やっぱり好きだなぁ。