第21話:タートルネックの言い訳
月曜日の朝。遮光カーテンの隙間から差し込む光は、初夏の訪れを告げるように眩しく、部屋の温度をじわりと押し上げていた。
藤堂葵は、洗面台の白熱灯の下で立ち尽くし、手鏡を握りしめたまま絶望的な息を吐き出した。
「……消えてない。どころか、濃くなってるじゃないの……っ」
指先でそっと触れた右の鎖骨のすぐ上、首筋と胸元の境目あたりに、その忌々しくも甘美な傷痕は燦然と輝いていた。
土曜日の夜、あの豪雨の中、玄関の壁に押し付けられて刻まれたものだ。
皮膚の薄い部分を執拗に吸い上げられ、鋭い犬歯で噛み締められた痕は、鮮烈な赤紫色の鬱血痕となって残っていた。まるで満開の紫陽花の花びらを一枚、素肌にそのまま貼り付けたかのような生々しさ。触れると、二日経った今でも微かに熱を帯びており、じんじんと鈍い拍動を指先に返してくる。
鏡の前には、葵が愛用している高級コスメブランドのコンシーラーやコントロールカラーが何本も散乱していた。
オレンジ色の補正下地を叩き込み、その上からカバー力の高いリキッドコンシーラーを重ね、さらに微粒子のフェイスパウダーで押さえ込む。三十三年の人生で培ったメイク技術の粋を尽くして隠そうと試みた。
しかし、無駄だった。
正面を向いて首を動かさないでいれば、多少は粗が目立たないかもしれない。けれど、首を少しでも左右に傾けたり、顎を上げたりすれば、皮膚の伸縮に伴って厚塗りしたファンデーションがよれ、ひび割れ、下から禍々しいほどの赤紫色が透けて見えてしまうのだ。
「こんなの……どうやって会社に行けっていうのよ……」
葵は両手で顔を覆い、しゃがみ込みそうになった。
今日は週明けの全体定例会議がある。先週勝ち取った大型案件『エテルナ』のキックオフミーティングも控えている。数十人の部下や他部署のマネージャーたちの前で、堂々と指示を出さなければならない日なのだ。
普段の葵なら、首元がすっきりと開いたスキッパーブラウスや、鎖骨を綺麗に見せるノーカラージャケットを迷わず選ぶ。それが「有能で清潔感のあるマネージャー・藤堂葵」の戦闘服だったからだ。
けれど、そんな服を着て行った瞬間、一発で破滅する。
首筋にこんな巨大なキスマークをつけたまま出社するなど、社会的な自爆行為以外の何物でもない。「藤堂マネージャー、週末に激しい情事を過ごしてきたのか」と社内の好奇の視線に晒され、築き上げてきたキャリアの威厳は木っ端微塵に砕け散るだろう。
何より――あの男に、見つかるわけにはいかなかった。
土曜日の夜、車で葵をエントランスまで送り届け、湊と一触即発の睨み合いを演じた同期のエース、結城颯真。
『これで、あの男にも見せつけられますね』
首筋を吸い上げた直後、艶然と微笑みながらそう言い放った湊の低く甘い声が、耳の奥で鮮明に蘇る。
結城に見せつけるために刻まれたマーキング。
もし結城がこの痕を目にしたら、鋭い彼のことだ、土曜の夜に葵を連れ去った湊の仕業だと瞬時に見抜くだろう。そして、葵が十八歳の青年に弄ばれ、支配されているという決定的な事実を突きつけられることになる。
「絶対に、隠し通さなきゃ……!」
葵は洗面台から飛び出し、寝室のウォークインクローゼットへと駆け込んだ。
ハンガーにかかる春夏のワードローブを、必死の形相で手荒にかき分ける。
襟付きのシャツ――だめだ、第一ボタンまで留めても、首の横側の皮膚は隠しきれない。
スカーフを巻く――急に真夏のような気候の中でスカーフを巻き始めたら、かえって「何か隠している」と怪しまれる。
葵が目を血走らせてクローゼットの奥の引き出しを漁ること十分。
衣装ケースの底から引っ張り出したのは、昨年の初秋にセールで購入したまま、ほとんど袖を通していなかった一着のトップスだった。
上質な極薄手のサマーウール混紡で作られた、ブラックのノースリーブ・ハイネックニット。
そして、その上に羽織るための、襟ぐりの深い同素材のカーディガン。
ハイネック部分は、折り返さずに首の付け根から顎の下近くまでを完全に覆い隠すタートルネック仕様になっている。これならば、どんなに首を動かそうが、髪をかき上げようが、鎖骨の上の赤紫色の痕跡は外界から完全に遮断される。
「……これしかないわ」
葵は躊躇うことなくそのニットに腕を通した。
首元を包み込む布地の感触。顎のすぐ下までしっかりと黒い生地が密着し、鏡を確認すると、あの忌々しい痕は完璧に闇の中へと消え去っていた。
けれど、問題は気温だった。
五月の最終週。今日の最高気温の予想は二十七度。初夏の汗ばむような陽気が約束されている日に、首元を完全に塞いだ黒のタートルネックニット。
ノースリーブの上に薄手のカーディガンを羽織っているとはいえ、季節感という点においては、どう見ても不自然極まりない装いだった。
「……エアコンの冷房対策ってことにすれば、なんとか誤魔化せるはず……」
自分にそう言い聞かせ、葵は小さく息を吸い込んだ。
リビングへ出ると、香ばしい焼き魚の匂いと、炊き立てのご飯の蒸気がふわりと漂ってきた。
キッチンカウンターの向こう側では、湊が今朝も淡いベージュのエプロンを身につけ、小鉢を並べているところだった。
「あ、葵さん、おはようございます」
振り返った湊は、まるで土曜日の夜の狂気的な激情など最初から存在しなかったかのように、爽やかで無邪気な笑顔を浮かべた。
朝の清々しい光を浴びるその美貌は、どこまでも純真で、透き通るように美しい。
けれど、葵の姿を視界に収めた瞬間、湊の切れ長の漆黒の瞳が、ピクリとわずかに細められた。
湊の視線は、葵の顔から、その首元――顎の下までしっかりと覆い隠された黒いタートルネックへと、ゆっくりと滑り落ちた。
「…………」
湊の口元が、微かに、本当にわずかに吊り上がったのを、葵は見逃さなかった。
すべてを察した男の、意地悪で、至福に満ちた笑み。
「葵さん、今日のお洋服……首元、すごく素敵ですね」
湊はテーブルに味噌汁のお椀を置きながら、耳元をくすぐるような甘い声で言った。
「外は結構暑くなりそうですけど……首、冷えちゃったら大変ですもんね」
「っ……! み、湊くん、朝ご飯いただくわね!」
葵はカッと顔が熱くなるのを誤魔化すように、早口で言って席に着いた。
今日の献立は、身のふっくらとしたアジの干物と、錦糸卵と三つ葉をあしらった冷や奴、ナスと油揚げの赤出汁。完璧すぎる和朝食だ。
美味しくないはずがなかった。けれど、箸を動かす葵の首筋には、タートルネックの布地が擦れるたびに、あの土曜の夜に湊の唇から注ぎ込まれた熱の記憶が、チリチリとした痛痒感となって蘇ってくる。
向かいの席に座る湊は、自分のご飯にはほとんど手をつけず、頬杖をついてじっと葵の首元を見つめていた。
黒い生地に隠された、自らのつけたマーキングの存在を確かめるように。
その熱を帯びた視線に射抜かれながら、葵は逃げるように朝食を平らげ、逃げるように玄関へと向かったのだった。
***
午前八時四十五分。
都心のオフィス街は、初夏の眩い陽光に照らされ、ビル風が温かい空気を運んでいた。
駅の改札を出た瞬間から、葵の背中にはじっとりと汗が滲み始めていた。
薄手のサマーニットとはいえ、首元を完全に塞がれている息苦しさは想像以上だった。行き交う人々は半袖のシャツや、首元の涼しげなブラウスを着こなしている。その中で、一人だけ首元まで黒いタートルネックで固め、ジャケットを羽織っている葵の姿は、どう考えても浮いていた。
(見られてる……? ううん、自意識過剰よ。誰も他人の首元なんて気にしてないわ……)
自分にそう言い聞かせながらも、すれ違う人々の視線がすべて自分の喉元に突き刺さっているような錯覚に囚われ、葵は足早に本社ビルへと滑り込んだ。
オフィスに入ると、すでに空調は入っていたものの、フロアの空気は週明け特有の熱気に包まれていた。
「あ、藤堂マネージャー! おはようございます!」
自席へ向かう途中、すれ違った制作三課のミホが立ち止まり、ペコリと頭を下げた。
そして、葵の服装に目を留めた瞬間、ミホの丸い瞳がさらに丸くなった。
「あれ? 葵さん、今日のお洋服、なんだか雰囲気違いますね! タートルネックなんて珍しい……! あ、でもシックで大人っぽくてすごく素敵です!」
「あ、ありがとう、ミホちゃん。……ちょっとね、最近ビルの冷房が強くて、喉をやられそうだったから。首元を温めておこうと思って」
葵は喉の奥が引き攣るのを必死に抑え込みながら、淀みのない笑顔で言い訳を口にした。
「あー、分かります! うちのフロア、午後になると冷え込みますもんね! さすが葵さん、自己管理が完璧ですね!」
無邪気に納得して席に戻っていく後輩の背中を見送りながら、葵は胸を撫で下ろした。
よし、この調子だ。「冷房対策」という大義名分さえ通せば、誰も深く詮索はしてこない。
葵は自席に腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。
午前十時からの定例会議の資料をチェックし、メールを捌き、部下からの相談にテキパキと指示を出す。仕事に没頭していれば、首元の違和感も気にならなくなるはずだった。
――けれど。
現実は、そう甘くはなかった。
パソコンのマウスを動かし、視線をモニターから手元の書類へと移す。
首を下に傾けた瞬間、タートルネックの黒いリブ生地が、右の鎖骨のすぐ上の鬱血痕に、ギュッと擦れた。
「……っ」
葵の喉から、小さな息が漏れた。
痛痒い。
布地が皮膚を擦るたびに、まるで湊の指先がそこをなぞっているかのような錯覚が走る。
さらには、首元が熱を帯びて体温が逃げないせいで、脈打つ心臓の鼓動が、そのまま首筋のキスマークへとダイレクトに跳ね返ってくるのだ。
ドクン、ドクン、と熱を放つ患部。
目を閉じれば、暗闇の中で自分を組み伏せ、首筋に唇を吸い付かせてきた湊の熱い呼気と、あの獰猛な瞳が脳裏を支配する。
(……ダメ。考えちゃダメよ……!)
葵はペンを握る手に力を込め、必死に雑念を振り払おうとした。
だが、肌に張り付くタートルネックの感触そのものが、葵に「お前は今、あの少年の痕跡を隠しているのだ」という事実を、一分一秒たりとも忘れさせてくれなかった。
仕事を進めよう配慮すればするほど、意識は首筋の小さな点へと吸い寄せられていく。
まるで、目に見えない首輪を嵌められ、遠隔で鎖を引かれているかのような、甘美で息苦しい支配感。
「藤堂マネージャー、この見積書なんですが――」
「えっ!? あ、はい! 何かしら!?」
隣の席のデザイナーに声をかけられただけで、葵は過剰なまでに肩を跳ねさせてしまった。
「ど、どうしたんですか葵さん、そんなに驚いて……」
「ご、ごめん、ちょっと集中しすぎてて……! どれ、見せてちょうだい」
葵は冷や汗を拭いながら書類を受け取った。動揺が指先にまで伝わり、紙を持つ手がわずかに震えているのが自分でも分かった。
(落ち着きなさい、藤堂葵……! 誰も気づいてない。誰も何も見てないんだから……!)
心の中で何度も呪文のように唱え、なんとか午前中の業務をこなしていった。
そして、正午。
ランチタイムを告げるチャイムがフロアに鳴り響いた、その時だった。
「――おいおい。なんだその格好は」
背後からかけられた、聞き慣れた低く涼やかな声。
その瞬間、葵の全身の毛穴がキュッと収縮し、心臓が喉から飛び出そうになった。
恐る恐る振り返ると、そこにはアイスコーヒーのカップを指先に引っ掛けた結城颯真が立っていた。
仕立てのいいライトグレーのスーツに、ノーネクタイの開襟シャツ。初夏にふさわしい爽やかで洗練された佇まいで、結城は片眉を面白そうに持ち上げ、葵の全身を上から下まで、スキャンするように見つめていた。
「ゆ……結城くん」
「急に寒波でもやってきたのか? 藤堂」
結城は葵のデスクのパーテーションに肘をつき、身を乗り出してきた。
その切れ長の瞳が、葵の首元――顎の下までみっちりと詰まった黒いタートルネックを、まじまじと凝視している。
「今日の外気温、二十七度だぞ。フロアの冷房だって、まだドライ運転が入ったばかりだ。そのクソ暑い日に、首元まで完全防御のタートルネックって……お前の体感温度、どうなってんだよ」
「べ……別にいいじゃない! 私、寒がりなのよ! 女性の身体は冷やしちゃいけないって言うでしょ!?」
葵は早口でまくしたて、防衛本能のままに右手を伸ばし、無意識のうちに首元のタートルネックの生地を指先でキュッと引き上げた。
隠そうとする仕草。
不自然なまでの拒絶反応。
結城のような、人間の心理の機微を見抜くことに長けたクリエイターが、その決定的な違和感を見逃すはずがなかった。
「……ふーん」
結城の瞳の奥から、からかいの色がスッと引いた。
代わりに灯ったのは、獲物の急所を見据えるような、鋭く冷ややかな観察眼だった。
結城は手にしていたアイスコーヒーを葵のデスクの上にコトリと置くと、スッと身体を葵の至近距離へと近づけてきた。
「冷え性、ねぇ」
低く、耳元に届くような声。
オフィスの中だというのに、結城が放つ大人の男の威圧感が、葵のパーソナルスペースを容赦なく圧迫してくる。
「先週まで、デコルテが開いたスキッパーシャツ着て『暑い暑い』ってうちわで扇いでた奴が、土日を挟んだ途端に極度の冷え性に変身か」
「そ、それは……体調なんて日によって変わるものよ!」
「体調、ね。……それとも、何か見せられない理由でもあるのか?」
「っ……!?」
葵の息が、喉の奥で完全に止まった。
図星を突かれた衝撃に、心臓が激しく跳ね上がる。
結城は目を細め、葵の首筋からわずかに浮き上がったタートルネックの境界線を、探るように見つめていた。
「土曜日の夜、ずいぶん威勢のいいお迎えが来てたもんな」
結城の唇から、あの嵐のエントランスの記憶が、滑らかに紡ぎ出された。
「あの長身の男の子……九条湊くん、だっけ? 俺を睨みつける目が、完全に獲物を奪われかけた獣の目だったぞ。……俺が車でお前を送ったのが、よっぽど気に食わなかったらしいな」
「結城くん、あの時は本当にごめんなさい! あの子、ちょっと気が立ってて、失礼な態度をとっちゃって……」
「謝る必要はないさ。俺は別に気にしてない。……ただ、気になるのはお前の方だ」
結城が、すっと右手を持ち上げた。
長くて乾いた指先が、葵の首元――黒いサマーニットのハイネックの端へと、躊躇いなく伸ばされる。
「ちょっ……何するのよ!?」
葵が咄嗟に顔を背け、後ずさりしようとした。
だが、結城の指先は、葵のタートルネックの襟元を、ほんの数ミリだけ指で軽く摘み上げた。
「暴れるなよ。ちょっと首元の生地をめくれば、お前のその頑なな『冷え性』の正体が分かるんじゃないかと思ってさ」
「やめてっ!!」
葵は本気で叫びそうになり、両手で結城の手首を必死に押し返した。
その拍子に、葵の爪が結城の袖口を強く引っ掻く。
結城の手が止まった。
葵のあまりにも鬼気迫る拒絶と、蒼白になった表情を見て、結城は小さく息を呑んだ。
そして、ゆっくりと手を引いた。
「……冗談だよ。そんなに怯えるな」
結城は苦笑いを浮かべたが、その瞳の奥には、確信に満ちた色が色濃く沈んでいた。
「本気でめくったりしないさ。セクハラで訴えられたら敵わないからな」
「……当たり前よ。冗談でもやめて」
葵は乱れた呼吸を整えながら、タートルネックの首元を両手でギュッと押さえた。
心臓が破裂しそうだった。
もし今、結城の手によってこの生地が一瞬でも引き下げられていたら――。
あの赤紫色の生々しいキスマークが、白日の下に晒されていたら――。
想像するだけで、血の気が引いて手足が冷たくなっていく。
けれど、結城の追撃は、そこで終わりではなかった。
結城はパーテーションから背筋を伸ばし、腕を組んで葵を見下ろした。
そして、試すような、けれどどこか残酷な響きを帯びた声で、静かに言ったのだ。
「なぁ、藤堂」
「……何よ」
「首筋、熱いだろ」
「――っっっ!?」
葵の全身を、雷撃のような悪寒と戦慄が貫いた。
「タートルネックで隠したって、皮膚に残った熱までは隠せない。……お前、さっきからずっと首筋を気にして、仕事中も上の空だぞ」
結城の涼やかな瞳が、葵の動揺のすべてを見透かしていた。
「あの男につけられたんだろ。……消えない痕を」
「な……っ、な、何言ってるのよ、そんなわけ――」
「否定するなら、そのタートルネック、今ここでめくってみろよ」
「…………っ!」
言葉が、出なかった。
喉がカラカラに渇き、声帯が凍りついたように動かない。
めくれるはずがなかった。
ここに、あの十八歳の少年の牙と唇によって刻まれた、ドロリとした独占欲の証が刻みつけられているのだから。
葵の沈黙は、雄弁すぎる肯定だった。
結城はフッと短いため息を吐き出し、視線を天井へと逸らした。
その横顔には、大人の男としてのプライドを粉々に砕かれたような、苦々しい屈辱と悔しさが滲んでいた。
「……あいつ、やるな」
ポツリと、結城が呟いた。
「俺への当てつけのために、お前の身体にマーキングを残して……お前を一日中、自分の痕跡で縛り付けてるわけだ。……十八歳のガキのくせに、男としての急所を完璧に心得てやがる」
「結城くん……」
「言っとくけどな、藤堂」
結城は再び葵に視線を戻した。その瞳には、諦めではなく、むしろ闘志の炎がメラメラと燃え上がっていた。
「俺は、あんなガキの独占欲にビビって手を引くほど、物分かりのいい男じゃないからな」
「え……?」
「お前がいくらその首元を隠して、あいつの影に怯えてたって……俺はお前を諦めないぞ。あんな不安定な居候に振り回されてるお前を見てる方が、よっぽど我慢ならない」
結城はそう言い放つと、葵のデスクの上に置いていたアイスコーヒーを手に取り、くるりと踵を返した。
「今日の昼飯、付き合えよ。社員食堂でいいからさ。……タートルネックのマネージャーさんを、少し冷ましてやるよ」
そう言って、結城は振り返りもせずに歩き去っていった。
取り残された葵は、椅子の背もたれに崩れ落ちるように体重を預けた。
「……っ、はぁぁぁぁ……っ」
深い、長い息が口から漏れ出た。
全身の力が抜け、指先がカタカタと震えている。
結城には、すべて見抜かれていた。
隠し通せたと思っていたタートルネックは、かえって結城の疑念を確信へと変え、男の独占欲の火に油を注ぐ結果になってしまったのだ。
そして――何よりも葵を激しく苛んだのは、自分自身の身体の反応だった。
結城に「首筋、熱いだろ」と指摘されたその瞬間。
葵の脳裏に、土曜の夜の湊の姿が、暴力的なまでの鮮明さでフラッシュバックしたのだ。
――『これで、あの男にも見せつけられますね』
耳元で囁かれた、あの掠れた甘い低音。
首筋に吸い付いてきた、唇の熱い湿り気。
肌を抉るように食い込んできた、鋭い犬歯の痛痒感。
そして、自分を完全に組み伏せ、逃げ場を奪った、十八歳の少年の狂おしいまでの執着。
「……っ!」
葵の顔が、耳の先まで、首筋の奥深くまで、カァッと一瞬にして沸騰するように赤く染まり上がった。
熱い。
結城の言う通りだった。
タートルネックの厚い布地の下で、湊の残したマーキングが、まるで生き物のようにドクドクと拍動し、葵の理性を根こそぎ焼き尽くそうとしていた。
オフィスの中で、大人の男に言い寄られながら、心と身体のすべては、あの狭いワンルームで待つ年下の少年の痕跡に、完全に支配されている。
そのあまりにも生々しい背徳感に、葵は両手で顔を覆い、デスクの上に突っ伏した。
早く帰りたい。
一刻も早く、この息苦しいオフィスを抜け出し、あの部屋へ戻りたい。
エプロンをつけて、満面の笑顔で出迎えてくれる、あの完璧なワンコのもとへ。
そして、この首筋の熱を、もう一度あの少年の手で確かめてもらいたい――。
そんな破滅的な本音が胸の奥底から湧き上がってくるのを、藤堂葵は、もう否定することができなくなっていたのだった。




