第90話
「……という感じで、ぜんぜん会話できなくて、仕方ないから一人で戻ってきちゃったんだ」
太郎の説明に、ことりと藤木はともに絶句していた。
ことりは藤木が崎田の股間を蹴り上げたことをいま初めて知ったので、その意外な行動に驚いていたが、同時に藤木がやり返せる人なんだということに、どこか安堵もしていた。
しかし、思わぬタイミングで自らの蛮行を暴露された藤木は、かなり動揺したようだった。
「あ、あの、穂村……くん?」
「はい?」
藤木はちょっとぷるぷるしながら口を開いた。
「その……わたしが崎田さんを蹴った話は……あんまり口外しないでいただけると……その、う、嬉しいかしら」
「あ、はい。わかりました」
太郎は素直に頷いた。
ただ、藤木がそう要求した気持ちについてはあまりぴんと来ていない顔で、ことりはあとでフォローしてあげるべきかもと考える。
「それで、崎田さんはもうそのままにしておくとしても、このあとどうするか、なんですが」
太郎がそう言うと、藤木が「ちょっと待って」と遮った。
「何ですか?」
「あの」
藤木は言葉を選びながら言う。
「その相談の前に、教えて欲しいの」
「はい」
「穂村君が助けてくれたのはほんとに嬉しかった。感謝しています。でも……」
「……でも?」
藤木は真っ直ぐに太郎の顔を見た。
「あなた、どうしてわたしが崎田さんに襲われそうになっていたことがわかったのかしら?」
あっ! とことりは思わず叫びそうになった。
太郎が藤木の危機を察知したのは、『気』を読んでいたからだ。
反対側の校舎で何が起こっているのか、すべてではないがかなり詳しく察する力があるからだった。
だがクラスでそれを知っているのはことりと、部分的にではあるが外山だけだ。
そして、『気』を読む力そのものは、超人太郎のナノマシン体と直接関係ないとはいえ、十分に一般人からは考えられない能力だった。
だってぼくは『気』を読めますから、と正直に太郎が言ったとして、藤木に信じてもらえるかどうかはわからない。
見方によっては超能力の類いにさえ思われかねない力を理由にして、藤木が納得してくれるのか。
藤木の反応次第では、太郎の秘密の一端を詳しく明かすことになってしまうのではないか。
ことりはぞくりと背筋が震えるのを感じた。
(た、太郎ちゃん……ど、どうする気? なんて答えるの?)
焦ることりが太郎を見つめると、しかし太郎は逆にちょっと不思議そうに首を傾げて言った。
「どうしても何も……知らせてきたのは藤木さん、あなたのほうじゃないですか」
「ええっ?」
「はぁっ?」
太郎の返事に、ことりと藤木はそれぞれ驚きの声を上げ、ことりは慌てて口を塞ぐ。
しかし藤木は、ことりのびっくりにまでは気がついていないようだった。
「わ、わたしが知らせた、ですって?」
「はい」
「それって、どういう……意味?」
困惑する藤木に、太郎は自分の携帯端末を取り出してみせる。
「ほら、これです」
太郎が見せた画面の着信履歴の最新のところに、藤木の番号が表示されていた。
「ええーっ!」
驚く藤木は、慌ててポケットから自分の携帯端末を取り出すと、発信履歴を確認した。
するとそこには、確かに藤木から太郎へ電話をかけた記録が残っていたのだった。
「うそ……なんで? わたし……」
藤木が呆然と画面を見つめる。
「……はじめは、まさか撮影中なのに私的な電話をかけてきたのかとびっくりしたんですが、仕事モードの藤木さんがそんなことをするとは思えなかったし、ぼくにかけているにしては様子がおかしかったので、とりあえず録音を始めて、あとはじっと聞いていたんです」
「え! 録音? したの?」
「はい」
今度は太郎が録音したファイルを表示し、端末の外部スピーカーから音を出して中身を二人に聞かせた。
『……きたさんがストーカーだったんですか?』
不明瞭だが、それでも何とか藤木の声と判別ができる音声のあと、ぱん! という何かを叩く音が聞こえた。
そして次には、やや興奮した崎田の声が入っている。太郎はそこまでで再生を切った。
「……これで、困ったことが起きているから、藤木さんがぼくに助けを求めて電話したのだとわかったんです。だからぼくは急いで、撮影している教室から控え室までの空き教室をひとつずつ確認しに行きました」
藤木は黙ったまま、ことりはうんうんと頷いて聞いている。
ほんとうはどの教室かもわかっており、そこへ真っ直ぐに向かったのであるが、場所がわかっていたことも正直に言えば、「それはなぜ」となってしまう。
太郎がそう考えて説明しているのだと、ことりには気づかれたようだった。
「そうして教室を見つけたとき、フラッシュで驚いてくれることを期待して、入ってすぐに写真を撮ったんです」
次に太郎は、崎田が藤木に馬乗りになった写真を画面に出して見せた。
写真では、仰向けの藤木の顔は映っていなかったが、崎田が制服を着た女生徒の上で振り向き、驚いている顔が鮮明に撮られていた。
手に持ったカッターナイフまでもはっきりと見えている。
太郎の意図としては証拠を残すことが一番であったけれど、それ以外にも、崎田に自分のほうへ向かって欲しかったというのが大きい。
そのために写真を撮れば、慌てて藤木から離れ、携帯端末を奪いに来てくれるのではないか、との狙いもあった。
凶器を持った崎田に、藤木を人質に取られるのが一番面倒であったからだ。
いまの太郎のスピードなら、崎田が藤木を人質にしたところで、何かする前に難なく制圧できると考えていたが、それを藤木に見られるのは好ましくないと感じたためでもあった。
「ストーカー行為はともかく、これなら崎田さんの暴行の十分な証拠になると思うので、さっきの音声ファイルと、この写真は藤木さんにお送りしますね」
太郎は世代のわりにはつたなく見える操作で、二つのファイルを自分のものから藤木の携帯端末へ送信した。
「あとこれ」
さらに太郎は、ズボンのポケットからティッシュに包まれた棒状の何かを取り出す。
「それは……?」
「崎田さんのカッターナイフです」
「うわ」
思わず声の出たことりが、固唾を呑んで太郎の手にあるものを見つめる。
「いちおう、崎田さんのあとは素手で触らないようにと思って、ティッシュに包みました。素人考えなので、これで大丈夫なのかどうかまではわからないんですけど」
どのような思いがあるのか、藤木はやはり無言でティッシュ包みのカッターナイフに視線を注いでいた。
「手に取るのはいやだとは思うのですが、これも重要な証拠のはずなので、藤木さんに預けます」
差し出されたカッターナイフへ、藤木はすぐには手を伸ばせなかった。
それでも差し出し続けていると、しばらく間があってから、おずおずと藤木はカッターナイフを受け取ったため、太郎は内心ほっと安堵していた。
これも最後は天井に突き立った状態になっており、太郎がひょいと跳び上がって回収してきたのだが、鉄筋の校舎より低いとはいえ教室の天井である。
普通には飛んでも跳ねても触れられる高さではなかった。
空き教室には踏み台になる机などもないため、外から脚立などを持ち込まないかぎり容易に回収はできない。
藤木がカッターナイフの所在を見ていたとしたら、どうやって確保したのか詰問されかねず、太郎はちょっとどきどきしていたのであった。
カッターナイフを手にする藤木を見ながら、ことりは感心する、というよりもほとほと呆れていた。
(太郎ちゃんてば、どんだけ考え尽くしてきたのよ……)
電話の件は、崎田の顔写真を撮ったときと同様に、藤木の携帯端末から発信してもらうよう、ナノマシンに働いてもらったに違いなかった。
藤木自身の意志にかかわりなく、ナノマシンなら太郎の願いに応えて電話をかけるくらい造作もないことだったろう。
ことり自身は太郎の『気』を感じ取る力を知っていたので、藤木のピンチを察したときも、何もおかしいとは思わなかった。
しかし、助けられた藤木にしてみれば、まさに間一髪のタイミングで、そこにいるはずのない太郎が飛び込んできたら、どうやって? と考えるのはむしろ当たり前のことだ。
太郎はそれもちゃんと前もって考えてあったのだ。
そして、その通話を録音して証拠とすること、さらに教室で真っ先に崎田の写真を撮ってしまうこと。
一秒でも早く藤木を解放したかったろうに、そこを意志の力でぐっと堪えて、シャッターを切ったのだろう。
カッターナイフだけはたまたまかもしれないが、どれもあとからきっと重要になることで、それだけにその場でぱっと思いつくものとは思えなかった。
おそらく太郎は。
(どんなふうに崎田さんが行動したとしても、それに対応できるように、考えつく限り全部の状況を想定したんだわ……)
いったいどれほど考え抜けばそんなことができるのか。
ただ藤木の身を守るだけではなく、そのあとのことまで。
ストーカー問題そのものを解決することも見据えて、考えて考えて考えたのに違いない。
太郎だって中学生である。超人であっても、大人ではない。できることは限られている。
その中で、何がどこまでできるのか。最大限にあらゆる可能性を検証してみたということだろう。太郎が口にした責任とは、きっとそういうことだ。
(いいなぁ、藤木さん……)
そこまで太郎に考えて、心配してもらえるなんて、羨ましい……。
そう思いかけて、ことりは慌てて頭をぶんぶんと振った。
(そうじゃないでしょ、バカ!)
自分と藤木では立場も状況もまったく違う。そもそも自分には、そんな深刻な悩みなどないではないか。
たまたま目の前に、ストーカーにつきまとわれて困っている藤木がいたから、太郎が親身に助けただけであって、もし自分が何かの問題に直面したとしたら、そして太郎がそれを知ったら、同じように考えて、助けてくれるはずだ。
ことりはそれを確信していた、が……それでも。
(やっぱり、ちょっと羨ましい、かな)
藤木がいろいろ混乱中であることは、太郎にははっきりと感じ取れた。
(まあ、そうなるよね)
藤木と崎田が二人だけのときに起きたことについては、のちにやった、やらないの水掛け論になり得ることを危惧していた。
そのため、どうすればそれを具体的な証拠として残すことが可能なのか、随分考えたのだった。
ナノマシンに電話をかけてもらうことはかなり早くから思いついていたが、それを二人に、とくに崎田に気づかれずに行うことができるかは賭けだった。
また通話できたとしても、どこまで音をきちんと拾えるかどうかもわからなかったので、少なくとも話している内容と、誰が話していたのかが判別可能な状態で録音できたのは、実にラッキーだったと思っている。
とはいえ、かけたつもりも記憶もない通話について、「そっちから知らせてきたでしょ」と言われたほうにとっては、戸惑い以外の何ものでもないだろう。
しかしここを正しく説明するわけにはいかなかった。
さらに藤木には、まだショックな情報をもうひとつ伝えねばならない。そのための確認をしてもらう必要もあった。
「藤木さん」
太郎が呼び掛けると、無言でカッターナイフを見ていた藤木は、つと顔を上げる。
「このあとは、もう大人に任せるしかないと思います」
「え……それは、どういう意味かしら?」
「藤木さんと崎田さん、その当事者同士で解決できる話ではなくなった、ということです」
「あ……」
「そしてもちろん、そもそも部外者のぼくやことりさんが関われることでもないです」
部外者、と太郎が言ったときの藤木の表情には、え、見放すの? とでも言いたげな様子が感じられた。が、これは受け入れてもらわねばならなかった。
「ストーカー行為だけでも問題ですが、今回は藤木さん自身がはっきりとした暴力を振るわれています。刃物まで用意されているんです。ここからは警察、あるいは少なくとも大人たちに関与してもらうしかない。この先、映画の撮影がどうなるかはもうわかりませんが、それも含めて、大人たちに事情を伝え、崎田さんの処遇について話し合いをしてもらわなければなりません」
太郎が映画の先行きにも触れると、藤木はうなだれた。
撮影中止もあり得ると考えたのだろう。
「そう、ね。もう……それしかないわ……ね」
藤木が、頬から外したハンカチを強く握りしめている。
その手が小さく震えていた。
それしかない、と言いつつも、気持ちはそう簡単に切り替えられないのだ。
ややあって、ようやく藤木は次の行動を口にする。
「……じゃあ、控え室に久保田さんがいるはずだし、一度戻って話を……」
何とか覚悟を決めた藤木が動き出そうとしたとき、しかし太郎が口を挟んだ。
「あ、藤木さん。すみませんが、連絡は久保田さんではなく、チーフマネージャーと言われていた新井さん、でしたっけ? そちらの方にお願いしたいんです」
「え?」
太郎の申し出に、藤木は形の良い眉をひそめる。
「でも新井さんはいま東京よ? そっちに連絡しても、こちらの問題には……」
「確認してもらいたいことがあるんです」
「……どういうこと?」
「お願いします」
藤木はますます不可解な太郎の申し出に戸惑いを隠さなかったが、言われるとおりに携帯端末から、新井へ電話をかけた。
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