第79話
そろそろうちへ帰らなければ、と太郎は考える。
もう京子も帰宅しているはずだ。
あまり遅くなると、こんな時間まで何をやっていたのと言われてしまうだろう。
アイドルの悩み相談を聞いていました、と正直に話したらそれはそれで面倒なことになるだろうし、適当な理由をでっち上げるのも気が進まない。
いまのところ、まだ店内では藤木を藤木として認識しているものは見当たらないようだ。
しかし、「これから行く」というストーカーのメッセージが気になったので、太郎は『気』の膜を店外まで広げて、外の様子を探ってみた。すると。
(げ。ほんとにいた!)
感知できた三桁にのぼる人の『気』の中で、店から50メートルほど離れた位置に、完全にこの店に意識をロックオンした人物がいるのを見つけてしまったのだった。
接近してくる様子はなく、その場を動かないままではあるが、藤木に対するものすごく強い感情がこちらへ向けられている。
(なんてことだ。まいったな、これは)
どうしたらいいのだろう。
太郎は考えたが、とっさにうまい対処法は思い浮かばない。
何かしてくるというなら無力化するのは難しくなくても、いまは立っているだけだ。
何もしていないのに制圧にかかれば、太郎の方が暴行の犯罪者である。
それでも藤木が店から出てくれば、何らかの動きがあることも考えられる。
相手が思い詰めていた場合に、行動の予測は難しい。
そして仮に襲いかかってきたとしても、殴り倒しておしまい、という話ではたぶんない。
相手の藤木への執着を止めることにはならないだろう。
太郎はとりあえず、いまできることは何だろうと考えた。
第一に、目の前の藤木を無事にホテルへ送り届けることが最低限必要に違いない。
「じゃあ、そろそろ出ましょう」
太郎は藤木を促して、残ったコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「ううん、そんなのは別にいいんだけど。そうね、ずっとここにいるわけにもいかないしね」
藤木はちょっと残念そうだったが、頷いて立ち上がる。
まだ中身のあるカップをどうしようか迷った素振りを見せたあと、結局持って帰ることにしたようだ。
「ありがと、太郎。ホテルへ戻るわ」
「あ、送りますよ」
太郎が言うと、藤木は笑って首を振る。
「え、いいわよ、すぐそこだもの」
「ダメです。だってストーカーが近くまで来ているかもしれないでしょう?」
太郎の言葉に、藤木がびくっとしたのがわかった。
「そ、そうね。そういうことも考えられるわね」
「はい」
ほんとに来てるけどね、とも言えない。
藤木の方も、怯えたり強がったりと、見るからに感情の振れ幅が大きい。
太郎と話ができたのがよかったのか、学校にいる時間よりもかなりましな感じではあったが、気持ちが落ち着いているとは見えなかった。
太郎は精神科医ではないし、藤木の状態が診断できるつもりもないけれど、もしかしたらちょっとしたきっかけで、感情が大きく崩れてしまうことだってあるかもしれない。
この情報は伝えないことにした。
(まあ、来てるってどうやってわかったの? とか訊かれても答えられないけどさ)
そこで太郎は、当面の策として藤木に注意喚起をしておこうと考えた。
受け売りに過ぎないが、これまで読んだ本の中から役に立ちそうな知識を掘り起こす。
「しばらくは、いろいろな用心を怠らないほうがいいです。例えば、ホテルの部屋にはマネージャーさん以外が来てもドアを開けないとか、部屋の中以外ではなるべく一人にならないとか。もちろんルームサービスなんて一人のときは取っちゃダメですよ? エレベーターも、乗るなら一人か数人で。もし知らない人と二人になりそうなら降りてしまうとか。そういう地味な注意を徹底してください。それが身を守ることになると思います」
藤木はちょっと感心した表情になって太郎を見返す。
「わかった。ありがとう、気をつける」
「じゃ、ホテルの前まで一緒に行きますね」
「うん、お願い」
頷いてから、藤木が「ん?」とつぶやき眉をひそめた。
「……でも、太郎じゃボディガードにはなりそうもないよね。そんな細っこいんだもん、ストーカーが襲ってきたらすぐやられちゃいそう」
はは、と太郎は笑った。
見かけで判断するなら、それは当然の反応だったからだ。
「……まあ、盾くらいにはなれると思いますけど」
太郎が言うと、藤木は顔をしかめる。
「止めてよ、代わりに怪我されたって嬉しくない」
「ええ、しませんよ」
何しろ弾丸にも負けない相当丈夫な盾である。
めったなことで怪我にはならない。
並んで出るのはカップルみたいだしなぁ、と太郎がやや藤木の後ろを歩くと、藤木は一瞬振り返って戸惑う様子だったが、そのまま出口に進んだ。
すると店から出たところで、入れ違いに入ろうとしたチンピラふうの若い男の三人組が、藤木に目を留める。
「おー! きみ、かっわいいね!」
「なに、え、ほんと激マブ!」
藤木が、店内で外したマスクをうっかり付け忘れていたのだった。
サングラスをしていても、容姿の良さは際立っているのがわかってしまう。
「ちょっと、カーノジョ。もう帰っちゃうの? 一人だったらおれらと……てなんだ、連れがいるの……か……」
最後に声をかけた男が、言葉の途中で藤木のすぐ後ろから出て来た太郎を見て固まった。
「て、てっぺん!」
男は近藤であった。
夏休みに図書館のそばで川原に因縁をつけた二人連れの、太郎に殴りかかってあっさりと投げ飛ばされた片割れである。
「あ。えーと、確か近藤さん……?」
正直なところ、あのとき一緒にいた二人のうち、鷺丸とどっちがどっちだったかな? と迷ったのであるが、辛うじて覚えていた名前を口にすると、近藤は嬉しそうに満面の笑みで直立不動の姿勢を取った。
「ご無沙汰してます! そうっス! 近藤っス!」
あとの二人は太郎の知らない顔だったが、そんな近藤の様子を見てぽかんとしている。
藤木も唖然として近藤と太郎を交互に見ていた。
「てっぺんに覚えていただいてるなんて、光栄っス!」
「おい、主税よ……おまえ、何して……」
仲間の一人がおそるおそる近藤に声をかけると、近藤は得たりとばかり、二人に向かって太郎を示した。
「ふっふっふ。おまえらにも教えてやる。この方が、あのてっぺんだ!」
仲間の二人は何も反応できず、停止したままだ。
何秒か経って、ようやく一人が「あ」と声を上げる。
「え? まさかあの三宮さんに勝ったっていう? あの……てっぺん?」
「そうよ! 喧嘩無敗の三宮さんに、ワンパンで勝っちまった、あのてっぺんよ!」
いやなんであなたが自慢そうなの? と太郎は呆れた。
そもそもあの場にいたのは鷺丸のほうで、近藤は見てもいないはずだろうに。
「マジか。え? こんな……チビに三宮さんが?」
「ウソだろ。こいつが、てっぺん……?」
二人の反応も、いつも通りである。
「そう思うだろ? だけどほんとうだ。おれも、てっぺんにぶん投げてもらったからな! 間違いねぇ」
自分が投げ飛ばされたことを、なんでそんなに嬉しそうに語っているのか。
太郎は今すぐこの場から走って逃げ出したかった。
「え、てっぺんはもしかしてデート中っスか? 彼女さんめっちゃ美人っスね! アイドル並みじゃないっスか。いやー、さすがっス!」
なにがさすがなものか。
彼女でもデートでもないし、しかもアイドル並みじゃなくて本物のアイドルだってば、とは間違っても返せない。
「あの、急いでるんで、ごめんなさい。行きますね」
「はい! お楽しみのところ、すんませんっした!」
いややめて! ぜんぜん、なんにも楽しんでないし! と太郎は叫びたくなる。
藤木を目で促し、店の前から逃げるように立ち去った。
近藤が後ろから「お疲れ様ッス!」と大声で頭を下げるので、恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
近藤の仲間の二人は、どう反応していいのかわからない様子で突っ立ったまま、太郎たちを見送った。
ようよう三人が見えなくなるところまで離れて、太郎は大きなため息を吐いた。
藤木は立ち止まり、腕組みしてじいっと太郎を見つめる。
ただ再びマスクを付け直したので、太郎には細かな表情まではよくわからない。
「太郎……あんたって、何者?」
「はぃ?」
「てっぺんって、あんたのこと? あの三人、知り合いだったの? あれ、どう見たってあんたより年上よね。なのにあんなにへこへこして。あんたまさか、何か不良の親分みたいなことしてるわけ?」
「やってません」
即答する。
それだけは間違いなく事実である。
「でも喧嘩無敗に勝ったとか何とか……あの男の人もぶん投げたとか……言われてなかった?」
「……空耳じゃないですか?」
これは事実の否定である。
とぼけたとも言うが、この場合はやむを得ないと信じる。
藤木はしばらく無言だったが、やがて「まあいいわ」と言って再び歩き出した。
太郎はまた藤木よりやや後ろを付き従うようにしながら、すぐそこにあるホテルの前まで一緒に歩く。そうしてエントランスからは入らず「じゃあぼくはこれで」といって、足を止めた。
「あ……」
藤木が振り返り、何か言いたそうにしたが、結局「うん、それじゃね」といってホテルへ入っていく。
藤木は中から最後に太郎へ手を振ったが、太郎はそれには応えずに背筋を伸ばし、腰を折ってお辞儀を返した。
そんな太郎を見て妙な顔になった藤木の姿が見えなくなってから、太郎は軽く唇を引き結ぶ。
(……こっち見てるな)
ストーカーがずっと近くにいたのはわかっていた。
親しさを思わせる態度を見せぬよう、あえて手を振り返すよりお辞儀にしてみたが、向こうにはどう捉えられたのか。
むしろ藤木と親しげにして、相手を挑発した方が捕まえやすかっただろうか?
あの文面どおりの人物なら、藤木が男子である太郎と二人きりで行動するなどという事態は耐えがたい嫉妬を生むはずだ。
そうすべきだったのでは、と思う気持ちもあった。
しかし、それが事態の展開に吉と出るのか凶と出るのか。
太郎にもこればかりは予想のしようがなかった。
藤木に対する害意があることを懸念したが、太郎が一緒にいたせいなのか、それともほかに人目がある場所や時間で接触する気はなかったのか。
いずれにせよホテルまでは尾行のように二人との距離を保って付いてきており、ストーカーがそれ以上近づく様子はなかった。
いまはまた、太郎から一定の距離を保って、じっとこちらを観察しているようだ。
太郎が気づいていることを知られる必要はないと思えたために、あからさまにそちらを見るようなマネはしていない。
したがって顔は見ていないのだが、太郎にとっては近くにいればもう識別は容易だった。
それでも相手が誰かまではわからない。
個人を特定したほうがいいだろうか?
太郎には迷いがあった。
携帯端末で写真に撮れば、藤木に顔を見てもらうこともできるが、そこまで接近するのは危険である気がした。
気配を消して近づいても、撮影のときのシャッター音で気づかれる可能性はありそうだ。
いや急に気配を消して見失わせたら、そのほうが警戒されるかもしれない。
いまはまだ相手に、自分が発見されていないと思い込んでもらう方がいいのではないのか。
逆に向こうは何度か携帯端末をこちらへ向ける気配があり、写真なり動画を撮ろうとしているようだった。
太郎は藤木と会うことになってから家へ戻るまで、ナノマシンに一切の写真、動画を周りから撮られないように強く願っていたため、藤木と一緒のところはもちろん、太郎一人であっても写真が残ることはないと考えていた。
太郎を撮ろうとしたわけではなく、第三者の撮影で偶然、画面の一部に入り込んでしまったようなケースも撮影に失敗してしまうことになるが、そこはもうたまたま一枚だけ撮り損ねたと思ってもらうほかない。
ストーカーは思うように写真も動画も撮れないためだろう、いらいらしながら何度も端末のレンズをこちらに向けていた。
何回やっても、太郎が願いを解除するまで、ナノマシンは撮影の妨害をやめることはないから無駄なんだけどな、と太郎は考える。
ただその端末を構えるストーカーを見たときにふと思いついて、太郎は自分の携帯端末を取り出した。
そうして、ストーカーが写真を撮ろうと端末を持ち上げたタイミングで、ナノマシンに願った。
(あっちの端末のサブレンズからの映像を、ここに出して)
すると狙いどおりに、ストーカー自身の手前側にあるレンズに映った画像が、太郎の端末から見えるようになったのである。
(いまだ)
ちょうど相手の顔がはっきり見えたときに、太郎はその画像を自分の端末の画面で記録した。
(よし、これで相手の特定につながる写真が手に入った)
太郎はにんまりして歩き出す。
するとストーカーも移動を始めた。
藤木と太郎が別々になったらストーカーはどうするのかと思ったが、もともと藤木の泊まるホテルは始めからわかっているためか、そちらではなく太郎の方を追うことにしたようだ。
(藤木さんの方に貼り付かれるよりはマシかな? でもこっちについてこられるのもイヤだな)
自宅の特定などされた日にはたまったものではない。
とはいえ、あとをつけてくるだけの相手をいきなりストーカーと名指しして捕まえるのもやり過ぎになろう。
太郎はある程度ホテルから離れるまではそのまま普通に歩き、ストーカーが自分を追ってきていることを確かめると、人目のない路地へすっと入ったところで、全力で気配を消した。
こうなると、普通の人ではたとえ太郎が目の前にいても、見えているのに意識を留めることができない。
追ってきたストーカーは曲がった先で太郎を見失ったことに気づき、太郎の立っているすぐ横で舌打ちすると、路地の奥へ向かって走って行った。
どうやら太郎がもっと先へ行ってしまったと思ったらしい。
既に写真を撮っているので相手の顔は見ていたが、実物がすぐ前を通り過ぎていくのを、太郎はじっと眺めていた。
(ふーん。まあ、顔はちゃんと覚えたぞ)
写真があっても、やはり肉眼でちゃんと相手を視認した方が、しっかりと覚えることができる。
太郎はストーカーがあきらめて引き返してくる可能性を考え、すぐに別の道から家に向かって歩き出した。
もう日暮れは過ぎていたし、ストーカーのいた場所との距離から考えて、おそらく相手からは太郎の顔がきちんと識別できてはいなかっただろう。
いま出くわせば、服や雰囲気などから藤木と会っていた相手だとわかってしまう確率は高いが、写真は撮らせていないし、いったん帰って服装が替われば、もう太郎だったと確認できる材料はないはずだ。
(そうはいっても、相手は思い込みであれこれできちゃう人だからなぁ)
こいつに違いないと考えたら、相手にとってはそれが合っていようが間違っていようがかまわない、というような考え方で行動されたらお手上げだ。
その結果、ほんとうに合っていて太郎に危害を加えようとしたならまだ対処できるが、まったく関係ない雰囲気の似た別人を誤認のうえターゲットにされたら、余計な被害が出てしまうかもしれない。
(……まあ、そこは悩んでも仕方ない)
何をするかわからないストーカーの行動の結果にまで、太郎やまして藤木が責任持つ必要などかけらもない。
誰かがストーカーから危害を受けたら、それは加害者のストーカー自身が悪いのである。
もし何か起きたときに、太郎が防げることがあるなら、それだけを防げばいい。
そう考えることにして、太郎は家路を急いだ。
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