第65話
市長宅からの帰り道、太郞とことりはお互いに非常に気まずい思いを抱え、黙って歩いていた。
太郞は、ことりに腕の中で失神されるとはさすがに予想しておらず、ことりの尊厳を守るためとはいえあれはやりすぎだったのだろうか、それともスピードの加減が足りなくて、驚かせたり怖がらせたりしてしまったのだろうか、と悩んでいた。
それに、この前はことり本人から「嫌なことはされていない」と明言してもらったが、同じ行為であっても、あのときはあのとき、今回は今回、という解釈までは考えていなかったことに思い至り、今度こそセクシャルハラスメントだったのでは、とも心配になっていた。
そしてとどめに多佳子の笑顔である。
よりによってあのタイミングで目撃されるとは。
せめて亜佳音の番のときであったら良かったものを。
というか、亜佳音からことりの番を言われる前におやつに呼んでくれたら、すべて問題なく収まっていたのではないか。
そこに恨み言を言っても詮無きことではあるが、太郞としてはあのあと露骨に含み笑いする多佳子のほうもまともに見られなくなり、事情のわからない武雄におかしな顔をされながら、市長邸を辞去することになった。
もう行くことはないかもしれないにせよ、今後は非常に多佳子とは顔を合わせづらい。
いっぽうのことりも、あれからすぐに息を吹き返したので騒ぎにはならなかったが、まさか太郞の前……というか腕に抱かれて意識を飛ばしてしまうとは。
顔から火が出るとはまさにこんな気持ちのことを言うのだろう。
しかしことりにしてみれば、またも予期せぬお姫様抱っこをされてしまったわけで、心の準備ができていないところに夢見たシチュエーションの再降臨である。
昂ぶった感情を持て余した挙げ句に、失神してしまったのも無理からぬことではある。
……あるのだったが、それでもことりは、いったい太郞に何と思われたのだろう、といまも気が気でなかった。
しかもこの雰囲気のまま別れると、明日以降の学校でもおそらく気まずいままになってしまう。
それは避けたかった。
しかし、ことりの家はもうすぐそこだ。
どうしよう? どうしたらいい?
ことりはテンパった状態でぐるぐると思考し、家の前に達したところで、思い切って太郞に声をかけた。
「……た、太郞ひゃん」
そして噛んだ。
「はい」
気にせず、あるいは気づかずに太郎が応える。ことりも勢いでそのまま続けた。
「あの……うち、寄ってかない?」
「えっ?」
太郞が驚いていた。
が、実はいちばん驚いていたのはことり自身であった。
(えっ? ええっ! わ、わたし、なに言っちゃってんの?)
「いいの……?」
「もちろん」
(もちろんとか! いやそりゃもちろんだけれども、もちろんとか! 誰が答えてるのよこれ?)
「なら……喜んで寄らせていただきます」
「うん」
(よかった! 断わられなくてよかった! けど、わたし? これわたしが言ってんの? ほんとに?)
「じゃあ……」
と、そこでことりがふっと冷静になった。
今日は週末である。
つまり、家には家族が全員揃っている。
ということは、家族に太郎を紹介することになってしまうわけだ。
弟の海里は既に会っているが、母はともかく、父に会わせて大丈夫なんだろうか? と不安になる。
いや、最大の問題はそこではなかった。
家族がいる時間に太郞を迎えるには、そして二人で話をするには、太郞を自分の部屋に上げるしかない、ということなのだ。
(上げるの? 男の子……太郎ちゃんを、わたしの部屋に??)
今日家を出るときに、部屋がどんな状態だったか必死に記憶を掘り起こす。
……だめだ、細部が思い出せない。
やはり上げる前にチェックし直すしかない。
いっそ、海里の部屋を強制徴用するか?
いやさすがにそれは抵抗が激しそうだ。
母も海里に味方するかもしれない。
それに徴用できても、話の途中で海里が部屋の持ち主として乱入を試みないとも限らない。
そのリスクは避けるべきだろう。
となると。
「太郞ちゃん。五分だけ、待っててもらえるかな?」
「あ、はい」
にっこり笑って太郎にステイを指示し、ことりは家に入ると自室へ駆け込んだ。
「お、お待たせ」
ことりが玄関から再び顔を見せたのは、10分以上経ったあとのことだった。
たぶん、今日家に上げることをあらかじめ予定していたわけではなかったのだろう、と太郎は考える。
先程の抱っこのことがなければ、今日もいつも通り、ことりを家の前まで送ってそのまま別れることになったはずだと思う。
太郞にとっても、クラスメートの女子宅に上がり込むなどということは、小学校の頃から思い起こしても初めてだったので、ことりがこの10分を何に使ったのかまではわからなかったものの、きっと急いで準備が必要だったんだろうな、と思いを巡らせていた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
おっかなびっくりで玄関に入ると、ふっと「他人の家」の匂いが太郞の鼻に届く。
生活感のあるそれは、しかし決して不快なものではなかった。
「こっちよ」
人の気配はあるので、家人の在宅は間違いなかったが、とりあえず誰とも顔を合わせずことりの部屋に行くことになるようだった。
挨拶した方が良いのかな、と思うものの、相手がいないのではどうしようもない。
案内されるまま太郞はことりに付いて二階へ上がる。
初めて入る女子の部屋。
緊張して冷や汗が出そうな気分を味わいつつ、太郞はことりの部屋に足を踏み入れた。
六畳ほどの広さに収納の付いた洋間である。
学習机とベッドに本棚があり、使い込まれた感じのバスケットボールが転がっているほかは、太郞の部屋と調度品はあまり変わらない。
中をあまりじろじろと見るものではないなと思いながらも、何より目を引くのは壁に何枚も貼られたアメコミヒーローのポスターであった。
(……なるほど)
映画のものあり、雑誌に付いていたらしきものあり、種類はさまざまであったが、ことりのアメコミヒーロー好きが非常によく理解できる部屋だった。
ベッドにぬいぐるみなどもあるにはあったが、いわゆるかわいいものが多い感じではない。
かわりにヒーローのフィギュアが本棚や机に飾られていた。
アメコミ関連の書籍やディスク類も多い。
「あ……ご、ごめんね? なんか趣味おかしいよね」
太郞の目線に、ことりが慌てて口を開く。
「ううん、そんなことないよ」
それにことりの趣味そのものはもうわかってたし、とは口にしなかったが、太郞にとって驚きはなかったのも事実である。
けれど、こうしてことりの部屋を見せてもらうことで、太郞にはすとんと腑に落ちたのだ。
(なるほど。だからことりさんは、超人化した同級生をすんなり受け入れられたのか)
ずっと不思議だった。
太郞がある日突然に超人的な力を手に入れたこと。
のちに、それは宇宙人によってナノマシン体にされたのが理由とわかったこと。
太郞自身は当事者であり、信じられようが信じられまいが、自らの身体に起きたことであって、その事実は不変である。
仮に受け入れられなかったとしても、もとの身体に戻れるわけではない。
しかし、ことりにとってはあくまで他人の話である。
証拠を見せようと思えばいくらでもできたとはいえ、そうしたプロセス無しに、頭から太郞の話を丸ごと信じてくれた。
それは太郞にとって一番欲しかったもので、ことりがいてくれたから太郞は冷静に現実と向き合えたと言っても過言ではない。
まさに救い主と言ってよい反応ではあったが、けれどなぜことりは、その太郞が求める反応を示してくれたのか。
それがずっとわからなかったのだ。
(確かに、アメコミヒーローになら、あっておかしくないパターンだものな)
だからことりは、太郞のような突然の超人化を「そんな話があったらいいな」というものとして想像していたのではないか。
もちろん、本来ならそれは空想の世界、作り話だけで終わるもののはずだった。
それが図らずも現実のクラスメートに起きていたと知ったとき。
むしろ積極的に「やっぱりあるんだ」、いや「あってほしかったんだ」という具体的な願いに変わったのではないだろうか。
とすればことりは、太郞を通してアメコミヒーローを見ているのだ。
夢に見たヒーローが、いま現実のものとして降臨したと考えているのだろう。
ならばいっそ、太郞の話は丸呑みにこそすべきもので、疑いを差し挟んではならないもののはずだった。
疑ったら、せっかく現実になった夢が壊されてしまいかねないからだ。
太郞は部屋に入ったときの緊張と高揚が、すうっと冷めていくのを感じていた。
(ごめんね、ことりさん。ぼくは……そんなヒーローなんかじゃない)
ヒーローは、その超人的な力を以て、悪に立ち向かうからヒーロー足り得るのである。
逆説的に言えば、まず悪の存在なくして、ヒーローはヒーローになれない。
災害支援、人命救助といった役割のヒーローであればまた話は別だろうが、敵と戦うヒーローが正義の側にいるには、相手こそが悪であることの認識が必要不可欠なのだ。
しかし現実世界に、そんな誰が見ても悪と決めつけられる絶対悪はまず存在しない。
誰もが自分の正義を物差しに、対立軸を悪と考えるのが普通だからだ。
片方の側から見たら悪であったとしても、相手側から見れば善悪は逆転する。
たとえば犯罪者でさえ、多くは自分にこそ理があると考え、自らの行為を邪魔する者が悪いと自己を正当化する。
犯罪行為をやらねばならぬ理由をひねり出し、自分を納得させる。
重要なのは自分であって、それが他人から見たときに、共感されるかどうかは関係がないのだ。
そこに迷いがあるようなら、犯罪行為を行うには至らないだろう。
自分の側が絶対に悪いと自覚して、なお行動し続けられるものはそう多くはない。
対立軸の反対側にいる者にとっては理解しがたい理不尽な悪に見えても、立場や見方が変わればその価値観は、がらりと変わるのである。
太郞の身に起きたことで考えれば、太郞は相手が悪だから戦ったのではなく、ただ敵対してきたから戦ったに過ぎない。
基本的に、身に降りかかる火の粉を払っただけなのだ。
自分が正義であるとも、ヒーローであるとも考えたことなどない。
唯一の例外は、亜佳音の誘拐を阻止したときだろう。
しかしあのケースも、誘拐の対象が庇護されるべき幼子であったから、考えることなく身体が動いたものだといまなら言える。
もしもクルマに連れ込まれたのが小さな子どもではなく大人であったなら。トラブルとは思っただろうが、犯罪とまでは思わず放置したかもしれない。
あるいは、積極的に関わるのを避けようとした可能性さえあった。
自分を含め、自分にとって守りたい周りの人々が危害を加えられそうなときは、これからも迷いなく力を振るうつもりはある。
そこに疑問は持っていなかった。
だがそれだけだ。
世間にはびこる悪を成敗し、見知らぬ弱き者たちを守って戦おうなどという気はさらさらなかったのである。
(こんなの、ヒーローなんて言えないよね)
超人的な力があるからヒーローなのではない。
その意志が、行動がヒーローをヒーローたらしめる。
超人であれば、ただできることが常人より増えるだけなのだ。
いずれ……もしかしたら近いうちにも、ことりもきっと気づく。
気づいてしまう。
太郞は超人であっても、ことりの求めるヒーローなんかではないことに。
ことりが太郞に向ける好意は、太郞を通して見ている超人ヒーローへのものだろう。
だから勘違いしてはならないのだ。
いつか理想とのギャップに目が覚めて、ことりの好意は太郞のものではなくなる日がやって来る。
(亜佳音ちゃんの件があるまでは、そもそもぼくとなんてろくに話したことさえなかったのに……)
いっぽうで太郞は、もう自分がことりを好きになっていることに気づいていた。
いくら恋愛感情に鈍いと自覚のある太郞であっても、ことここに至っては、ことりに惹かれている気持ちが自分の中にあるのは認めざるを得ない。
だから、ことりが太郞に向けてくれる好意は嬉しかった。
好きな人も、自分のことを好きであってくれたらいいなぁと、それがもしかしたら叶うのかと、期待せずにはいられなかった。
(でも、どうやら違っちゃったみたいだ)
ことりは太郞ではなく、太郞を通して超人ヒーローに好意を抱いている。
現実に存在したアメコミヒーローもどきに夢を見ているのだ。
ただ勘違いだったからといって、ことりと縁を切ることなど太郞には考えられない。
ナノマシン体になってしまった自分の秘密を隠すことなく、すべて聞いてもらえる相手はことりしかいない。
その存在を失ってしまうことは耐えがたかった。
できればこれまでどおりに、仲良く過ごしていきたいと願った。
だから。
(わきまえよう)
太郞は考えた。
この先も、ことりは太郞に好意を示してくれるだろう。
嫌な相手だったら、わざわざ誘ってまで部屋に上げたりしない。
それくらいは太郞にもわかる。
それはありがたく受けよう。
しかしことりの好意は、ほんとうは太郞が太郞として受け取れるものではないのだから、そこを間違わないように気をつけよう。
そう思った。
そして努力せねばなるまい。
ことりの期待をできる限り裏切らないように、ことりに愛想尽かしをされるその日が、一日でも遅くなるように。
(致命的な思い違いをする前にわかっただけでも、よかったのか、な?)
太郞からは、ことりの部屋に入ったときの浮ついた気持ちが消え、すっかり落着きを取り戻していた。
そこへ、ことりの部屋のドアがノックされる。
ことりが返事をする前にドアが開かれ、入ってきたのは母親の紗英であった。
「ことり、お茶持ってきたわよ」
「お母さん! わたしまだノックの返事してないんだけど?」
「あら、そうだった? ごめんなさいね」
ことりの抗議に、紗英がちっとも悪いと思っていなさそうに詫びた。
「お邪魔しています」
太郞が紗英に頭を下げる。
「はい、いらっしゃい。あなたが、てっ……穂村君ね」
「? はい、そうです」
て? 太郎が一瞬、まさかという顔になる。
この家族にまでてっぺんの通り名が浸透しているのか? と訝しんだのだが、さすがに自分の母親が会社で鉄壁と呼ばれていることまでは知らなかった。
「ことりからよくお話聞かせてもらってるわ。仲良くしてくれてありがとう」
「ちょ! お母さん?」
またも抗議の声を上げたことりに、紗英は「お客様を立たせたままなんて、だめじゃない」と逆に説教を垂れる。
あ、という顔のことりを見て、紗英は開いたドアから外へ声をかけた。
「海里、お願い」
呼ばれて、部屋の外にいた弟の海里が小さな折りたたみの座卓と、座布団を二つ持って入ってくる。
確かに、ことりの部屋には勉強用の椅子しかないので、座るとなればあとはベッドに腰掛けるか、フローリングの床に直座りをするしかない。
座布団は必要だった。
「こんにちは」
「……こんちは」
太郞に対してむすっと仏頂面の海里は、学校の廊下で海里が走り去るのを見送られて以来の再会であった。
今日の海里は紗英から手伝いを言いつけられただけのようで、とくべつ太郞に絡む様子もなく、持ってきた座卓と座布団を床に並べると、「これでいい?」と言って早々に部屋を出て行く。
紗英が座卓にティーカップと茶菓子を置くと、紅茶の良い香りが立ち上ってきた。
ことりが紗英にそっと「お父さんは?」と小さく尋ねる。
紗英は「無理! だって」とだけ答え、太郎に向かって「ゆっくりしていって」とにこやかに言って、部屋を後にした。
「あ、紅茶で大丈夫だった?」
確か太郞はコーヒー派だったような、と思ってことりが太郞に訊くと、太郞は「大丈夫」と頷く。
二人でカップに手を伸ばし、紗英の淹れてくれたお茶に口を付ける。
そしてその間、ことりは内心首をひねっていた。
(何だろ? 太郞ちゃんの雰囲気が変わっちゃった……?)
ほんのちょっと前まで、太郞もどこかそわそわして落ち着かない雰囲気だったはずだ。
もしも自分が太郎の家に招かれたら、きっと冷静ではいられないので、太郎も同じ気分なのかなと思っていた。
さらに部屋に入ってくるまでは、なお緊張とどこか浮ついた感じがあったのに、いまの太郞にはそれがない。
紗英のちょっとしたからかいの言葉にも、照れたり慌てたりといった反応がなかった。動揺からの回復が早い?
いや確かにもともと太郎にはそういうところがあるけれど……落ち着いた、というよりも、これは醒めたといった方がよいような。
まるで太郎から一種の熱が消えてしまったような。
話はいまも普通にできている。
というか、むしろ話しやすい感じさえしている。
だけれど太郎は明らかに、さっきまでより、ことりに対して一歩引いていると感じられた。
(わたし、何をやらかしたんだろう……?)
部屋の中に散らかっていたあれこれは、まとめてクローゼットなどに放り込んだ。
直前に紗英のチェックも受けているし、少なくともぱっと見は来客を迎えられないような汚い部屋ではない……と思う。
とくに見られて困るとか、恥ずかしいものはちゃんと見えないところに隠してある。
というか、恥ずかしいというのはことり側の問題であって、太郎がことりに対して一線を引きたくなるようなものなど、そもそもあったとは思えない。
アメコミ趣味はきっともとから知られているはずだが、とはいえ女子の部屋にこのポスターのチョイスはない、とでも思われたのだろうか?
太郎に限って、他人の趣味趣向に対してどうこうという偏見などなさそうに思っていたのだが。
(うーん、わからない)
既に二人の間に、市長宅で生まれた気まずさはなくなっていた。
その代わりに親密さまでもなくなった……とは言わないまでも、はっきりと希薄になった気がした。
せっかく遠慮の要らない二人だけの時間の中で、ことりは太郎に、修学旅行の二人で乗ったアトラクションの感想を尋ねることが、とうとう最後までできなかった。
お読みいただきありがとうございます。
週に1話ずつ更新します。
カクヨム様にも投稿しております。




