第68話
土曜の朝。
見事な快晴で運動会日和の中、東部中の体育祭は始まった。
この日は保護者も応援に来ていて、朝からグラウンド周りは賑やかだ。
もともと敷地に余裕のある東部中は、訪れる保護者の人数や持ち込む荷物にも、とくに制限をしていない。
入場時だけは、事前に配られた保護者証の提示を求められるが、いったん入ってしまえばあとはとくにうるさいことを言われないのだ。
競技に支障が出ないよう、学校側はグラウンドそばのエリアには入場規制や撮影ルールの遵守などを求めるが、逆にそれさえ守ってくれれば、レジャーシートを広げようがキャンプのようなテーブルと椅子を持ち込もうが、そこに細かい注文は付かなかった。
そのため、祖父母や場合によっては親戚筋まで一緒に来て、ほぼ一日をピクニックのように楽しむ家族も少なくない。
以前にはグラウンドに穴を開けて大きなビーチパラソルを立てようとした保護者と、バーベキューセットを持ち込んで火を熾そうとした保護者がいて、さすがにそれは注意して止めてもらったこともあったというが、節度を守ればかなりの自由が許される雰囲気には違いなく、たまに市外から転校してくる生徒の保護者を驚かせることもあるようだ。
太郎の家は父親の海外勤務のため、母親の京子しか観には来ないが、表情の変化に乏しい太郎が毎年あからさまに憂鬱そうにして出かけるので、京子にとって体育祭の息子を見るのはちょっとつらいところもある。
しかしそれはそれ、これはこれであり、息子の中学最後の体育祭を見逃す理由はなかった。
(でも、なんでか今年はちょっといい顔で行ったのよね)
家を出て行くときに例年のような暗い表情はしておらず、何か吹っ切れたのか、それとも太郎なりの楽しみが持てるようになったのか。
いずれにせよ嫌々出かけるのでなくなったなら良いことだ、と京子は思っていた。
ただ、息子から体育祭のプログラムをもらったとき、「あんたどれに出るの?」と訊いたら「騎馬戦」と答えたのには驚いた。
よりによって太郎が騎馬戦とは、合わないにもほどがあろう。
では太郎に得意な競技があるのかと問われれば答えに困るが、わざわざ中でもとくに苦手そうな競技を押しつけられて、もしやいじめにでも遭っているのではと心配になった。
「なーに。それ、大丈夫?」
と思わず京子が問い直すと、太郎はちょっと困ったふうに眉を寄せたが「たぶんね」と言ったのでさらに驚いた。
こういうところで見栄を張る息子ではないので、たぶんと答えた以上は本人にも大丈夫という思いがちゃんとあるのだろう。
それは京子にしても意外な態度で、今年の体育祭はちょっと期待してもいいのかな、と楽しみにしていたのだった。
校長の開会宣言に始まり、競技はスケジュールどおり順調に進んだ。
教室から持ち出した椅子を並べて、グラウンド周りにずらりと設えられたクラスごとの応援席の前で、二組は真っ先に円陣を組んだので太郎は面食らっていた。
クラス委員の小田原が叫ぶ。
「二組、優勝するぞ!」
おおーっと応える声の波が響き渡る。
それを聞いて、負けていられるかと急ぎ自分たちも円陣を組み出すクラスあり、よくやるよと醒めた目で見るクラスあり、周囲の反応は様々である。
一年生や二年生のときのクラスにこうした雰囲気はなかったことから、太郎は感心してクラスメートを眺めていた。
(そういえば、うちのクラスって妙に運動部比率高かったっけな)
サッカー部でエースキーパーを務めていた小田原を始め、とくにクラスの雰囲気を左右する影響力の大きなクラスメートは、軒並み体育会系である。
もちろんことりは女子の中ではその最たるものであった。
一学期の球技大会では僅差で二位であったことから、今度こそ優勝を勝ち取りたいという思いは、小田原だけではなく多くの生徒が持っていたものらしい。
これだけ周りに気合いの入った様子を見せられると、超人になったとはいえ、存分に力を振るえるわけでもない太郎は、今年はブレーキにならずに貢献できるだろうか、と不安とともにちょっとだけため息を吐いた。
応援席の最前列では、ことりたちが競技中のクラスメートに声援を送っている。
頭にはみな、クラス委員の篠崎綾子が手芸部のメンバーを焚き付けて作った、お揃いの応援鉢巻きを巻いていた。
女子のぶんには小さなネコミミに見える突起が左右二箇所に付いており、誰かがネットで見つけたデザインを、独自に工夫して再現したらしい。
篠崎は軟式テニス部だったはずだが、どうやら手芸部も兼ねていたようだ。
こちらもバリバリの体育会系女子ではあったが、実のところ張り切っているのは、同じクラス委員の小田原と付き合っているからで、何とか彼の役に立ちたいとの思いで考えついたことであった。
しかしクラス内の恋愛事情に疎い太郎はそうとは知らず、全員分の鉢巻きを用意するのは大変だったろうに、と感心するだけだった。
午前中の太郎の出番はまず男子100メートル走である。
これはクラス対抗で、三年生は全部で八クラスあるので、すべて直線のコースレーンを八コースぶん使う。
各クラス一人ずつ走っては、三位に入ったものまでポイントがもらえる。
生徒の数がクラスごとに若干異なるため、最後の方は八人揃わない組も発生するが、クラスに加算されるポイントが、最大で八人ちゃんと揃った走順組の数までと決まっている。
端数の走者の組は三位以内に入りやすいが、仮にそこでポイントを取れたとしても、その前までにすべての走者がポイント圏内にいたら、それ以上は加算してもらえない。
実際には一つのクラスがすべての走順組でポイントを獲得するなどというケースが発生することはないので、もっとも生徒の少ないクラスも機会の上では不利にはならない。
ただポイント基準がタイムをまったく無視して、そのときの組み合わせの中での順位のみで決まるために、単に足が速ければよいというものではなく、走順で運不運が生まれる。
たまたま同じ走順組に足の速い生徒が集中すれば、全体の中でトップクラスの持ちタイムのある生徒でも、三位に入れずノーポイントということもあり得るのだ。
したがって走順のオーダーが重要になるのだが、ここは学校側から選択肢が四つしか認められていなかった。すなわち背の低い順、背の高い順、あいうえおの名簿順、その逆の順である。
自分のクラスのオーダーは変えられても、ほかの七クラスがどのオーダーを選んでくるのかは基本的に当日までわからないため、結局どれを選んでもたいして結果に影響はない、というのが普通の生徒の見方である。
が、小田原の見解は違った。
「うちは、背の高い順で行く」
「理由は?」
訊いたのは吉崎である。
「一番多い選択が、背の低い順だったからな」
本番の体育祭までに、100メートル走の練習は学年別と全体リハーサルが、それぞれ一度ずつ行われている。
そのとき、ほかの七クラスがどこも単純に背の低い方からのオーダーを選んでいたことは、みな知っている。
「一般論だけど、基本の持ちタイムは、だいたい背の低いやつのほうが遅い」
「そんなことないだろ?」
小田原の意見に、背が低くても足の速さに自信のある森田洋平がむっとした顔を見せたが、小田原は「わかっている」という表情で森田に頷いてみせた。
森田は小田原と同じサッカー部で、俊足フォワードであったことは小田原も当然よく知っている。
「一般論って言ったろ? あくまで確率の話だよ。前半の、ほかのクラスが背の低い側から出してくる組に背の高いメンバーをぶつけて、点数を稼ぎたい。まあ厳密には稼げる確率を上げたいってことだが」
「いやしかし祐介さぁ」
「なんだ? トモ」
異を唱えたのは、これも小田原と同じサッカー部だった石川智宏だ。
「それってつまり、後半のこっちが背の低いメンバーになると、逆にポイント取れなくなるってことだよな」
「なんだ、それじゃ同じことじゃないか」
「意味あんのかそれ」
石川の意見に、ほかの生徒からも口々に疑問が出てくる。
「まあそうなんだけどさ」
小田原も石川の意見は認めつつ、でもな、と続けた。
「リハーサルのときの組み合わせで見る限り、そのままだとうちの高得点はないんだよ」
「ええ、そうだっけ」
その場の何人かが、リハーサルのときの記憶を探る表情になった。
とはいえリハーサルはリハーサル。
みな本気で走るわけではない。
しかし同じ組になった顔ぶれを見れば、本番の結果もある程度は見通しが立つのも確かだった。
「よその組も変えてくるかもしれないから、確実じゃないんだけどさ。いちおうリハーサルのときのオーダーで、うちだけ背の高い順に変えた方が、ポイント稼げる確率は高いんだ」
「マジか」
「小田原、おまえそんなの計算してたの?」
「するよ、そのくらいは」
何人かは、そこまでするのかとやや引いた表情を見せたが、多くは小田原の本気度を知って唸った。
「あとな、うちは男子が女子と同数だけど、一組は男子がこっちより一人少ない。四組と七組は二人少ない。つまり、男子最後の二人は、八人より少ない人数で走れるんだ」
人数が減ったら、当然三位以内に入れる確率も高くなる。
「最後の二人って……」
みながまず森田の顔を見て、次に見たのは太郎の顔だった。
太郎は二組で一番背が低いのである。
そして太郎の次に来るのが森田だった。
「……ま、森田はポイントの確率が上がるよな」
もともと一位の狙える森田だが、同じ組で走るライバルの人数が少ないならそれに越したことはなかった。
そして太郎については誰も期待を口にせず、太郎もそれで仕方ないと表情を変えない。
「……そういうことなら、じゃあ二組のオーダーは背の高い順にしようか」
「いいよ。それで行こうぜ」
事前にそうした話し合いがなされ、太郎の出番は一番最後に決まった。
二回のリハーサルではどちらも一人目に走ったので、最後尾に並ぶのは変な感じだった。
ふたクラスほど、オーダーを名簿順に変えてきたクラスがあったものの、あとはリハーサルと同じに背の低い方からのままで、太郎が競う相手はみな初めての相手ばかりである。
(さすがに、走るところはうんと手を抜くしかない)
やりたくはなかったが、ちょっと加減を間違うとほんとうに世界記録が簡単に出てしまうので、ただ走るだけというのは太郎にとってやりにくい種目だった。
ほどよく遅く、というのはこれでなかなか容易でなかったのだ。
ひと組前の森田は、居並ぶ背の高い競争相手を負かしてやろうと気合い十分で、全力で走れない太郎とはかなり温度差のある入れ込み方だった。
太郎に代わる二組の一番手は富田で、これは三位には入れなかった。
次が外山で、何と堂々の一位である。
実際に外山の足は遅くはないが、こちらは実力というより、ほかの七人がビビって外山より前を走れなかったのでは、と太郎は思った。
そんな個人の思惑に関係なく競技自体は淡々と進行し、森田は同じ組に一人、同レベルに速い相手がいてちょっと危なかったが、何とか一位を勝ち取った。
そして最後のランナーとして、太郎がスタートラインにつく。
競技時間の短縮のために、スターティングブロックは使われない。
生徒はクラウチングでもスタンディングでも、好きな姿勢からスタートしてよいことになっている。
太郎にはクラウチングからちゃんと速くダッシュする技術がないので、リハーサルのときからいつもスタンディングである。
太郎以外の生徒はみなクラウチングの姿勢を取っていた。
合図を待つ間、最後の一組に各クラスからの声援が飛んだ。
太郎の耳は、その歓声の中からことりの応援を聞き分ける。
(ああ。せっかくことりさんが応援してくれてるのになぁ……手を抜くのって、いやだなぁ)
ふと太郎は、先日の帰り道に、ことりから頭をポンポンと叩かれたときのことを思い出した。
あれはいろいろな意味で太郎にとって衝撃的だった。
年下のように扱われたことも心外ではあったが、ことりから触れられるまで、太郎はまったくその行動の気配に気づけなかったのだ。
ナノマシン体で各センサの性能が人外の域にあり、さらに『気』を感じ取るスキルまで身に付けた太郎にとって、誰かから不意を突いて触れられるということはほぼあり得ないはずだった。
それがことりにできてしまったということは。
(ぼく、ほんとうにことりさんに気を許してしまっている……いたってことだ)
ことりに対する警戒感がゼロであったがゆえに、ことりが何をしようと事前に察知することを怠った。
そもそもその必要を感じていなかった。
そこに危険なことは起こらない、ことりに悪意を想定しない。
それで問題がないと、太郎が心底信じていたことになる。
実際、その通りに太郎はことりを信頼しているが、それが無意識レベルに徹底されていることを自覚してしまったのは、太郎にとって非常な驚きで、かつ考えさせられる事態であったのだ。
(これはよくないな。ことりさんに依存しすぎなんだ、ぼくは)
いずれことりが自分から離れてしまうことを考え、それに耐えられるように準備をしておかなければならない。
その考えは太郎の身を切り刻むようなつらいものであったが、太郎はそれが必要なことだと信じていた。
そのとき、うっかり思考の海に沈んでいた太郎の意識を、スタートのピストルの音が叩き起こした。
(あっ?)
周りよりワンテンポ以上遅れて、太郎がスタートを切る。
同じ組を走るほかのクラスの生徒は、全員が太郎の前方にいた。
(いけない、ぼーっとしちゃった!)
思わぬ失敗に、太郎は慌てた。
そして慌てたことで、つい足に力が入ってしまった。
ぐん、と力強く加速した太郎の身体は、一気に前を行くライバルたちに追いつく寸前まで達した。
(やばい! 次の一歩で全員抜いちゃう!)
その勢いのまま一歩を踏めばそれだけで、力を入れなくとも間違いなく自分が先頭に躍り出ると、太郎にはわかった。
(あ……だめ、これはダメだ!)
たった二歩で先行する全員を抜き去ってしまっては、いくらなんでもおかしいだろう。
速いとか遅いとかではなく、異常さだけが際立ってしまう。
(どうする?)
必死に考えた太郎がとっさに選んだ道は、転ぶことだった。
わざと着地する側の足を滑らせ、太郎は派手に地面に向かってダイブした。
土煙があがり、太郎の目に映る世界がごろごろと回転する。
ざわっと沸き立つ声の中で、太郎の耳にははっきりとことりと京子の悲鳴が聞こえた。
(ごめん、母さん。体操服、汚しちゃった)
全身がすっかり砂まみれになってから転がるのをやめ、太郎は立ち上がる。
もとより転倒のダメージ自体は何もなかった。
眼鏡も壊れていない。
競争相手はみな、はるか前方にいた。
実際には可能でも、ここから追いついてみせることはできなかった。
太郎は砂を落とすのを後にして、ともあれ走り出した。
競技の真っ最中にことりのことを考えてぼうっとしてしまったこと。
それでスタートに気づかなかったこと。
慌てて思わず力が入ってしまったこと。
おかげでわざと転ぶようなマネをしたこと。
もとより本気を出すことなどできるわけもなかったが、これで確実に最下位が確定し、あれだけ真剣になっていた小田原たちの前で、ポイントが取れなかったこと。
そうしたことどもがぐるぐると頭の中で回っていて、太郎は走りながら忸怩たる思いで唇を噛みしめた。
その表情は、周りからは転倒の痛みを堪えて懸命に走っているようにでも見えたらしく、これで三年男子の最後のランナーということもあり、周囲からは学年、クラスに関係なく拍手が起き、声援が湧き上がった。
太郎は周囲の勘違いにちょっと赤くなりながら、無事ゴールまで走り切った。
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