第24話:休日の逆転エスコート
梅雨の訪れを予感させる重い湿気はどこへやら、土曜日の朝の空は、抜けるようなコバルトブルーに洗い清められていた。
南向きのリビングの窓から差し込む陽光は柔らかく、フローリングの木目を飴色に輝かせている。
藤堂葵は、休日の朝特有の気だるさを引きずりながら、洗面台の鏡の前に立っていた。
首筋に手を当てる。
先週の初めにはあれほど鮮烈な赤紫色を誇っていた鎖骨の上のマーキングは、一週間という時間の経過とともに、淡い赤褐色へと薄れ始めていた。完全に消え去ったわけではないが、薄付きのコンシーラーを軽く叩き、首元に華奢なアクセサリーを添えれば、もうタートルネックで息苦しい思いをして隠す必要はなさそうだった。
(……やっと、息ができる)
葵は小さく息を吐き出し、胸を撫で下ろした。
平日の五日間は、まさに精神的な耐久レースだった。
オフィスでは同期の結城颯真が放つ鋭い観察眼と大人のアプローチを警戒し、夜になれば二〇五号室で待ち構える九条湊の圧倒的な家事と、その奥に潜む底知れない執着の熱気に呑まれ続けた。
木曜の夜には、背後から抱きすくめられ、手を重ねられて皿洗いをさせられるという暴挙に遭い、精神的な主導権を完全に奪い去られた。大人の威厳を取り戻そうと足掻けば足掻くほど、湊の張り巡らせた甘い罠に絡め取られていく――そんな無力感と、それ以上に抗いがたい快感に、葵の理性はずっと擦り切れそうになっていたのだ。
(今日こそは、家でゆっくり身体を休めよう……。湊くんにも、これ以上の過激なスキンシップは控えるように、もう一度ちゃんと釘を刺して……)
そう心に誓い、パジャマからゆったりとしたルームウェアに着替えてリビングのドアを開けた。
ところが。
リビングに足を踏み入れた瞬間、葵は思わず足を止めた。
部屋の中に漂っていたのは、いつもの出汁の香気やトーストの匂いではなかった。
爽やかなベルガモットの紅茶の香り。
そして、ローテーブルの上には、丁寧に淹れられたストレートティーのティーカップと、一口サイズのスコーンが二つ、小さなガラス皿に上品に並べられていた。
だが、葵の目を奪ったのは、その優雅な朝食のセッティングではなく――そこに佇む人物の姿だった。
「……湊、くん?」
葵の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
キッチンカウンターの前に立っていた湊は、いつも葵の目を和ませていた淡いベージュのエプロンを身につけていなかった。
それどころか、彼は完璧な『外出着』に身を包んでいたのだ。
葵が以前のショッピングモールで選んで買い与えた、上質なセージグリーンのバンドカラーシャツ。袖口は肘の下あたりまで無造作かつ端正にロールアップされ、引き締まった前腕の筋が綺麗に浮き出ている。ボトムスは、足首をすっきりと見せるチャコールグレーのスリムスラックス。
さらりと整えられた漆黒の髪は、いつもよりわずかに額を見せるようにナチュラルに流され、光を浴びて艶やかに煌めいている。
ただ部屋の中に立っているだけなのに、まるで海外のファッション誌のグラビア撮影の合間のような、息を呑むほどの洗練されたオーラを放っていた。
葵の足音に気づいた湊が、パッと顔を上げた。
切れ長の漆黒の瞳が、葵の姿を捉えた瞬間、ふわりと柔らかく波打つ。
「あ、葵さん! おはようございます。よく眠れましたか?」
「え、ええ……おはよう。……あの、湊くん、その格好は……?」
葵が目を丸くして尋ねると、湊は少し落ち着かない様子でシャツの裾を整え、それから照れくさそうに頬を緩めた。
「朝ご飯、今日は軽めにスコーンにしておきました。ジャムは自家製のブルーベリーです。……あのね、葵さん」
湊はテーブルの横へと歩み寄り、葵の前で立ち止まった。
その表情には、いつもの甘えるようなワンコのあざとさも、夜に見せる冷徹な支配者の影もなかった。どこか緊張し、けれど内に秘めた強い決意を感じさせる、引き締まった男の顔だった。
「スコーンを食べたら、身支度をして……僕と一緒に出かけませんか?」
「え……お出かけ? 買い出し?」
「買い出しじゃありません」
湊は首を横に振った。
「僕が、葵さんを連れて行きたい場所があるんです。……葵さんのための、お出かけです」
「私のための……?」
「はい。葵さん、今週はずっと会社で大変そうだったし、僕のせいで……たくさん気疲れさせちゃいましたから。だから今日は、葵さんに息抜きをしてほしくて」
湊はそう言うと、真剣な眼差しで葵の瞳をじっと見つめてきた。
「歩きやすい靴で来てください。でも……葵さんの好きな、一番可愛いお洋服を着てきてくれたら、嬉しいです」
「か、可愛い服って……」
三十三歳を捕まえて何を言っているのかと抗議しようとしたが、湊の瞳があまりにも澄み渡り、あまりにも純粋な期待に満ちていたため、葵は言葉を飲み込んでしまった。
いつもなら「ダメよ、今日は家でゴロゴロするの」と断るところだった。
けれど、普段は部屋の中で葵のために身を粉にして尽くしているこの少年が、自分から「連れて行きたい場所がある」と口にしたのだ。その珍しい自己主張を、無下に切り捨てることなど、お人好しの葵には到底できなかった。
「……分かったわ。少し待ってて、着替えてくるから」
「はい! ゆっくりで大丈夫ですからね!」
満面の笑みを咲かせた湊に見送られ、葵は再びクローゼットへと引き返したのだった。
***
身支度に、思わず一時間近くもかけてしまった。
三十三歳の大人の女が、十八歳の男の子と出かけるのに、どんな服を着るべきなのか。
若作りに見えて痛々しいのは絶対に避けたい。かといって、地味すぎるオフィスカジュアルでは「可愛い服を着てきて」と願った湊の期待を裏切ってしまう。
悩みに悩んだ末、葵が選んだのは、上質なリネン混のダスティピンクのフレアロングスカートに、透け感のないアイボリーのサマーニットブラウスだった。ブラウスの首元は浅いボートネックになっており、首筋の薄れかけた痕を隠すために、首元には同系色の細身のシルクスカーフをチョーカー風に上品に巻いた。足元は、歩きやすさを重視したキャメル色の柔らかな本革フラットパンプス。髪はゆるく巻いてサイドでまとめ、揺れる小ぶりのパールイヤリングをつける。
鏡の前で全体を確認し、葵は小さく息を吸い込んだ。
(……うん。これなら、大人の品配を保ちつつ、適度に華やかよね)
バッグを手にリビングへ戻ると、玄関の上がり框で待っていた湊が、葵の姿を認めた瞬間に息を呑んだ。
「…………っ」
湊の足がピタリと止まり、その切れ長の瞳が大きく見開かれる。
頭のてっぺんから、首元のスカーフ、揺れるスカートの裾、そして足元のパンプスに至るまで、熱を帯びた視線が吸い付くように葵の全身をなぞり上げた。
見つめられる時間の長さに耐えかねて、葵の頬がカッと熱くなる。
「な……何よ。変かしら? やっぱり、年甲斐もなくピンクなんて浮いてる……?」
「変なわけ、ないじゃないですか……!」
湊が弾かれたように声を上げた。
その白い陶器のような頬が、耳の付け根までサーッと綺麗な赤に染まっていく。
「すっごく……信じられないくらい、綺麗です。葵さん、その色、すごく似合ってます……。スカーフも、すごくお洒落で……僕、見惚れちゃいました」
「も、もういいから! お世辞は聞き飽きたわよ!」
葵は動揺を隠すように早口でまくしたて、パンプスに足を滑り込ませた。
けれど、湊の瞳に灯っていたのは、単なる社交辞令のお世辞などではない、息が止まるほど真っ直ぐな憧憬と熱情だった。
湊は嬉しそうに目を細め、葵のために重い玄関ドアを押し開けてくれた。
「さぁ、行きましょう。葵さん」
***
初夏の風が吹き抜ける街並みは、休日を楽しむ人々で賑わっていた。
最寄りの駅から電車に乗り、揺られること二十分あまり。
湊に連れられて降り立ったのは、都内でも洗練された落ち着きを持つ、緑豊かなハイソサエティな街――代官山だった。
駅の改札を出た瞬間から、葵は奇妙な違和感……いや、心地よい居心地の悪さに包まれていた。
湊の態度が、いつものそれとはまるで違っていたのだ。
普段のショッピングモールでの買い物なら、湊は葵の半歩後ろを大型犬のように小走りでついてきて、「葵さん、これどうですか?」「葵さんの好きなようにしてください」と、従順に指示を待つ側だった。
けれど今日の湊は、葵の半歩前を、迷いのない足取りでリードしていた。
人混みに入れば、葵が他人の肩とぶつからないよう、スッと長い腕を伸ばして葵の背後を庇うように歩く。
車道と歩道の境目では、何気ない仕草で葵を内側へと誘導し、自らが必ず車道側に立つ。
歩道橋の階段や、舗装の荒い石畳の段差に差し掛かれば、立ち止まって葵を振り返り、「足元、気をつけてくださいね」と、ごく自然に手を差し伸べてくる。
「あ、ありがとう……」
差し出された湊の大きな手のひらに、葵はおずおずと自らの指先を預けた。
温かい。
骨張っていて、逞しく、葵の手をすっぽりと包み込んでしまう男の手。
段差を降りる葵の身体を、ブレることなく力強く支えてくれる。
(……なんなの、これ)
葵の心臓が、トクン、トクンと落ち着かないリズムを刻み始める。
エスコートされている。
それも、完璧な手際で。
十八歳の少年に、三十三歳の大人の女が、まるで大切なお姫様のように丁重に扱われているのだ。
背伸びしているのは分かった。湊が時折、緊張で喉仏を小さく上下させ、葵の顔色をチラチラと窺っているのを見れば、彼が必死に「頼れる男」を演じようとしていることは明白だった。
けれど、その背伸びが、あまりにも一生懸命で、あまりにも誠実で。
葵の胸の奥を、くすぐったいような、愛おしいような熱い感情で満たしていく。
「湊くん、本当にどこへ行くの? 代官山なんて、ずいぶんお洒落な街だけど……」
葵が並木道を歩きながら尋ねると、湊は前を向いたまま、誇らしげに口元を綻ばせた。
「もうすぐ着きますよ。葵さんが、絶対に喜んでくれる場所です」
メインストリートを外れ、閑静な住宅街へと続く小道へと入っていく。
初夏の柔らかな木漏れ日が、石畳の上にまだらな影を落としている。
そして、鬱蒼としたアイビーの緑に覆われた、古い煉瓦造りの洋館の前に辿り着いた時、湊が足を止めた。
「ここです」
湊が振り返り、眩い笑顔で指差し示した。
そこにあったのは、隠れ家のような佇まいを見せる、小さなガーデンカフェだった。
アンティークの木製看板には、金色の繊細なカリグラフィーで店名が刻まれている。
オープンエアのテラス席には、白いパラソルとアイアンのテーブルセットが並び、色とりどりのハーブや薔薇の花鉢が咲き乱れていた。ガラス窓の向こうには、落ち着いた間接照明と、壁一面に並ぶ洋書、そして静かに流れるジャズの調べが漂っている。
「……あ」
葵の唇から、小さな感嘆の声が漏れた。
見覚えがあった。
いや、見覚えどころではない。
「ここ……『カフェ・ド・リス』……?」
「知ってましたか?」
湊が嬉しそうに目を細めた。
「知ってるも何も……! ここ、ずっと来てみたかったのよ!」
葵は信じられない思いで看板と湊の顔を交互に見つめた。
三週間ほど前、深夜に自宅のソファでデザイン雑誌をパラパラとめくっていた時、リノベーション建築の特集ページでこのカフェが紹介されていたのだ。
あの時、疲労困憊だった葵は、テラス席の写真を見つめながら『わぁ、ここ素敵……緑に囲まれてて、デザートもすごく美味しそう。いつか行ってみたいなぁ』と、独り言のように呟いていたはずだった。
それを。
この少年は、覚えていたのだ。
聞き流してもおかしくない、疲れ切った三十路女の他愛のない呟きを、一言一句逃さず記憶し、こうして休日に葵を連れてきてくれた。
「葵さん、あの時すごく行きたそうな顔をしてたから」
湊は少し照れくさそうに鼻の頭を指で掻いた。
「テラス席、一番奥の静かな席を予約しておきました。……行きましょう、葵さん」
***
案内されたテラス席は、木々の緑に囲まれ、外界の喧騒から完全に切り離された極上のプライベート空間だった。
心地よい初夏の風が吹き抜け、パラソルのキャンバス地をパタパタと優しく揺らしている。
席に着くと、湊は当たり前のように葵の椅子をそっと引き、葵が座るのを見届けてから、向かいの席へと腰を下ろした。
渡された布張りのメニューブックを開きながら、葵の胸は高鳴っていた。
「すごい……メニューまで全部お洒落だわ。オーガニックハーブティーに、季節のフルーツのタルト、自家製ブリオッシュのフレンチトースト……」
「葵さん、ここのフレンチトーストが有名らしいですよ」
湊が身を乗り出し、メニューの写真を指差した。
「一晩じっくりアパレイユに漬け込んで、発酵バターでじっくり焼き上げるんだそうです。自家製のマスカルポーネクリームと、季節のイチジクが添えてあって……葵さん、イチジク好きですよね?」
「大好物よ! えっ、どうして知ってるの!?」
「葵さんの冷蔵庫に、イチジクのジャムが入ってたから」
湊は得意げに微笑んだ。
完璧だった。
葵の好みを、生活の細部から、何気ない呟きから、すべて把握し尽くしている。
「じゃあ、フレンチトーストにするわ。飲み物は……深煎りのシングルオリジンコーヒーにしようかしら」
「はい! すみません、注文お願いします」
湊が手を挙げ、店員を呼ぶ。
店員に対してオーダーを通す湊の所作は、驚くほど淀みがなく、落ち着いていた。名門の血筋ゆえの育ちの良さが、こういう場での洗練された立ち振る舞いとして自然と滲み出ているのだ。
周囲のテーブルの女性客たちが、湊の圧倒的な美貌とスタイルの良さに思わず目を奪われ、ヒソヒソと囁き合っているのが分かった。
けれど、湊の視界には、周囲の視線など一ミリも入っていなかった。
ただひたすらに、目の前に座る葵のことだけを、熱を帯びた優しい瞳で見つめ続けていた。
「葵さん、スカーフ、すごく似合ってます」
店員が下がった後、湊がローテーブル越しに小声で囁いた。
「……誰のせいでスカーフ巻く羽目になったと思ってるのよ」
葵がジト目を向けると、湊は悪びれる様子もなく「ふふっ」と喉を鳴らして笑った。
「でも、本当に綺麗です。いつものスーツ姿もかっこよくて大好きですけど、今日の葵さんは……なんだか、すごく柔らかくて、可愛くて……僕だけの特別な人なんだって、誇らしくなります」
「ま、またそういう甘いこと言って……」
葵は居たたまれなくなり、運ばれてきたお冷のグラスを両手で包み込んだ。冷たい水が、火照った指先を心地よく冷ましていく。
けれど、心臓の奥底で跳ねる熱気は、冷める気配を見せなかった。
やがて、テーブルの上に注文した品々が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。季節のイチジクとマスカルポーネのフレンチトーストと、エチオピアのシングルオリジンでございます」
白い陶器のプレートの上に鎮座していたのは、まさに芸術品のような一皿だった。
黄金色にこんがりと焼き上げられた、極厚切りのブリオッシュ。
表面にはキャラメリゼされたグラニュー糖が薄いガラスのようにパリッと輝き、立ち上る湯気とともに、濃厚な発酵バターと甘いバニラビーンズの香りが鼻腔を満たす。
トッピングされているのは、淡い赤紫色の果肉が瑞々しい大ぶりのフレッシュイチジク。そこに、ぽってりと雪のように添えられた純白のマスカルポーネクリームと、香ばしくローストされたピスタチオが散らされ、上から琥珀色のメープルシロップが艶やかに回しかけられていた。
「……わぁ」
葵の瞳が、少女のようにキラキラと輝いた。
向かいの席で、湊が自分のアイスティーを前にしながら、満足そうに目を細めている。
「葵さん、温かいうちにどうぞ」
「うん! いただきます!」
葵はナイフとフォークを手に取った。
ナイフを入れた瞬間、カリッ、というキャラメリゼの心地よい音の後に、刃が吸い込まれるようにスッと沈み込んだ。中は信じられないほどプルプルで、まるでプリンのように柔らかい。
一口大に切り分け、マスカルポーネクリームとイチジクの果肉を乗せて、口の中へと運ぶ。
――瞬間。
口いっぱいに広がったのは、暴力的なまでの多幸感だった。
「……っっっ!!」
葵は思わず両手で頬を押さえ、目を丸くした。
表面のキャラメリゼのほろ苦いサクサク感。
そして、中からじゅわりと溢れ出す、卵とミルクとバニラの濃厚なアパレイユ。噛む必要がないほどにとろとろに溶けていく。
そこに、マスカルポーネのミルキーなコクと爽やかな酸味、そしてイチジクのプチプチとした果肉の自然な甘みが重なり合い、完璧なハーモニーを奏でていた。
すかさず、温かいエチオピアのコーヒーを一口含む。
華やかなベリー系の酸味と、深煎りのビターな苦味が、フレンチトーストの甘さをすっきりと洗い流し、極上の余韻を残す。
「美味しい……! 何これ、信じられないくらい美味しい……!」
「本当ですか? よかった……!」
湊はホッと胸を撫で下ろし、まるで自分の手料理を褒められた時と同じように、心底嬉しそうに相好を崩した。
「葵さん、本当に美味しそうに食べますよね。見てるこっちまで幸せになります」
「だって、本当に美味しいんだもの! 湊くんも一口食べてみる?」
「いいんですか?」
葵がフォークで小さく切り分けた一口を差し出すと、湊は少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに身を乗り出してきた。
そして、葵のフォークの先にあるフレンチトーストを、パクッと唇でくわえ取った。
葵の指先のすぐ横を、湊の温かい唇がかすめる。
「……っ!」
葵の心臓が跳ねる。
「ん……! 本当だ、すごく美味しい。外がサクサクで中がとろとろですね」
湊はモグモグと咀嚼し、満足そうに目を細めた。
何気ない一口のシェア。恋人同士のような自然なやり取りに、葵の胸が甘く締め付けられる。
木漏れ日が揺れるテラス席。
極上のスイーツと、美味しいコーヒー。
そして、目の前には、自分を世界で一番大切な存在として見つめてくれる、息を呑むほど美しい青年。
激務に追われ、孤独に擦り切れていた三十三歳の日常が、まるで遠い前世の出来事のように思えるほど、満ち足りた幸福な時間が流れていた。
***
至福のカフェタイムを満喫し、気づけば時計の針は午後二時を回っていた。
「あぁ……本当に美味しかった。こんなに贅沢な休日、何年ぶりかしら」
葵は満足のため息を吐き出しながら、肩にかけていたバッグから財布を取り出そうとした。
「湊くん、本当にありがとうね。お店も素敵だったし、フレンチトーストも最高だったわ。……お会計、私が払ってくるわね」
葵が席を立とうとした、その瞬間だった。
――スッ。
向かいの席から伸びてきた湊の手が、葵のバッグを開けようとしていた指先を、そっと優しく制したのだ。
「……え?」
葵が目を瞬かせる。
湊は葵の手をそっと押し留めたまま、首を横に振った。
「葵さん。お財布、しまってください」
「え……? でも、お会計――」
「僕が払います」
「は……?」
葵の頭が、一瞬フリーズした。
僕が払う?
何を言っているのだろう。
湊は身一つで家を飛び出してきた家出少年だ。所持金も身の回りのものも持たずに葵の部屋に転がり込み、日々の生活費や食材費はすべて葵が渡した生活費用の財布からやりくりしているはずだ。彼自身のポケットマネーなど、一円たりとも持っていないはずだった。
「な、何言ってるのよ、湊くん。湊くんにお金なんてないでしょう? いいのよ、連れてきてくれただけで十分嬉しいんだから、ここは私が――」
「いいえ」
湊の声は静かだったが、そこには揺るぎない確固たる意志が宿っていた。
湊はスラックスのポケットから、見慣れない二つ折りの黒い革財布を取り出した。
ハイブランドのものではない、実用的な、けれど丁寧に手入れされた本革の財布。
湊はその財布を手に立ち上がると、テーブルの端に置かれていた伝票をスッと手に取った。
「座って待っていてください。すぐ戻りますから」
「ちょ、ちょっと、湊くん……!?」
葵の制止の声を背に、湊は長い脚でスタスタとレジカウンターへと歩いて行ってしまった。
呆然と取り残された葵の視線の先で、湊はレジの店員に向かってスマートに会釈し、伝票を差し出していた。
そして、自らの財布から、折り目のついた千円札を数枚と小銭を取り出し、トレイへと置く。
会計を済ませ、レシートを受け取り、財布をポケットへとしまう。
その一連の動作には、何の躊躇いも、淀みもなかった。
完全に、一人の大人の男が、連れの女性のためにスマートに支払いを済ませる時の所作そのものだった。
「……お待たせしました、葵さん。行きましょうか」
戻ってきた湊が、優しく微笑みながら葵に手を差し伸べてきた。
葵は促されるままに席を立ち、テラス席を後にした。
店を出て、再び静かな住宅街の並木道へと歩き出す。
初夏の陽光が、葵の頭上を温かく照らしていた。
けれど、葵の頭の中は、先ほどの光景の衝撃でグルグルと混乱していた。
「……湊くん」
葵は並んで歩く湊の横顔を見上げ、たまらず問い詰めた。
「どういうことなの? あのお金、一体どうしたのよ……!?」
まさか、葵の部屋からお金をくすねたわけではないだろう。そんなことをする人間ではないことは、この数週間の同居生活で痛いほど理解している。
なら、実家から工面したのか?
いや、九条家との縁を切りたがっている彼が、実家に連絡を取るはずがない。
葵の不安そうな視線を受け止めた湊は、歩みを止め、葵に向き直った。
初夏の風が吹き抜け、湊の漆黒の前髪をさらりと揺らす。
湊は少し決まり悪そうに視線を泳がせ、それから耳の先を赤く染めながら、ぽりぽりと人差し指で頬を掻いた。
「……怒らないで、聞いてくれますか?」
「な、何を……?」
「あのお金……僕が、自分で稼いだお金です」
「え……?」
葵の目が点になった。
「稼いだ……って、湊くん、アルバイトしてるの……!?」
「はい」
湊は小さく頷いた。
「葵さんが会社に行っている平日の昼間……家事が全部終わった後の数時間だけ、近所の配送センターで荷物の仕分けの単発バイトをしてるんです。身元確認が簡単で、九条家の情報網にも引っかからないような、日払いの仕事を探して」
「嘘……」
葵は息を呑んだ。
平日の昼間、葵がオフィスで働いている間、湊は部屋を完璧に掃除し、洗濯をし、買い出しを済ませ、夕方には極上の夕食を用意して待っていてくれていた。
その過密なスケジュールの中で、誰にも言わず、葵にも内緒で、一人で汗を流して肉体労働のアルバイトをしていたというのか。
「ど、どうして……!? 生活費なら私が全部出してるじゃない! 生活に必要なものは何だって買ってあげるって言ったのに、どうしてそんな無茶なことを……!」
葵の声には、驚きと、そして胸が痛むほどの心配が混ざっていた。
十八歳の少年に、そんな苦労をさせるつもりなど微塵もなかったのだ。
けれど。
葵の問いかけに対し、湊はゆっくりと首を横に振った。
そして、先ほどまでの照れくさそうな表情から一変して、どこまでも真っ直ぐで、真摯な眼差しで葵を見つめてきたのだ。
その瞳の奥には、十代の少年の無力さに抗い、一人の男として立ち上がろうとする、強いプライドの光が灯っていた。
「……悔しかったんです」
湊の声は、静かに、けれど力強く葵の胸に届いた。
「葵さんに拾われて、温かい部屋をもらって……美味しいご飯の材料費も、僕の服も、生活に必要なもの全部、葵さんのお金で養ってもらって。……葵さんが毎日、外で胃を痛めながら一生懸命稼いできたお金に、僕はただぶら下がってるだけの存在で……それが、たまらなく悔しかった」
「湊くん、そんなこと……あなたは家事を完璧にやってくれてるじゃない!」
「家事代行として雇われてるんじゃないって、葵さん自身が言ったじゃないですか」
湊の言葉に、葵の喉が詰まる。
そうだ。土曜日の夜、そして今週の幾夜にもわたって、湊は葵に告げていた。『僕が欲しいのは保護者じゃない、あなただ』と。
「僕ね……葵さんにとって、ただの『便利な居候』や『養われるペット』のままでいたくなかったんです」
湊は一歩、葵へと近づいた。
初夏の木漏れ日の中で、長身の青年の影が、葵を優しく包み込む。
「葵さんが疲れてる時に、美味しいものを食べさせてあげたい。葵さんが行きたがってた場所に、僕の手で連れてきてあげたい。……葵さんのために、僕の汗と時間を使って稼いだお金で、何かをしてあげたかったんです」
湊はそう言うと、葵の目の前で、ふわりとはにかむように笑った。
それは、夜に見せる冷酷な捕食者の笑みでも、あざとく媚びるワンコの笑顔でもなかった。
愛する女性を喜ばせることができた一人の若い男の、誇らしげで、不器用で、この上なく誠実な――少年の笑顔だった。
「いつも養ってもらっているから。……今日くらいは、男として奢らせてください」
「…………っっっ!」
葵の心臓が、ドカンと音を立てて撃ち抜かれた。
全身の血液が、頭のてっぺんまで沸騰するように駆け巡る。
言葉が出なかった。
喉がぎゅっと締め付けられ、目頭が熱くなって、視界が滲みそうになる。
男として、奢らせてください。
その言葉の持つ重みが、葵の胸を深く、鋭く貫いていた。
背伸びだ。
三十三歳の大人の女から見れば、日払いの仕分けバイトで稼いだ数千円など、微々たる金額かもしれない。おしゃれなカフェのフレンチトーストとコーヒー代を支払うだけで、彼が数時間かけて流した汗の対価は、ほとんど消えてしまったはずだ。
けれど。
その数千円に込められた想いの質量は、どんな富豪が差し出す高級レストランのフルコースよりも、どんな大人の男がスマートに切るブラックカードよりも――遥かに重く、遥かに尊く、そして暴力的にお葵の心を揺さぶっていた。
不器用な背伸び。
けれど、そこには一片の打算も、見栄もなかった。
ただひたすらに、「葵を喜ばせたい」「葵の隣に立つにふさわしい男になりたい」という、純度百パーセントの一途な愛と誠実さだけが、そこに詰まっていたのだ。
(……あぁ、もう……)
葵は両手で口元を押さえ、震える息を吐き出した。
勝てるはずがなかった。
こんな真っ直ぐな言葉を、こんな真摯な眼差しでぶつけられて、どうして「あなたはまだ十八歳の子どもなんだから」などと突き放すことができるだろうか。
年齢差の壁も、保護者という建前も、この少年の放つ圧倒的な「男」としての誠実さの前には、何の盾にもなり得なかった。
「……美味しかったわ」
葵の唇から、涙混じりの掠れた声が零れ落ちた。
「え……?」
「フレンチトーストも、コーヒーも……すっごく、美味しかった。……ごちそうさまでした、湊くん」
葵が顔を上げ、潤んだ瞳で心からの笑顔を向けると、湊は目を見張った。
そして、次の瞬間。
湊の端正な顔いっぱいに、花が咲き乱れるような、至福の輝きが広がった。
「……はい! 喜んでもらえて、すごく嬉しいです!」
湊はそう叫ぶと、葵の元へと駆け寄り、躊躇うことなくその右手を握りしめてきた。
恋人繋ぎ。
絡み合う指先。
初夏の眩い日差しの下で、ふたりの手がしっかりと結ばれる。
今度は、葵はその手を振り払うことはしなかった。
力強く、温かく葵の手を引いて歩き出す湊の横顔を見つめながら、葵は自分の胸の奥で、カチリと音を立てて何かが切り替わったのを感じていた。
拾った大型犬。
家事代行の居候。
守るべき十八歳の少年。
そんな曖昧な欺瞞の殻は、完全に砕け散っていた。
葵の隣を歩くこの青年は――もう二度と、ただの「子ども」には戻らない。
自分を愛し、自分を守り、自分を奪い去ろうとする、一人の誇り高き「男」として、藤堂葵の人生のど真ん中に、決定的な足跡を刻みつけていたのだった。




