第23話:背後からのハグと、逃げられない腕
どれほど頑丈に築き上げた防壁であっても、内側から熱を帯びて融解してしまえば、ただの脆い土砂と何ら変わりはない。
ローテーブルの上に並べられた夕食を平らげた後、葵は胸の奥底で渦巻く居心地の悪さと、それを何倍も上回る甘やかな熱気から逃れるように、深く俯いていた。
先ほど湊が温め直してくれた冬瓜とがんもどきの餡掛けは、出汁の芯まで熱が通っていて、一口含むごとに胃の腑を慈しむように温めてくれた。銀鱈の西京焼きの芳醇な脂と味噌の甘みは、疲れ切った神経をこれ以上ないほど優しく解きほぐした。完敗だった。あれほど厳格に「保護者と居候」としての境界線を説き、大人としての分別を叩きつけたはずなのに、目の前の少年が真っ向からぶつけてきた「僕が欲しいのはあなたです」という剥き出しの告白の前に、葵の理性は粉々に砕け散り、結局のところ、彼が丹精込めて作った料理を一粒の米も残さず綺麗に平らげてしまったのだ。
向かいの席で、湊は満足そうに葵の食事を見届けていた。
その瞳の奥には、前夜に見せた狂気的な激情も、先ほど葵を組み伏せた時の獰猛な雄の気配も、綺麗さっぱりと隠されていた。ただただ、大好きな飼い主が自分の差し出した餌を美味しそうに食べてくれたことを喜ぶ、純真無垢な大型犬のような愛嬌。
けれど、葵はもう知っている。
あの無垢な笑顔の裏側には、鋭い牙と、葵という女のすべてを自らの腕の中に囲い込もうとする、底知れない執着の怪物が潜んでいるのだということを。
(……このままじゃ、ダメよ)
葵は膝の上で両手を強く握りしめた。
タートルネックの黒い生地が、右の鎖骨のすぐ上に刻まれた赤紫色のマーキングを擦るたびに、チリチリとした熱い痛痒感が走る。昼間に結城から投げかけられた「首筋、熱いだろ」という冷徹な指摘が、未だに耳の奥で生々しくリフレインしていた。
この部屋の空気に呑まれてはいけない。湊の差し出す快適さと、胃袋を掴む手料理と、甘美な言葉の数々に流されてしまえば、自分は完全に藤堂葵という大人の女の輪郭を失い、この十八歳の少年にすべてを明け渡してしまう。
少しでもいい。ほんのわずかでもいいから、自分自身の自立した大人の領域を取り戻さなければならない。自分はただ甘やかされるだけの無力な存在ではないのだと、行動で示さなければならない。
「葵さん、食後のお茶を淹れますね。今日は胃腸を整えるほうじ茶に、少しだけ生姜を効かせてありますから」
湊が柔らかく微笑み、湯呑みを持って立ち上がった。
――今だ。
葵の脳内で、警報とともに乾いた決断が下された。
「あ、いいのよ湊くん! 座ってて!」
葵は弾かれたように座布団から立ち上がった。
「え……?」
湊が目を瞬かせ、立ち止まる。
葵は湊の視線を遮るように、ローテーブルの上に残された空の茶碗や小鉢、皿を、手際よく両手で重ねて持ち上げた。陶器同士がカチャカチャと硬い音を立てる。
「いつも湊くんにご飯を作ってもらって、後片付けまで全部任せきりだったでしょう? これじゃ私の生活能力が本当にゼロになっちゃうわ。たまには私にやらせて。お皿洗いぐらい、私だってできるんだから」
早口でそうまくしたてると、葵は湊の返答を待つことなく、踵を返してキッチンへと早足で向かった。
「葵さん、待ってください。僕がやりますから――」
「いいから! 湊くんは座ってお茶でも飲んでて!」
背後から追いかけてこようとする湊の声を、葵は強い語気で制した。
キッチンシンクの前に立ち、重ねた食器をゴトゴトとシンクの中に下ろす。
蛇口のレバーをひねると、勢いよく水が流れ落ち、ステンレスのシンクを叩くジャバジャバという水音が狭いキッチンスペースに響き渡った。
葵は小さく息を整えながら、スポンジを手に取った。
ディスペンサーから柑橘系の香りがする食器用洗剤をワンプッシュし、指先で泡立てる。白いモコモコとした泡が手のひらを覆っていく。
(そうよ。これでいいの……)
葵は自分に言い聞かせるように、泡立ったスポンジで茶碗の内側を擦り始めた。
家事代行として雇っているとしても、すべての生活領域を他人に預けてしまうのは異常だ。ましてや、その相手が自分に狂おしい情熱を向けてくる十八歳の美少年であるならば、なおのこと距離を置かなければならない。
自分の手で皿を洗い、自分の足で立ち、大人の保護者としての境界線を物理的な行動で引き直す。
そうすれば、胸の奥で燻っているあの甘い痺れも、首筋に宿る熱狂も、少しは冷めてくれるはずだった。
キュッ、キュッ、とスポンジが陶器の表面を磨く小気味よい音が立つ。
水流で泡を洗い流し、水切りラックへと伏せる。
「ふぅ……ほら、私だってちゃんとできるじゃない」
誰に聞かせるでもなく、葵は小さく呟いた。
水仕事特有のひんやりとした冷たさが、火照っていた指先の熱をわずかに奪い、頭の芯を冷やしてくれるような気がした。
この調子で、残りの皿とフライパンも全部片付けてしまおう。そうして「ごちそうさま、ありがとうね」と笑顔で言い残し、さっさと寝室に引きこもってしまえば、今夜の危機はやり過ごせるはずだ。
――だが。
藤堂葵のその浅はかな防衛策は、文字通り数分ともたずに粉砕される運命にあった。
トントン、と。
水音の隙間を縫って、背後のフローリングを素足で踏みしめる、静かな足音が近づいてきた。
葵の背筋が、無意識のうちにピシリと緊張で強張る。
(……来た)
葵は振り返らず、シンクの中の平皿へと手を伸ばした。
「湊くん、言ったでしょう? 座ってていいのよ。あと少しで終わるから、あっちでテレビでも観て――」
葵が言葉を紡ぎ終えるよりも、遥かに早く。
――サッ、と背後から温かな影が覆いかぶさってきた。
そして。
「…………っ!?」
葵の喉の奥から、短い息が弾け飛んだ。
ドン、と鈍い衝撃とともに、葵の背中全体に、ずっしりとした熱い質量が密着したのだ。
背後から伸びてきた二本の逞しい腕が、葵の細い腰とみぞおちのあたりを、すっぽりと挟み込むように回り込んできた。
逃げ場を塞ぐ、完璧なバックハグ。
葵の華奢な背骨のラインに、湊の鍛え上げられた分厚い胸板が、寸分の隙間もなくぴったりと押し付けられた。
「な……っ、湊、くん……!?」
葵は泡だらけの皿を落としそうになりながら、激しく身じろぎをした。
けれど、腰を拘束する湊の腕の力は、葵がいくら身をよじろうとビクともしなかった。
それどころか、湊はさらに一歩踏み込み、自らの長身を葵の背中へと預けるようにして、葵の身体をシンクの縁へと完全に押し込んできたのだ。
逃げられない。
前方には蛇口から水が流れるシンクがあり、左右と背後は、湊の巨大な体躯によって完全に壁を作られていた。
背中越しに伝わってくる、暴力的なまでの体温。
薄いサマーニットと、葵の黒いタートルネックという二枚の布地を通り抜けて、湊の大胸筋の硬質な弾力と、ドクン、ドクン、と力強く脈打つ熱い心拍が、葵の背骨を直接揺さぶるように響いてくる。
近い。近すぎる。
葵の頭頂部が、湊の顎の下あたりにすっぽりと収まっていた。二十センチ近い身長差が、葵を包み込む完全な檻となって機能していた。
「……言ったじゃないですか」
葵の右耳のすぐ真後ろから、低く、甘く、かすれた声が落ちてきた。
湊の熱い呼気が、葵の耳朶と首筋の皮膚を直接撫で上げる。
「葵さんには、水仕事なんてさせないって」
「っ……! いいのよ、お皿洗いぐらい! 私だって一人暮らしが長かったんだから、これくらい日常茶飯事よ! お願いだから離れて……!」
「嫌です」
湊は即座に、けれどどこまでも柔らかく拒絶した。
湊は葵の肩口に自らの額をコテンと預けてきた。さらりとした黒髪の毛先が、葵の頬をチクチクとくすぐる。
そして、湊の鼻先が、葵の右の首筋――タートルネックの黒い生地の上から、あの鮮烈なキスマークが刻まれているポイントへと、ゆっくりと擦り付けられた。
「ひっ……!」
葵の口から、情けないほどの悲鳴が漏れた。
布越しに、湊の唇の形と、熱い吐息の湿り気がダイレクトに伝わってくる。
触れられた瞬間、患部がカッと火花を散らすように熱を帯び、電撃のような快感が背筋を駆け抜けた。
「葵さんの綺麗な手を、洗剤で荒れさせたくないんです」
湊の囁きは、耳の奥の鼓膜を甘く溶かしていくようだった。
「葵さんの手は……僕の頭を撫でて、僕の手を握るためだけにあればいいんです。こんな冷たい水で冷やしたり、洗剤でガサガサに傷つけたりしたら……僕、悲しくて泣いちゃいますよ」
「な、何を言ってるのよ……そんなの大げさよ……!」
「大げさなんかじゃありません」
そう言うと、湊は腰に回していた腕をゆっくりと解いた。
葵が「あ、離れてくれるの……?」と胸を撫で下ろしかけた、その刹那だった。
湊の両手は、葵を解放するためではなく――さらに深く、葵の身体を支配するために動いたのだ。
スッ、と湊の両腕が、葵の左右の脇の下を通って前方へと伸びてきた。
そして。
シンクの中で泡だらけになっていた葵の両手を、背後から覆い被さるようにして、自らの大きな手のひらで包み込んできたのだ。
「――っっっ!?」
息が詰まる。
葵の泡に濡れた小さな手を、湊の骨張った、熱い男の手がすっぽりと覆い尽くした。
葵の手の甲に、湊の手のひらが密着する。
長い指先が、葵の泡だらけの指の隙間へと、するりと滑り込んできた。
一本、また一本。
泡の滑らかな感触を介して、湊の指が葵の指と深く絡み合っていく。いわゆる、恋人繋ぎ。
それも、シンクの中、流れる水の下で、背後から抱きすくめられたままの指の交差。
「湊、くん……! ちょっと、やめて……っ!」
「動かないでください、葵さん。滑って割れちゃいますよ」
湊の声には、大人の男の有無を言わせない静かな迫力があった。
湊は葵の手をしっかりと包み込んだまま、シンクの中に残されていた平皿へと手を伸ばした。
葵の右手を操るようにしてスポンジを握らせ、自らの力で、葵の手ごと皿の表面を撫で擦らせる。
キュッ、キュッ。
泡が弾ける音。
蛇口から流れ落ちる温かな水流が、重なり合った二人の手の上へと容赦なく降り注ぐ。
水温は、三十八度前後のぬるま湯に設定されていた。
温かい水が、二人の絡み合う指先を包み込み、白い泡を徐々に洗い流していく。
泡が消えていくにつれて、肌と肌の直接の摩擦が、驚くほど生々しい感触となって葵の神経を直撃した。
「……あ……っ」
葵の唇から、掠れた吐息が零れ落ちる。
逃げられない。
葵が皿を洗っているのではない。
湊が、葵の手を道具のように使い、葵の身体を自らの肉体の一部のように操りながら、皿を洗わせているのだ。
葵の指を包む湊の指先は、細身に見えていた腕からは想像もつかないほど太く、節くれ立っていて、男らしい硬さを誇っていた。水の中で擦れ合うたびに、葵の皮膚を通して、湊の指の指紋の凹凸までがありありと伝わってくる。
「ほら、お皿の裏側も……ちゃんと泡を落とさないと」
湊が耳元で囁く。
囁くたびに、湊の唇が葵の耳たぶをかすめる。触れそうで触れない、極限の焦らし。
湊の腕が動くたびに、背中に密着している湊の胸筋と腹筋が、うねるように葵の背中を圧迫した。
たくましい。
十八歳の少年の身体ではない。
無駄な贅肉が一切削ぎ落とされ、しなやかで強靭な筋肉に覆われた、完全なる大人の男の肉体。
葵がどれほど「私は三十三歳の大人よ」と背伸びしようとも、この圧倒的な骨格の差、腕力の差、体格の差の前には、赤子のように無力だった。
(……大きい。本当に……男の人なんだ……)
葵の心臓が、破裂しそうなほどの勢いで鐘を乱打し始める。
ドクドクと脈打つ葵の胸の鼓動は、密着している湊の胸板へとダイレクトに伝わっているはずだった。
恥ずかしい。
逃げ出したい。
三十三歳にもなって、十代の男の子に背後から抱きしめられ、手を重ねられて皿洗いをさせられている。客観的に見れば、あまりにも甘やかされすぎていて、あまりにも淫靡で、まともな大人のすることではない。
けれど、温かい水流と、湊の手のひらの熱と、背中を包み込む圧倒的な安心感の濁流が、葵の頑なな理性を、音を立てて溶かし去っていく。
「葵さん」
湊が、重なり合った手を水流から引き上げ、綺麗になった皿を水切りラックへと置いた。
けれど、湊の手は離れなかった。
今度は、シンクの底に沈んでいた小さなフォークをすくい上げる。
湊の指先が、葵の手のひらの中心を、親指の腹でツーッと撫で上げた。
「……っ!」
くすぐったいような、背筋がゾクリとするような甘い痺れが走る。
「葵さんの手……小さくて、柔らかくて……すごく好きです」
湊の声は、先ほどよりも一段と深く、熱を帯びて濁っていた。
「会社のパソコンのキーボードを叩いて、難しい書類を作って……たくさん頑張ってる手ですよね。……でも、家の中では、何もしなくていいんですよ」
湊は葵の指を一本ずつ、水の中で丁寧に撫で擦るように洗っていく。
指の股、爪の先、手のひらのくぼみ。
まるで、愛液を塗り込めるかのような、執拗で情熱的な愛撫のような手つき。
「僕が、葵さんの手になりますから」
背中越しに、湊の腕がさらに強く葵の腰を抱きすくめた。
ギュッと密着する二人の身体。
湊の熱い下腹部が、葵の腰のラインに隙間なく押し付けられる。
「ご飯を作るのも、掃除をするのも、洗濯をするのも……全部僕がやります。葵さんはただ、僕の腕の中にいて……僕に甘えて、僕を求めてくれれば、それでいいんです」
「湊、くん……そんなの……私、本当にダメになっちゃう……」
葵の声は、抗議の形を保てなくなっていた。
掠れ、震え、熱に浮かされたように甘く湿っていた。
「ダメになってください」
湊は即座に、残酷なまでの甘美さをもって言い放った。
「僕なしじゃ息もできないくらい、僕の手料理と、僕の体温がないと眠れないくらい……完全にダメになってください。……そうすれば、葵さんは二度と、僕の前からいなくなったりしないでしょう?」
「っ……」
生活の侵食。
外堀を埋め尽くすような、完璧すぎる包囲網。
朝の目覚めの出汁の香りから、昼のお弁当、夜の晩酌、そして食後の皿洗いに至るまで。
葵の日常のあらゆる隙間に、九条湊という存在が滑り込み、その温もりと手触りで塗り潰していく。
他の男が入る余地など、一ミリたりとも残さないように。
葵自身が自立して立ち上がることすらできないように、甘い蜜で四肢を絡め取り、自らの腕の中に閉じ込めてしまう。
恐ろしいほどの独占欲。
けれど、背中から注ぎ込まれる湊の愛の質量は、あまりにも重く、あまりにも温かくて。
三十三年間、誰にも甘えられず、一人で歯を食いしばって生きてきた葵の心の孤独を、余すところなく埋め尽くしてしまっていた。
最後のスプーンを水切りラックに置き終えた時、シンクの中は空っぽになっていた。
湊は蛇口のレバーを押し下げ、水流を止めた。
ジャバジャバという水音が消え、静まり返ったキッチンに、二人の乱れた呼吸の音だけが残される。
けれど、湊の腕は、葵の身体を解放しなかった。
濡れたままの両手をシンクの縁についたまま、葵はハァハァと熱い息を吐き出していた。全身の力が抜け、湊の胸板に完全に背中を預けてしまっている。
「……終わったわよ、湊くん」
葵が震える声で告げる。
「もう……離して……」
湊は葵の言葉を聞いても、すぐには動かなかった。
数秒間の、甘く重い沈黙。
やがて、湊はシンクの横に掛けられていた清潔なワッフル生地のハンドタオルを左手で引き寄せた。
そして、葵の濡れた右手をそっと取り、タオルの柔らかな布地で、指先の一本一本までを、壊れやすい宝物を磨くように丁寧に拭き取り始めた。
「……風邪、引いちゃいますからね」
水気を吸い取られていく葵の指先。
湊の手つきは、先ほどの圧倒的な支配の力強さから一転して、母親が赤子を包み込むような深い慈愛に満ちていた。
左手も同じように、丁寧に水気を拭い去られる。
乾いた葵の手を、湊は自らの両手で包み込み、ふう、と温かい息を吹きかけて温めてくれた。
そして――。
チュッ。
タオルの上からではなく、剥き出しになった葵の右手の手首――脈打つ青い血管の真上へと、湊の薄く熱い唇が、吸い付くように落とされた。
「……っ!」
葵の身体が、ビクリと跳ねる。
手首の内側に残された、柔らかな唇の弾力と、微かな湿り気。
湊は手首に唇を押し当てたまま、葵の肩越しに、上目遣いにその漆黒の瞳を向けてきた。
妖艶なまでの色香を放つ、十八歳の少年の眼差し。
「ごちそうさまでした、葵さん。……お手伝い、上手にできましたね」
耳元で囁かれたその言葉は、完全に子どもをあやす大人の声音だった。
どちらが保護者で、どちらが子どもなのか。
どちらが飼い主で、どちらがペットなのか。
その境界線は、すでに跡形もなく逆転していた。
精神的な主導権も、肉体的な優位性も、すべてはこの美しい少年の掌の上で弄ばれていたのだ。
「……ずるい子」
葵の唇から、掠れた諦めの言葉が零れ落ちた。
湊はふっと満足そうに目を細めると、ようやく葵の腰から腕を解き、一歩後ろへと下がった。
背中から湊の体温が離れた瞬間、葵の身体をゾクゾクとするような冷気が襲う。あんなに息苦しかったはずの湊の抱擁を、身体の奥底が瞬時に恋しがっていることに気づいてしまい、葵は胸元をぎゅっと押さえて膝を震わせた。
「さぁ、葵さん。あったかいほうじ茶、リビングに持っていきますね。ソファでゆっくり休んでてください」
湊は何事もなかったかのような爽やかな笑顔を浮かべ、急須を手にしてリビングへと歩き出していった。
淡いベージュのエプロンを揺らしながら進む、しなやかでたくましい背中。
葵は濡れた手首に残るキスの熱を見つめながら、その場にへたり込みそうになる足を必死に支えていた。
皿洗いの主導権を取り戻すどころか、指先の皮膚一枚、心臓の鼓動のリズムに至るまで、より深く、より逃れられない場所へと飼い慣らされてしまったことを自覚しながら。
藤堂葵の理性は、今夜もまた、この完璧すぎる『ペット』の腕の中で、完全に敗北を喫していたのだった。




