第69話
「あーびっくりした」
京子はビデオカメラを構えていた撮影ポイントから、レジャーシートを広げたグラウンド隅の木陰へ戻って大きく息を吐いた。
まさか太郎がスタート直後に転倒するとは思っておらず、あやうくカメラを取り落とすところだった。
運動音痴は昔からだが、それでも転んで怪我をするようなことはこれまでほとんどなかったので、京子自身もかなり焦ってしまった。
立ち上がったあとを見る限り、さいわい身体の方はとくに問題がなかったようで、やれやれと胸をなで下ろしたのだった。
お昼は保護者のところへ来ることになっているため、そのときに怪我がないかどうかをよく確かめねばなるまい。
(それにしても)
応援席に戻った太郎に、真っ先に駆け寄って来たすらりと長身の女の子がいた。
傍目にもかなり血相変えている様子であったのがよくわかるほどで、あの子がいつか家の前にいて、太郎と二人で話していた女の子であろうと思われた。
(あんなに心配してくれる子が太郎にいたなんて……)
我が子ながら隅に置けない。
その子のことで酔っ払って夫の浩太にくだを巻き、危うく遅刻させかけたことなど、京子はまったく覚えていなかったが、ちょっと頬が緩むとともに、ちっとも自分に紹介してくれる気配のない息子には大きな不満ができた。
不満と言えば、それほどまでに心配してくれる女の子に対し、太郎の態度はまったく褒められたものではなく、せっかく怪我の有無を確かめようとしたり、背中の砂ぼこりをはたいてくれようとするのを拒否していたのには心底呆れた。
顔にも付いた砂を洗い落としにグラウンド外の水道へ向かったらしい息子を、女の子がちょっと悲しげに見送っているのがもどかしく、ついいましがた転んだ怪我を心配していたばかりなのに、戻ってきたらまず拳骨だ! と考えたほどだ。
その後しばらくは息子の出番が来ないため、京子は木陰から遠目に競技の進行を眺めてのんびりと過ごした。
太郎も応援席から出てくる様子がなく、なにしろ小さいので後ろで椅子に座られると、いるのかいないのかもわからない。
一度だけ、気づくと顔の見えているタイミングがあり、何かと思えば三年女子の50メートル走であった。
どうやらあの背の高い女の子が走るようで、そこはちゃんと応援するんだと思ってほっとした。
女の子は二組では最終ランナーで、活発そうだと見えた印象に違わず速かった。
もう一人かなり頑張った子もいたのだが、最後は危なげない差を付けて一位でゴールしたため、京子もつい前のめりで見てしまった。
そうして午前中最後の種目が集団演技である。
一年生から始まり、三年生がトリであった。
自分の子どもの頃には、運動会にこんなダンスめいたものはなかったなーとあらためて思いながら、ダンスが苦手な太郎の練習に、今回は一度も付き合っていないことを思い出して、京子は少し心配になった。
(そういえば、今年は一回も頼まれなかったわ。……大丈夫かしら、あの子)
三年生全員の演技であるだけに、よい撮影ポイントは早々に保護者で埋まってしまう。
京子は再びカメラを構え、生徒たちの整列が終わる前にと、懸命に息子を撮れる隙間を探して潜り込んだ。
(お、いたいた)
まだあちこちに砂汚れの付いた体操着が、逆に目立ってよくわかる。
カメラのフレキシブルモニター越しに息子の姿を捉え、演技が始まるのを待った。
そうして音楽が流れ出す。
はじめは心配で見守っていた京子であるが、最初の数秒で思わず目を見開いた。
(なに、この子。いつの間にこんな上手になったの?)
驚いたのも無理はなかった。
これまで親の欲目で見てさえ、振り付けを間違えずに覚えられること以外はまったく取り柄のなかった息子のダンスである。
それが、どう見ても周囲の誰よりも上手い。
リズム感、動きのキレ、どれを取ってもトップクラスの出来であった。
五月以降、太郎に驚かされることは何度もあったが、これはまた飛び抜けていた。
(ほんとにうちの息子? どっかで入れ替わってないのかしら?)
太郎が聞いたら「あたり」と思わず頷きそうなことを考えながら、京子はモニター越しではなく、顔を上げて直接太郎を見ようとした……が、見えなかった。
「……ええっ?」
驚きに声が出てしまい、京子は慌てて口を押さえる。
急いでモニターに目を戻すと、ちゃんといた。
相変わらずキレッキレで楽しそうに踊っている。
が、顔を上げて自身の目で見ようとすると、いない。
というか、いるはずなのにどこにいるのかわからない。
(……どういうこと?)
京子は自分の目か頭がおかしくなってしまったのかと混乱した。
お昼休み。
保護者の来ている生徒はそれぞれ一緒に昼食を摂って良いことになっており、太郎は京子の好むいつもの木陰に向かった。
事前に申し合わせはしていなかったが、去年も一昨年も同じ場所であり、とくに迷うこともなくレジャーシートに座った母親を見つけることができた。
ところが太郎がそばまで来ても、京子はぼーっとしたままカメラを眺めていて、太郎の方を見る様子もない。
「母さん?」
太郎が声をかけて初めて、息子が戻ってきたことに気がつく有り様だった。
「あ。おかえり」
「……どうしたの? なんかぼうっとしちゃって」
「あ、うん」
まだ京子はしゃきっとした様子がなかった。ゆるゆると頭を振ってから、持参したお弁当を取り出しつつ小さく言った。
「かあさん、ちょっとおかしくなっちゃったかもしれない」
「え! どういうこと? 具合悪いの?」
太郎が慌てて詰め寄ると、京子は薄く笑う。
「具合じゃないんだけどねぇ」
「?」
「なんだか、あんたが見つけられなくなっちゃったのよ」
何の話? と訝しんだ太郎は、数瞬後に集団演技のことだと察した。
全力で気配を絶った太郎は、その前からずっと意識して太郎を見ていたのでもない限り、おそらく探しても見えない。
いや実際には見えているのだけれど、意識に残らないのだ。
「ほら、これ」
京子は録画した太郎のダンスを再生してみせる。
小さなモニターの中ではあるが、我ながら見事なダンスを披露する自分がそこには映っていた。
あ、やっぱりこうなるのか、と太郎は思う。
「あんたがこんなにすごく上手に踊っているのに、かあさん、自分の目で見ようとするとあんたを全然見つけられなくってねぇ……」
京子はしょげ返っていた。
「母親なのに……もうどうしちゃったんだろうってわけわかんなくて、ショックで……」
(しまったぁ……! 母さんのことまで考えてなかった……)
太郎は痛恨の思いで天を仰いだ。
太郎の『気』の操作はあくまで人間対象であり、カメラやビデオのモニター越しでは作用しない。
したがって、ビデオに自分が映ってしまうことは避けられない。
ナノマシンに忖度してもらうことも考えなくはなかったけれど、自分だけではなく自分の周りの生徒の保護者の撮影にも、たまたま太郎が画面に入ってしまうケースは当然起こるので、そうした人たちの貴重な記録を台無しにすることは許されないと思い、願うことはしなかった。
それについてはもう、やむを得ないと考えていたのだが。
そちらではなく、直に見えなくなる方が問題であったわけだ。
(母さんがぼくを見つけられなくなることまで、気が回らなかった……)
そこにいるはずなのに、いない。
いくら見ても探しても、自分の息子だけが見つけられなかったら、それはショックを受けるだろう。
京子が消沈するのも当たり前だった。
「……疲れてるんじゃないの?」
ほかに声のかけようがなく、太郎は言った。
「そうかなぁ。最近忙しいって言えば忙しいけど……仕事のせいかしら」
もしかしたら怒らせた方が元気が出るかな? と思ったものの、加齢のせいかもよ? とはさすがに太郎も言えない。
しかしほんとうの理由はもっと言えない。
「それより、お腹空いたよ。お弁当食べようよ」
「ああ、そうね」
京子は出しかけた弁当の包みをあらためて開く。そうして、ふと太郎の汚れた体操着に目が行った。
「おっと、そうだわ」
太郎はいきなり京子の怒気が膨らんだことに気がついた。
と思う間に、京子は立ち上がり、息子の頭に無言で拳骨を一発見舞った。
「えっと……痛いんだけど、これは?」
加齢のことはまだ口に出してないはずだが、と太郎は京子に理由を尋ねた。
「戻ったらまず一発と思ってたのよ、胸に手を当ててよく考えてご覧なさい」
いや、それに心当たりがあるならまず訊いたりしないんだけど、と思うものの、太郎はまあ体操服の汚れのことかな、と考えて「ん。ごめんなさい」と頭を下げると、お弁当に取りかかった。
「やっぱり母さんは怒ると元気出るな」と思ったのは口には出さない。
太郎が自分に向かって謝ったのを見ていた京子は、「ああ、これはわかってない」とがっかりしたが、考えろと言った手前、そう簡単に答えを言うわけにもいかず、これではせっかくできたガールフレンドにも、早晩振られてしまうのじゃないかと心配を募らせた。
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