第20話:首筋に残されたマーキング
密閉された二〇五号室の玄関先には、外界の豪雨が嘘のように濃密で、息が詰まるほどの静寂が淀んでいた。
オートロックの頑丈な金属扉を隔てた向こう側では、初夏の嵐がアスファルトを激しく打ち据え、雷鳴が遠くの空を震わせているはずだった。だが、今の葵の耳に届くのは、耳朶のすぐ奥でドクドクと警鐘を鳴らし続ける自らの激しい血流の音と、目の前の青年が吐き出す熱く湿った息遣いだけだった。
背中は冷たい壁に押し付けられたまま。
逃げ場を完全に塞ぐように、湊の両腕が葵の身体を包囲していた。
「……っ、湊、くん……」
葵の唇から、情けないほど震えた掠れ声が零れ落ちた。
第一ボタンを外されたシルクブラウスの胸元から、ひんやりとした玄関の空気が素肌へと滑り込んでくる。そして、その露出した鎖骨のすぐ上の薄い皮膚には、今まさに湊の熱い唇が押し当てられようとしていた。
噛み付かれる――。
野生動物の牙を喉元に突きつけられたかのような本能的な恐怖に、葵の全身の筋肉がギチギチと悲鳴を上げて硬直した。三十三年間、社会の荒波に揉まれ、どんな理不尽なトラブルにも動じずに「鉄壁のマネージャー」を演じ続けてきたはずの自我が、十代の少年の放つ圧倒的な暴力的なまでの気迫の前に、まるで薄氷のように粉々に砕け散りそうだった。
恐怖のあまり、葵の細い肩が目に見えてガタガタと小刻みに震え始める。奥歯がカチリと音を立て、瞳から急速に涙の膜が張っていく。
「…………っ」
その時、葵の首筋に触れかけていた湊の吐息が、ピタリと止まった。
葵の肩に添えられていた湊の指先が、ビクリと跳ねる。
湊は、葵が本気で怯え、今にも消え入りそうなほど小さく縮こまって震えていることに、ようやく気がついたようだった。
数秒間の、凍りつくような沈黙。
やがて――。
ふう、と深く長い呼気が、葵の首筋を優しく撫で上げた。
「……あ」
葵が息を呑んだ瞬間、首筋に迫っていた刃のような威圧感が、まるで潮が引くようにフッと霧散した。
ゆっくりと顔を上げた湊の表情を見て、葵は目を見張った。
そこには、先ほどまでの冷徹な捕食者の面影はどこにもなかった。
漆黒の瞳は哀しげに潤み、切れ長の目尻は痛ましそうに下がっている。薄い唇は固く結ばれるのをやめ、子どものように頼りなく震えていた。
雨に濡れて額に張り付いた黒髪。白い陶器のような頬に差す、罪悪感の赤み。
捨てられた大型犬のような、あの無垢で切ない表情が、そこには戻っていた。
「……ごめんなさい、葵さん」
降ってきたのは、驚くほど柔らかく、耳元をくすぐるような甘いハスキーボイスだった。
先ほど葵の鼓膜を直接震わせた、あの地を這うような重低音の怒声が、まるで幻覚だったかのように思えるほどの落差。
「怖がらせちゃいましたよね。僕……また、取り乱して……」
湊は壁を突いていた手を下ろすと、壊れやすい硝子細工を扱うかのような繊細な手つきで、葵の震える両肩をそっと包み込んだ。
そして、力を込めて乱暴に抱きしめるのではなく、優しく、慈しむように、自らの温かい胸の中へと葵の身体を引き寄せた。
ふわりと、葵の視界が湊の着ているコットンのカットソーの胸元で埋まる。
雨露の冷たさを吸った布地の奥から、湊自身の若々しく清潔な体温が、じわりと葵の額へと染み渡ってきた。
「大丈夫ですよ、葵さん。もう怒ってませんから……怖がらないで」
湊の大きな手のひらが、葵の後頭部へと添えられた。
指先が葵の髪を梳くように動き、耳の後ろを優しく撫でる。もう片方の腕が葵の背中に回され、上から下へと、硬直した筋肉を解きほぐすように、ゆっくりとしたリズムでさすり始めた。
「よし、よし……。葵さん、たくさんお仕事して、嵐の中を帰ってきて、すごく疲れてるのに……僕がひどいこと言いました。ごめんなさい」
耳元で囁かれる言葉は、全肯定の甘やかさに満ちていた。
母親が幼子をあやすような、あるいは傷ついた小動物を保護するような、絶対的な慈愛。
「……湊、くん……」
「はい、湊ですよ。葵さんのワンコです。どこにも行きませんから、安心してくださいね」
背中をさする手のひらの温もりに包まれながら、葵の胸の奥から、ホッと安堵の息が漏れ出た。
(……よかった。いつもの、湊くんだ……)
張り詰めていた神経の糸が緩み、ガチガチに強張っていた四肢からストンと力が抜ける。
やっぱり、あの子はまだ十八歳の少年なのだ。大好きな飼い主が他の男と帰ってきたのを見て、パニックになって一時的に感情が爆発してしまっただけ。こうして落ち着けば、いつもの従順で心優しい湊に戻ってくれるのだ――。
葵は自分にそう言い聞かせ、湊の胸元に完全に体重を預け、目を閉じた。
激務と移動の疲労がどっと押し寄せ、温かい腕の中で深く息を吸い込む。
――だが。
藤堂葵という三十三歳の大人の女は、決定的な過ちを犯していた。
目の前にいる青年が、ただの「従順な犬」などではないということを。
牙を隠し、自らの首に巻かれた鎖を飼い主に握らせながら、その実、飼い主の喉笛を完璧に狙い澄ましている――老獪で獰猛な肉食獣であるという事実を、安堵のあまり一瞬だけ忘れてしまっていたのだ。
葵が完全に警戒を解き、その身体の力を抜ききった――まさにその刹那だった。
背中を優しくさすっていた湊の手のひらが、ピタリと動きを止めた。
そして、葵の後頭部を撫でていた湊の指先が、葵の髪の隙間にスッと深く潜り込み、後頭部の生え際を、逃がさないようにギュッと万力のように固定した。
「……え?」
葵が目を瞬かせ、顔を上げようとした。
だが、動かない。
湊の腕の力は、先ほどの優しい抱擁から一変して、鉄の枷のように葵の身体をガッチリとロックしていた。
「湊、くん……?」
葵の喉が引き攣った。
湊は葵の問いかけに答えなかった。
代わりに、葵の腰を抱き寄せていた湊の左手が、葵のサマージャケットの襟元へと滑り込んだ。
サラリ、と滑らかな音を立てて、葵の肩からジャケットが引き剥がされる。抵抗する間もなく、薄手のジャケットは音もなく玄関の床へと落とされた。
露わになったのは、葵が着ているラベンダー色のシルクブラウス一枚。
そして湊の長い指先は、すでに外されていた第一ボタンのさらに下――胸元の『第二ボタン』へと、淀みのない所作で掛けられた。
パチン。
小さなスナップの弾ける音が、静寂な玄関に響き渡った。
「ちょっ……待って、湊くん! 何をして――」
「葵さん」
葵の抗議を遮ったのは、耳元へと落ちてきた、恐ろしいほどに低く冷徹な囁きだった。
背中を撫でていたあの甘く優しい声音は、跡形もなく消え去っていた。
濁り、熱を帯び、どこまでも深く沈み込んだ、大人の男の声音。
「言いましたよね。……お仕置きは、必要だって」
「っ……!?」
湊の手が、葵のブラウスの合わせ目を、躊躇うことなく左右へと大きく押し広げた。
外気が、葵の無防備な胸元を撫で上げる。
露わになったのは、華奢な肩のラインと、深く窪んだ鎖骨。そして、そのすぐ上に広がる、雪のように白く柔らかな皮膚だった。
葵の視界の端で、湊の横顔が見えた。
その顔に浮かんでいたのは、花のような笑顔でも、泣きじゃくる仔犬の表情でもなかった。
前髪の隙間から覗く漆黒の双眸は、底知れぬ狂気と、獲物を完全に追い詰めた捕食者の昏い愉悦に濡れていた。
薄い唇が、妖艶な弧を描いて吊り上がっている。
「だ、め……湊くん、やめて――!」
葵が叫ぼうと唇を開いた、その瞬間。
――ジュッ、と音がしそうなほどの熱量が、葵の右の鎖骨のすぐ上の皮膚へと、直接押し当てられた。
「…………っっっっ!?」
声にならなかった。
息が肺の奥で詰まり、葵の瞳が大きく見開かれる。
湊の熱く湿った唇が、葵の白い皮膚へと深く、密着するように吸い付いてきたのだ。
柔らかな唇の弾力。
濡れた舌先が、葵の鎖骨の窪みをツッと撫で上げ、皮膚の表面の産毛を一瞬にして粟立たせる。
電撃のような快感が脊椎を駆け上がり、葵の腰がビクンと跳ねた。
「ん……っ、あ……っ!」
逃げようと、葵は両手で湊の肩を必死に押し返そうとした。
だが、湊の肩の筋肉は岩のように硬く、葵の華奢な手のひらごときでは一ミリたりとも押し戻すことができない。
それどころか、湊は後頭部を固定する手にさらに力を込め、葵の首筋を自らの唇へとさらに深く押し付けた。
そして。
――チクリ。
鋭い痛みが、快感の渦の中に突き刺さった。
「いっ……!?」
湊の鋭い犬歯が、葵の首筋の柔らかな皮膚を、容赦なく甘噛みしたのだ。
痛い。
けれど、血が滲むほどではない。皮膚を引き千切るような激痛ではなく、神経の最も敏感な部分をギリギリと締め上げるような、甘く痺れるような暴力的な刺激。
湊の唇が、キュウと音を立てて皮膚を強く吸い上げる。
肉を吸い寄せ、歯で挟み、舌で転がし、内側の毛細血管を意図的に破裂させようとする、執拗で情け容赦のない吸引。
「や……やだ、湊くん……っ! 痕に、なっちゃう……っ、跡がついちゃうから……っ!」
葵は涙声で懇願した。
首筋だ。鎖骨のすぐ上だ。
そんな場所に目立つ痕をつけられたら、月曜日に会社へ行けなくなってしまう。ブラウスの襟元から丸見えになってしまう。社会人として、管理職として、絶対に許されないスキャンダルだ。
だが、葵の必死の拒絶は、かえって湊の独占欲の炎に油を注ぐ結果にしかならなかった。
「ん……っ、んぅ……」
湊の喉から、低く濁った唸り声が漏れる。
吸い上げる力は弱まるどころか、さらに深く、激しさを増していった。
葵の抵抗を完全に封殺するように、湊の腰が葵の下腹部へとグッと押し付けられる。カットソー越しに伝わってくる、湊の体躯の逞しさと、熱を帯びて硬直した肉体の質量。十八歳の少年とは思えない、圧倒的な雄の圧力。
(……あぁ、ダメ……っ)
葵の頭の中が、真っ白に染まり始めていた。
痛覚と、濡れた舌の愛撫と、吸い上げられる皮膚の熱。
三つの異なる刺激が絶え間なく脳髄を麻痺させ、葵の膝から完全に力が抜け落ちていく。
壁に寄りかかっていなければ、その場に崩れ落ちていただろう。葵の両手は、いつの間にか湊の肩を押し返すのをやめ、その逞しい背中のカットソーをぎゅっと爪を立てて握りしめていた。
拒絶しなければならないのに。
怒らなければならないのに。
身体が、熱い。
湊の吐息が首筋を打つたびに、葵の心の奥底に眠っていた「女」としての本能が、激しく疼いて歓喜の声を上げていた。
他の誰にも見向きもされず、仕事だけに擦り切れてきた三十三歳の身体に。
この美しすぎる少年が、自らの歯と唇を使って、狂おしいまでの執着を刻みつけている。
お前は俺のものだ。
誰にも渡さない。
外の世界の男になど、一ミリも触れさせはしない――と。
その歪んで重苦しい支配の儀式が、葵の理性を甘美な背徳感の泥沼へと引きずり込んでいく。
「……んぁ……っ、湊……くん……っ」
葵の唇から、自分でも信じられないほど甘く艶っぽい吐息が漏れ出た。
その嬌声を聞いた瞬間、湊の喉が満足そうにゴクリと鳴った。
チュウ……ッ、と最後に深く強く吸い上げられ、そして――。
パッと、唇が離された。
「……っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
解放された葵は、壁に背中をもたれかけさせたまま、激しく肩で息をした。
首筋が、ジンジンと焼けるように熱い。まるで熱したコインを直接押し付けられたかのような、強烈な拍動痛が脈打っている。
葵の乱れた前髪が額に張り付き、胸元は大きくはだけ、濡れた瞳は焦点を失って宙を泳いでいた。
そして、葵の目の前で。
湊が、ゆっくりと身体を起こした。
長身から見下ろしてくるその顔には、先ほどまでの荒々しい興奮は綺麗に収まっていた。
けれど、その表情は――背筋が凍りつくほどに美しく、そして残酷だった。
湊の薄い唇は、葵の肌を吸い上げたせいで、濡れて赤く艶めいていた。
自らの人差し指の腹で、その濡れた下唇をそっと拭うと、湊は葵の首筋へと、冷ややかに研ぎ澄まされた視線を落とした。
「…………綺麗です」
湊の口から零れ落ちたのは、うっとりとした感嘆の息だった。
葵がおずおずと、震える指先を自らの首筋へと這わせる。
触れた瞬間、指先に確かな熱と、微かに腫れ上がった皮膚の起伏が伝わってきた。
右の鎖骨のすぐ上。
女性の首元で、最も薄く、最も白く、そしてブラウスを着た時に最も視線を集める急所。
そこに、くっきりと。
直径三センチほどの、鮮烈な赤紫色の鬱血痕が、まるで焼き印のように刻みつけられていた。
湊の唇の形そのままに、中央には微かに犬歯の跡まで残る、消えることのない所有の証。
「あ……っ、嘘……こんな……っ」
葵の顔から血の気が引いた。
これほど濃い内出血の痕は、二日や三日で消えるはずがない。コンシーラーを厚塗りしたところで、首筋を動かせばすぐに透けて見えてしまうだろう。
明後日の月曜日、会社にどうやって行けばいいのか。
同僚たちに、部下に、そして――結城に見られたら、一体どう弁明すればいいというのか。
「ど、どうして……こんなこと……! 会社に、行けなくなっちゃうじゃない……!」
葵が涙目で抗議すると、湊はふっと目を細めた。
その瞳の奥に宿っていたのは、葵の社会的な破滅など痛くも痒くもないと言わんばかりの、昏く歪んだ愉悦の光だった。
湊は葵の前に片膝をつき、下から葵の顔を覗き込んできた。
そして、天使のように無垢で、けれど悪魔のように甘い微笑みを浮かべながら、耳元へと囁いたのだ。
「いいじゃないですか」
湊の指先が、葵の首筋に刻まれた赤紫の痕を、慈しむようにそっと撫でた。
ヒリヒリとした痛痒感が走り、葵の身体が震える。
湊は葵の瞳をじっと射抜いたまま、至福に満ちた声で言い放った。
「これで、あの男にも見せつけられますね」
「――っっっ!!」
息が止まった。
結城に見せつけるため。
葵を車で送り届け、傘の中で肩を抱き寄せたあの男に、この女はすでに他の男の所有物なのだと、言葉を交わすまでもなく分からせるため。
その目的のためだけに、湊はこの残酷で鮮明な刻印を、葵の素肌に深く刻み込んだのだ。
「あの男……結城さん、でしたっけ」
湊の唇から、結城の名が滑らかに紡ぎ出された。車寄せでの葵の呼びかけを、しっかりと記憶していたのだ。
「月曜日の朝、葵さんのこの首筋を見たら……どんな顔をするんでしょうね。自分が手を出そうとしていた女が、休日の間に他の男にこんなにも深く噛み痕を残されてるって知ったら……」
湊はそう言って、クスクスと喉を鳴らして笑った。
十八歳の少年の、無邪気で残酷な勝利宣言。
葵の社会的立場も、職場の人間関係も、すべてを巻き込んで焼き尽くそうとする、底知れない独占欲の狂気。
恐ろしい。
狂っている。
この少年は、葵の人生のすべてを自らの手で支配し、外の世界の男たちから完全に隔離しようとしているのだ。
それなのに。
首筋に残された熱い痕跡を指先でなぞりながら、葵の胸の奥底で広がっていくのは――言葉にできないほどの、甘美な背徳感の歓喜だった。
(……私、本当に……この子のものにされちゃったんだ……)
逃げられない。
この痕がある限り、自分は誰の前でも「九条湊の女」としての刻印を背負って生きるしかない。
その決定的な屈服が、葵の理性を甘く溶かし、魂を芯から痺れさせていた。
「……さぁ、葵さん」
湊は何事もなかったかのように立ち上がると、床に落ちていた葵のジャケットを拾い上げ、埃をパパッと払ってハンガーに掛けた。
そして、葵に背筋を伸ばして向き直ると、いつもの花が綻ぶような満面の笑みを浮かべたのだ。
狂気も、冷徹さも、雄のフェロモンも、一瞬にして完璧な仮面の裏へと隠されていた。
「お風呂、熱めに沸かしておきましたよ。雨に濡れて身体が冷えちゃってますから、ゆっくり温まってきてください」
「湊、くん……」
「お風呂から上がる頃には、牛すじの味噌煮込み、ちょうどいい温度に温め直しておきますね。大根にもコンニャクにも、味が染み染みで最高に仕上がってますから」
湊はそう言って、エプロンの紐をキュッと腰の後ろで結び直した。
完璧な、家事万能のワンコ。
葵の胃袋を掴み、生活を整え、従順に仕える愛らしいペット。
けれど、その手で葵の首元に消えないマーキングを刻みつけた張本人が、平然とキッチンへ向かい、鼻歌交じりに鍋の火をつける。
その圧倒的な二面性の落差に、葵は眩暈を覚えながら、震える足で脱衣所へと向かった。
パタン、と脱衣所のドアを閉め、葵は洗面台の大きな鏡の前に立った。
照明の白い光が、鏡の中の自分を冷酷に照らし出す。
乱れた髪。上気した赤い頬。
そして――はだけたシルクブラウスの胸元、白い鎖骨のすぐ上。
「……っ」
葵は息を呑み、両手で口元を押さえた。
鏡の中に映っていたのは、想像を絶するほど鮮烈な、赤紫色のキスマークだった。
花びらのように濃く、禍々しいほどに艶やかなその痕跡は、三十三歳のくたびれたキャリアウーマンの首筋に、消えない背徳の刻印として燦然と輝いていた。
指先でそっと触れると、ズキリとした甘い痛みが走る。
月曜日、オフィスで結城と顔を合わせた時のことを想像するだけで、心臓が破裂しそうだった。
隠さなければならない。
絶対に、誰にも見られてはならない。
けれど、鏡の中の自分の瞳が、どこか熱っぽく潤み、微かに昂揚しているのを、葵は否定することができなかった。
キッチンの向こうからは、トントントン、と軽快にネギを刻む包丁の音が響いてくる。
そして、ふわりと漂ってくる、甘辛い味噌と牛すじの濃厚で温かい香り。
首筋に刻まれた熱いマーキングと、胃袋を満たす極上の手料理。
十八歳の完璧すぎるワンコに、生活も、心も、そして身体の皮膚一枚に至るまで完全に飼い慣らされ、支配されていく快感に身を震わせながら、藤堂葵は、後戻りのできない甘美な深淵の底へと、自ら足を踏み出していったのだった。




