第82話
「そこの眼鏡の人よ。そうでしょ?」
藤木が言葉を重ねる。
指差すほうにはおよそ喧嘩などしそうにない、細身で小柄な太郎がいるだけだ。山王は、しばしぽかんとしたあとで、額をペしっと叩いて笑い出した。いくらなんでも穴馬狙いがすぎるだろう。
野々原と五代、崎田は藤木の唐突な発言に戸惑っている。
「はっはぁ! おいおい、美由紀ちゃん! 何を言い出すかと思えば! さすがにそれは冗談きついぜ。え、なに? もしかして、場を和ませようとしてくれたの? それならわからなくもねーけどなぁ! くくくっ」
笑いが止まらなくなった山王は、しかしすぐに笑っているのが自分だけであることに気づく。
「くはは……あ? なんだ。どうしたってんだ?」
藤木の指摘に、クラスの誰一人として笑っているものはいなかった。
それどころか、ほぼ全員が驚きの表情を隠さない。
何より、目の前の外山が唖然とした顔で藤木を見つめていた。
「なんで……?」
「あん?」
「なんでわかった。見ただけで、てっぺんの強さを見抜けるわけなんてねーのに……」
外山はもう山王を見てさえいない。視線を受けた藤木は静かに笑みを返すだけだ。
山王があらためて太郎のほうを向く。
太郎は自席から無表情で振り返り……いやどことなく、迷惑そうな仏頂面をしているようにも感じられた。
穴が開くほど見つめてもただ小さくて細くて、どう考えてもこいつが目の前の男より強いようには見えない。
しかし教室内の生徒の反応は、藤木の指摘が正しいと伝えていた。
「まさか、マジなのか……?」
山王のつぶやきに、外山が無言で応える。それを肯定と取った山王は、思わず藤木を見た。
「美由紀ちゃん……どうして?」
「どうして?」
藤木は神秘的といっても良い微笑みとともに答える。
「だって、神託の巫女ですもの」
「……」
山王が黙り込む。
外山を始め、ことりたちのようなエキストラ側には藤木が何を言っているのかわからなかったが、山王以外も何も言わなかったので、野々原ら役者側には通じる言葉であったらしい。
「おい、そこの眼鏡君」
山王は、太郎に向かって声をかけた。
「こっちへきな」
今度は誰が見ても渋々であるとわかるような、あからさまに憮然とした表情で太郎が立ち上がった。
あいだにため息をひとつ足すことも忘れない。
外山の横に立った小柄な太郎を、山王はまじまじと見比べる。
「……ほんとにおまえが一番強いのか?」
まだ疑わしそうに山王が問うと、太郎は実に不承不承といった体で首肯した。
「そうですよ。でも、あなたに信じていただく必要はないですし、それに何より、ぼくにはあなたと喧嘩したい気持ちはこれっぽっちもないです」
太郎が外山をチラリと見る。
「外山君がやりたいって言うなら、それを止める権利もないですし。ただ、せめてやるなら、撮影が全部終わってからのほうがいいんじゃない?」
「……おれはいつでもかまわねーよ」
「おいおい」
山王は二人に割って入った。
「勝手に話を進めるんじゃねーよ。なんだよ、一番強ぇやつじゃないならやる意味ねーだろうが。なんなんだ、こりゃ。ぐだぐだだな。あー」
ガシガシと頭を掻く山王に、太郎が心底どうでもよさそうにして、胡乱げな目を向けた。
「ち。おい、おまえ」
山王は外山に話しかける。
「このちっこい眼鏡君に勝てば、おまえにも勝ったってことでいいんだよな?」
「あ?」
外山は一瞬だけむっとした表情になったが、すぐに面白そうに頬を緩めた。
「そうだな、それでいいぜ。……勝てるなら、だけどな」
「ほぅ?」
山王は少しばかり興味をそそられた反応を示す。
このまったく強いと見えない小さな中学生に、何があるのか知りたくなったようだった。
逆に太郎は「なぜそうなる?」とでも言いたげな不満顔である。
「……というわけだ、眼鏡君。すまんがちっと顔貸してくれねーかな」
「はぁ……。なんでぼくが。また喧嘩なんて冗談じゃ……」
口をゆがめる太郎だったが、ふとそこで考え込み始めた。
「……ええと、山王さん?」
「なんだ?」
「ぼくがあなたより強いとわかる勝負なら、喧嘩でなくてもいいですか?」
その質問に思わず吹き出しかけた山王であったが、太郎が至極真面目に訊いているのはわかったので、笑いをかみ殺して答えた。
「ああ、かまわねーよ? おまえがおれより強いと教えてくれ」
「わかりました。じゃあ、腕相撲ではどうでしょう?」
「……なに?」
山王は目を瞬く。
「腕相撲だと?」
「はい。やっぱり喧嘩はいやなので」
「おい、おまえ……おれをなめてんの……いや。そうじゃねえな。……ほんとに腕相撲でいいのか?」
まじまじと太郎の細い体付きを見直す山王は、逆に疑念を含んだ目付きになる。
この少年は、自分より強いことを示す、と言っているのだ。
喧嘩であれば、単純な力や体格だけで必ずしも勝負が決まるものではない。
しかし、腕相撲。
勝つために必要なテクニックはあっても、あくまでそれはある程度、力が拮抗した相手同士の話。
やはりもっとも影響するのは、技より純粋な腕力である。
これだけ体格差があれば、どう転んでもこちらに負けはないだろう。
彼我の差をひっくり返せるほどの技術を持っているようにも見えないし、わざわざ不利な勝負を提案してくる理由がわからなかった。
「はい」
太郎は頷いた。
「ぼくみたいな小さい相手に腕相撲で負けたら、ぼくのほうが強いと認めてもらえるでしょう?」
このやろう。煽ってきやがった、と山王の頭に血が上る。
「……いいぜ。受けよう、腕相撲」
わっと教室が沸いた。
いつ外山が暴れ出すのか、と気を揉んでいた二組の生徒にとって、喧嘩騒ぎが回避できたばかりか、思わぬ勝負イベントが始まったのだ。
すぐに周りが動き出し、加藤を始めとするフットワークの軽いメンバーがステージを作り出す。
机を二つ並べて中央に置き、その周りは場所を空ける。
見物客のスペースも必要だからだ。
そうして机を挟んで対面に椅子を置くと、それぞれ太郎と山王が席に着いた。
「何回勝負がいいですか?」
太郎が山王に訊く。
「何回? こんなもん、一回で十分だ」
「わかりました」
さて、合図は誰が……と加藤が首を巡らしたとき、すっと出てきたのは、誰あろう藤木だった。
何も言わなくても、その動きを邪魔できる者はいなかった。
二人がそれぞれ腕捲りした右腕を伸ばし、机に肘をついてがっしりと手を握り合う。
太郎のほうが手はずっと小さく細く、手のひらが丸ごと山王の拳の中に隠れてしまいそうだ。
肘から先の長さも違うので、ポジションの折り合いを付けるのに時間がかかった。
誰の目にも力の差は明らかで、どう見ても勝負になるとは思えない。
だが太郎には少しの怯みも焦りも感じられなかった。
二人の重なった拳の上に、藤木の手がすっと置かれる。ことりは、太郎の眉が一瞬ピクッと動いたのを見た気がした。
「……準備はいいかしら?」
藤木が尋ねる。落ち着いた声だった。
「ああ、いいぜ」
「はい」
二人の返事を確認し、藤木が頷いた。
「では……レディ? ゴー!」
ぱっと藤木の手が離れる。
その瞬間、山王は渾身の力を込めて、遠慮なく太郎の手を机に叩きつけようとした。
ビタリ。
「……なっ! えっ?」
思わず山王の口から声が漏れる。太郎の手は、開始位置から一ミリも動いていなかった。
さらに力を込める。動かない。
腕の太さの石の塊、あるいは鉄の棒かなにかを相手にしているようだった。
あとどれだけ頑張ったら動かせるとか、そういった感覚がまったくない。
どうやっても動かしようのないものを握っている。そんな感触である。
「くうっ。この……っ!」
これ以上できないほど、全力を振り絞る。だが、何も変わらない。
見た目に動きがないので、いい勝負をしていると勘違いしたのか、周りの生徒たちからの応援が始まった。
やはりクラスメートの太郎への声援のほうが多いものの、山王の名前もあちこちから飛んでくる。
応援合戦が盛り上がる中、山王は冷たい汗をかき始めていた。
(いったい、どうなってやがる……?)
歯を食いしばりつつ、山王は太郎の顔を盗み見た。
「……あ?」
太郎の表情には、まったく変化がなかった。
始めのやや仏頂面といっていい無表情から、何も変わりがないのだ。
とくに力を込めている素振りも、力んだ表情も、食いしばった歯も、何もない。
ただ淡々と、最初の姿勢を維持していた。
それでいて、山王がどれほど力いっぱい動かそうとしても、太郎の手は微動だにしない。
全身が総毛立った。
(おれは……おれは、人間を相手にしているのか? こいつは……なんなんだ?)
コンマ何秒か、手から力が抜ける。
「……もう、いいですか?」
太郎が口を開いた。声援がうるさくて、うまく聞き取れない。
「なに?」
「もう、ぼくが勝ってしまってもいいですか?」
「……くっ! こ、この……っ!」
山王は、持てる最後の力をすべて右腕に込めた。
「ふんっっ!」
勢い余って肘が浮いてしまう。
尻も椅子から浮いていた。
本来なら反則行為である。
しかし、そこまでやっても太郎の腕はびくともしなかった。
「あ……あぐぅっ……このぉ」
「もう、このくらいでいいでしょう? じゃあ、行きますね」
太郎が、初めて手に力を込めようとするのを感じた。
(なんだと? いままで、力を込めてさえいなかったってのか!)
「ま、待て。待ってくれ!」
「……は?」
山王の必死の懇願に、太郎が動きを止める。
「まいった! おれの負けだ!」
太郎が首を傾げて山王を見た。
「……まだ勝負はついてないですけど。いいんですか、ほんとうに。ぼくの勝ちで?」
「いい! もうおまえの勝ちだ!」
「わかりました」
太郎が握った手を離して立ち上がった。
二人を囲んだクラスメートは何が起きたのかわからず、一瞬、ぽかんとする。
「ぼくが勝ちました」
太郎の勝利宣言に、ことりは思わず拍手し、周りの生徒たちの大きな歓声が上がった。
そこへ、休み時間の終わりのチャイムとともに、次の授業のために五十嵐が教室へ入ってきた。
助監督の菊谷に、教師役の実倉も一緒である。
「……なんの騒ぎだ? 何してる」
机配置を変えられた教室内や、中央周りに人だかりとなっている生徒たちを見て、五十嵐が眉をひそめた。
「きみたち、控え室に戻ってこないと思ったら……勝手なことをされては困るよ」
ずっと教室に残ったままの役者メンバーに向かって、菊谷も思わず苦言をこぼす。
まだ椅子に座ったまま呆然としている山王の横で、既に立ち上がっていた太郎が口を挟んだ。
「……山王さんが、ぼくたちに親睦の機会をくれたので、腕相撲をやっていたんです」
「腕相撲?」
五十嵐と菊谷が声を揃えて訊き返す。
「はい」
頷く太郎に、二人は山王の座った中央の勝負ステージを見直した。
「……ふうん。まあいい、すぐに机を戻せ。授業始めるぞ」
そう言って教壇へ向かおうとする五十嵐に、菊谷が「あ、ちょ、ちょっと待ってもらえますか?」と声をかける。
「え?」
振り返った五十嵐に菊谷は、「これ、使わせてもらいたいんですが」と言い出したのである。
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